2011/11/30

人生色々こぼれ話(11) 〜戦後の始まり

人生色々こぼれ話(11) 戦後の始まり



天皇の詔勅で戦争は終わった。敗戦の国民的なショックは計り知れないほど大きかった。“勝利の日まで”を合言葉に一億総決戦を胸に秘めてこれまで戦い抜いてきたのだ。その挫折感で日本は立ち直れないのではないかとさえ思った。

然し人々はただ黙して耐えた。彼等は天皇のご英断に心を傾けつつも溢れる無念、無情の想い絶ちがたく、正座して宮城前にひれ伏し涙した。無辜(むこ)の民のこの耐え難い姿を聖戦の責任者である大元帥陛下はどう感じとられたであろうか。

軍国日本は永久に戦争を放棄し平和日本として生まれ変わろうとしていた。そして焦土と廃墟の中からの復興も少しづつ始まった。

昭和20年9月1日には曲がりなりにも新学期(私は中学4年)が再開し級友達は、学校に集い、お互いに無事を確かめ合った。陸幼、海兵の勇士達も帰還してきた。再び剣を筆に変えて学業に励む日が帰ってきた。

戦後が始まった。



私たち一家4人は家もなく、焼け残った本家(:*1)の家での居候を余儀なくされたが、復員してきた親戚や疎開先からの引き揚げを含めて一族郎党20名近くだが、それぞれの家族が部屋をあてがわれ集団生活をした。

山形から来ていた力持ちの心優しき女中Cさん(私たちは彼女をchiyobusuと呼称していた)は故郷に帰らないで留まってくれた。 今でも仲良く我々世代の「羽佐間いとこ会」が続いているがこのキャンプ生活は共有の歴史となっていて連携の絆のように思える。

食べ盛りの子供達が多く、食料の調達は並大抵のものではない。食料、日用品、酒、タバコに至るまですべて切符配給制(これは戦争中から続いていた)であるが、瞬く間に底をつき、母達は千葉の農家に闇米や野菜の買い出しに出かけた。

駅頭などで捕まれば統制違反で没収のリスクはあるが、着物や帯と食料品の物々交換は日常茶番事であった。戦時中から続いているタケノコ生活の知恵である。

サツマイモが貯蔵されている部屋があり、これが私たち3兄弟にとっては絶好のねらい目となり、深夜ともなると、二階から外へ物干し台の柱伝いで外庭に抜け出し、ストック場所の窓から侵入する。収穫した芋をひも付きのバケツで吊るし上げるのだ。少年時代に鍛えた木登りなどの軽業が大いに役に立った。 煮炊きは私が動員の時に確保した電熱器(ニクローム線と称する簡易コンロ)と鋳物の飯ごうである。大量の在庫の山から2,3本ずつ頂戴するので、痕跡は留めない。私たちの飢えを凌ぐ最たる方法として今尚秘話として残っている。


配給米は7分づきのいわば玄米(玄米の皮が30%残っている米)なので炊いても固く、まずくて食べられない。すぐにお腹を壊す。業者は違反となるので精米が出来ず、みな自宅で一升壜に米を入れて棒で突いて皮を取り除く手動式精米法が普及していた。僅かなお小遣いでこの作業にたびたび駆り出されていた。しかし口にする主食は、おもゆに、さいころサイズのサツマイモが浮かんでいる流動食である。


「すいとん」と称する代用食は本当にまずかった。お湯を沸かし緩くといた小麦粉の塊を落とし固まったところで殆ど味のない汁で食するのだが、浮いているものはサツマイモや南瓜の茎と葉っぱである。高粱の一見赤飯を思わせる真っ赤な固いご飯、粟や稗、食べられるものは何でも口にした。

海岸で海水を汲んできてすいとんを作ったという話さえある。

塩もないけど、糖分も乏しい。当時某火薬会社が「ズルチン」という変な名前の化学甘味料を開発しこれがヒットした。然し副作用が問われて間もなく衰退したように思う。



どういうわけか、私は家庭農園作りが好きで、防空壕の上や狭い空間を見つけては、枯れ草を焼いた灰と若干の自家製おわいでトマトやナス、きゅうりなどビタミン補給のできる野菜を栽培し食卓に供し好評を得た。サツマイモも挑戦したが、細いひょろひょろのうちに食べてしまいまともに収穫したことはなかった。

信じられないことに後日私は中学5年から「東京高等農林」(現在の東大農学部)を受験し落ちた。ばあさんが「英二は手先が器用で、畑つくりも好きだから・・・」との単純な理屈に後押しされて軽はずみに受験したが落ちてよかった。

もし受かっていたらやがて山深き営林署か、さいはての酪農工場勤務であったことだろう。後には世界辺境の地で米や小麦つくりのボランティアに励んでいたとも思える。意外と「エイジー」と慕われ地元の名士に名を連ねたかもしれない? 
姪の長男が現在、岩手大の獣医学部に在学しているが将来が楽しみである。



自家製パンは結構いけた。やや大きな弁当箱型の木箱の左右内側にトタン板を張る。+-の電極をつなぎ、この箱の中にふすま入りのメリケン粉と重曹少々を練り合わせた生地を入れコンセントにつなぎ時を待つ。10分もするとふっくらと蒸しパンのように焼きあがる。途中で半生の生地を触ると感電するので要注意であるが、このパン製造機はやがて市販品も出され普及した。


タバコの葉をきざんだものが配給されるのでこれを薄手の紙に手でくるんで吸うのだが大人たちは一日5本くらいの割り当てでは到底足りず、イタドリ、梅、椿、などの葉を乾燥させて刻みこれをタバコとブレンドして吸っていた。松の葉も乾燥させて点火するとパチパチと音を立てて煙を出した。口の周りで焚き火をしているようなものだ。一本づつ巻くタバコ紙巻器も売り出され一家に数台が常備された。


戦争後半には敵性語で無用化した「英和コンサイス辞典」が最高の紙質だった。1冊1200ページくらいあるので600本が巻けた。中には単語を覚えるとその頁を食べたりタバコ巻きに転用している輩もいたが所詮空しい努力である。

私は中学4年の頃いたずらでタバコを吸ったが、一度駅のトイレで友達と吸いっこしてその場で倒れた。まともに喫煙したのは大学に進学してからだった。



酒も配給制であるが婚礼などには特別に一升壜が配給されたようだ。アルコール分8度くらいで、金魚も泳げる「金魚酒」といわれた。叔父達は、お酒好きが多く何処から手に入れるのか結構「どぶろく」などを飲んでいた。
時に、闇のルートで「白鹿」という清酒を仕入れてきた。


母の弟のT叔父は、戦前から新橋で立ち上げた名門焼鳥や「串助」(;*2)の再興を目論んでいた。

今流で言えば脱サラ(当時は東鉄、現在のJR東日本勤務)であるが随分思い切った決断をしたものだと思った。
実はそこで扱ったのが灘の銘酒「白鹿」だったので後日謎が解けた。



(*1)羽佐間家は赤穂義士の末裔である。当時は羽佐間ではなく間を名乗り、喜兵衛光延(
元禄十六年二月四日、細川家に於いて切腹、享年六十九才)その子息の重次郎光興、(水野家に於いて切腹、享年二十六才)新六郎光風(毛利家に於いて切腹、享年二十三才)が四十七士に加わり主君の無念を晴らした。
吉良上野介を突いたと言われる重次郎の一番槍は泉岳寺に寄贈されている。
現在の当主Sさん(十代目)は重次郎の直系の子孫で私たち3兄弟の従兄(父の兄の長男)にあたる。
医者、検事正と真面目で固い家系であったが近年はマスコミ、キャスター、声優など口演
関係の系譜に変わったようだ。
何でも前向きに動く、曲がったことが嫌い、反権力志向、など皆似ていてこれも義士の血統かもしれない。


(:*2)戦後2,3年後であるが、やがてこの「串助」は文化人、芸能人のたまり場となった。和田信賢、松内則三、竹脇昌作、藤倉修一などのアナウンサー、小さん、正蔵、円歌、柳橋、正楽、しん生などの噺家達、堀内敬三、サトーハチロウ、徳川無声、渡辺伸一郎といった文化人が集いいつも店は賑わっていた。
「橘右近」とう橘流寄席文字の家元の書いた常連客の名札が店内の壁面狭しと嵌めてあり
私はそれを眺めているだけでも楽しかった。
以上



(戦後のプロローグはやはり食べ物からとなりました。飽食の現代から見れば信じられない世相ですが終戦直後は年末にかけて餓死者が続出しました。日比谷公園で餓死者対策国民大会なるものが開かれました。暗黒時代から次第に夜が明けてゆくのですが道のりは平坦ではありませんでした。

私はこれからもこの寄稿を続け完結する義務があるように思えてきました。

つまり娘が言うようにこぼれ話ではなくなってきたようです。丁度時間となりました。お後がよろしいようでとは行かないようです。

そこでお願いがあリます。明年からこれまでの毎月2回の掲載を1回にしたいと思います。毎月1日頃出しますのでどうかご愛読を続けて下さい。正月はお目出たい気分を損なってはまずいので、少し遅らせて掲載します。)

2011/11/14

人生色々こぼれ話(10) 終戦

人生色々こぼれ話(10)
終戦

20年3月10日にB29、110機による東京の下町を焼き尽くす大空襲があり、10万人が殉じた。4月には米軍が沖縄本島に上陸した。

5月25日には東京山手地域への猛爆が続いた。私たちは当時高輪の本家に住んでいたが、五反田方面からの火の手が迫り、遂にその時が来たと観念した。従兄のSは家が焼失しても「世界文学全集」を残したいというので、これを持ち出す作業が大変だった。何しろ重いので10冊も抱え込み階段を下りて外に持ち運ぶのだが、100冊以上もあってとても間に合わない。とうとう最後は3Fの窓から下に放り出すこととなった。

1時間ほどの焼夷弾爆撃を受けて、あたりは火の海となりもはや延焼は免れないと思った。然しやがて風向きが変わり、懸命の消火活動も奏功し高台の一角だけが奇跡的に焼け残った。これも強運この上ないことである。

青山に住む叔父(母の弟)の一家は、家を守り最後に墓地に逃げた叔父と長男は幸運にも助かったが、早めに逃げた叔母始め一家6人が表参道の路上で犠牲になった。 翌日弟達が探しに行き重なり合う黒焦げの遺体をそれと確認した。焼け爛れた小さな金庫が印しだった。

現在の港区、品川区、渋谷区、新宿区の辺りが焦土と化した。遺体の燃える凄惨な現場の映像は打ち払っても尚脳裏をよぎることがある。親や兄弟を失つたであろう少女が泣きじゃくりながら焼け跡に佇んでいた光景を忘れることはない。


世界のどこかで、今尚戦争やテロが繰り返されているが、平和ボケと呼ばれても日本は素晴らしい国土だと思える。



5月の空襲で動員先の五反田にある広大な電気試験所も焼失した。一時学校に戻り次の動員先の命令を待つ身となった。そして今度は福生にある陸軍の飛行基地に決まった。

7月始めの或る日11時に青梅線福生駅に集合せよ、とだけの指示である。何をするのかも分からずに私たちは戦場に駆りたてられる様な気持ちで家や家族と離れた。帰れないかもしれないとすら思った。飛行場なので「グラマンF4F」など艦載機の襲撃が激しいに違いないと思った。

仕事は畑つくりが主たるものであった。サツマイモを栽培し航空機燃料のアルコールを採取するという。(いわば芋焼酎で飛行機が飛ばせるのだろうか?)それに宿舎の清掃、防空壕の整備、軍機の清掃、敵機爆撃跡の穴埋め、といったものである。とにかく朝から晩までの労働である。くたくたになり粗末なベッドに寝ると今度は南京虫の襲来である。ひっきりなしの波状攻撃に辟易する。


予想したように、昼間は艦載機が飛来する。敵兵の顔が見えるほどの低空での爆撃、機銃掃射でとにかく近くの防空壕にすばやく潜りこみ身の安全を図るしかない。迎撃する戦力が無いので、敵の思うままである。整備中の戦闘機が爆破、炎上される。機関銃で迎え撃つものの敵機に命中した試しはない。粉みじんに飛ばされて戦死する兵もいた。

口には出せないけどいよいよ日本は敗けるのではと思った。それでも「荒鷲の歌」「勝利の日まで」などの歌で鼓舞し、耐える日々が続く。中学に入学した頃の希望に燃えた赤き心は色あせていた。



♪嫌じゃありませんか軍隊は、かねの茶碗にかねの箸、仏様でもあるまいに、一膳めしとは情けなや♪と厭戦歌の通り、大豆入りの飯に、味気のないおかずでは元気は出ない。早く帰りたいとの想いが募る。

正雄は動員対象ではないが、学校に通っているだろうか。道夫は長野県に集団疎開をしているけど元気でいるだろうか。母の日々の暮らしぶりはどうか。など寝ながら思いを巡らせることもしばしばであった。

昭和20年8月に広島、長崎に相次いで原爆投下、そして8月15日、歴史に幕を閉じるその日がきた。

師団長以下整列し正午に終戦の詔勅を恭しく聞いた。玉音の中身はともかく、日本は無条件に敗れた。無念の涙が頬を伝わってとめどなく流れた。 やがて身の回りや宿舎を整理し、私たちは、大豆を土産に悄然と帰路についた。誇れるもの、輝けるものは何も無かった。生きていた喜びを思う心すら失っていた。


ただ真夏の陽光だけが眩しく長い影を落としていた。それは灼熱の暑い日であった。


1億総決戦だけは免れたが、汗のにじむぼろぼろの服をまとい、心空しく家路を目指したそのときから想像を絶する混乱と苦難の戦後が始まった。

残る愛機に乗り、飛び去ったまま帰還しなかった軍人がいたという。大君(おおきみ)の辺(へ)にこそ死なめ、顧みはせじ!の一節を残して。


この戦争の犠牲者は戦闘員1,741千人、非戦闘員393千人の記録が残っている。 焦土と化した都市は66にのぼる。市民の頭上に降り注いだ爆撃が無差別殺戮だったかどうかを戦後問われたことはなかった。 軍事目標だけを狙ってのじゅうたん爆撃などありうるはずがない。

人間の尊厳を踏みにじり、虫けらのように尊い命を奪ってゆく戦争は、国家や民族が犯す最悪の罪であり、どこにも正義などありようがない。


以上

(丁度第十話で戦争が終わったことになります。長くお付き合い願い有難うございました。然しこれから私自身姿を変えながら生きてゆく戦後が始まります。どんな展開になるのでしょう。どんなことから書き始めたらよいのかまだ暗中模索です。じっくりと噛締めながら書いてゆきたいと思います。)

2011/10/31

人生こぼれ話 (9)東京大空襲

人生色々こぼれ話(9)
東京大空襲

中学の制服はカーキ色(当時防空色と呼んでいた)で学帽は戦闘帽、そして登校、下校時には巻き脚絆の出で立ちである。女学生もセーラー服にもんぺの戦時姿に変わっていった。当時我が家は駒込にあり、JR(省線電車)山手線で恵比寿まで通学していた。何しろ途中に池袋、新宿、渋谷があるので帰路の途中下車はしばしばであった。

家の近くに日枝神社があり何かと集い合う格好の広場であった。母の相談相手となってくれていた慶応ボーイのKさん(私たちは傳さんと気安く名前を呼んでいた)はハンサムで、ウクレレにのせて自作のメロデイを聴かせてくれた。今でも口ずさむと懐かしさが蘇る。浅草・神谷バーの一族の人だった。先ごろ家内と近くを訪ねてみたが、日枝神社の社殿と大銀杏は昔の姿を留めていて何か安らぎを覚えた。


数年前弟がKさんを探し当て我々兄弟で是非再会をと懇請したが、電話での声は聞けても、顔を合わすのは遠慮されてどうしても想いは届かなかった。



中学に入学した17年4月には早くも米機の本土空襲が始まり、6月には日本はミッドウエイ海戦で惨敗を喫している。そして翌年2月にはガダルカナルにて敗退、5月にアッツ島玉砕と敗色が続く。“北海の寒気厳しきアッツ島2千の将士華と散らるる”当時私の作った和歌である。

東京にも時に警戒警報のサイレンがこだまするようになる。(空襲時には空襲警報が断続的に鳴る)灯火管制といって家中の灯りを消すか、黒いカバーで覆うのが義務である。灯りが隙間から漏れていて警戒中の防空班員からひどく怒られたこともあった。


昭和18年3月に父が天国に旅立った。連続する全国各地への炭坑出張の疲れからか結核を患い、1年ほどの闘病のあと45歳の若さで他界した。


寒い払暁であった。悲報を聞き、兄弟3人で本郷の東大病院に言葉も無く駆けつけた。父は霊安室で静かに目を閉じていた。私たちは心を引き締めて、これからの多難な時代に立ち向かうことを誓い合った。私が中学1年の3学期、弟がそれぞれ小5、小3であった。兄弟の結束がそのときに始まり、今も仲良く付き合えているような気がしている。

母は気丈な明治女であったが働き手を失い、食べ盛りの3人の男の子を抱えて戦中、戦後の労苦は計り知れない。阿修羅のごとく立ち向かうその頃の母の姿が瞼に浮かぶ。

先にも話したが、まともに学業を受けるより、修練、訓練の方が正課になっていった。昭和18年10月、箱根須雲川での4日間の禊(みそぎ)の辛さは今でも身にしみて覚えている。

白装束、鉢巻姿で勢ぞろいし、神池に入る時は一斉に褌一本である。水に入って両手を前に組み上下に動かしながら体を揺すり“天照大神、天照大神・・・・”と唱えるのだが最後の方は体がしびれて身を切る冷たさすら感じなくなる。
禊が終わると五分粥にごま塩、梅干一個の朝食であるが“箸とらば 天地御代の御恵 君と親とのご恩味わえ“と唱え、食事が終わると”飯食終わりて新力満ちたり 勇気前に倍し事為すに耐えん“となる。質、量とも”新力満ちたり“と言えたものではない。そのあと有難い修身の話を聞いてにぎり飯を持って箱根八里を歩き回るといった修行である。


孫のshunがアメリカで16歳くらいの頃ボーイスカウトの訓練で難行苦行の行軍をした(彼は2005年にイーグルスカウトという最高の栄誉を得ている)が私の14歳の修行と重なりあうような気がする。


軍事教練(当時は陸軍省からの配属将校がいた)は日常茶番事であるが、俵担ぎ、投擲、銃剣術など苦手である。何か武術をということで柔道に救いを求めるものの、これとて後手に回ることが多く、特に寝技は不得意であった。一度強烈な体臭のS君に首を絞められ毒ガスを嗅がされたように悶絶寸前になったこともある。以来とらうまで彼と組んで倒されると、絞められる前に“参った”を余儀なくされた。

比較的強いのは、長い20km~30km位の行軍であった。背嚢を背負って夜間、雨中、雪中など落伍することなくゴールできた。後年歩き回るゴルフ、渓流釣り、スケッチ紀行が平気なのは少年時代からの素質かもしれない。


然し毎週月曜日の早朝駆け足はきつかった。制服、制帽、軍靴にゲートル巻きで中目黒、渋谷、恵比寿などのルートを2列縦隊での駆け足である。隊列が乱れたり、ゲートルが緩んだりすると配属教官から横ビンタを食らうことになる。


月に1回仙川の農場で農業実習があったが、自然に親しむ機会でもあり種まきから収穫までの楽しみもあって好きな行事であった。帰りに大根やサツマイモなどの収穫物のお土産つきである。

戦局は厳しさを増し、昭和19年(1941年)には集団疎開(下の弟は信州に疎開)、1億總武装、17歳以上は兵役編入となった。神風特攻隊はこの年の10月に初出撃をしている。

米機の東京空襲は日増しに激化しいよいよ本土決戦の構えになった。


私たちは20年3月の東京大空襲時、雑司が谷(駒込のあと転居)で雨あられと降りそそぐ焼夷弾の爆撃で罹災し、やむなく昭和16年に上京の時お世話になった高輪の本家に再び転がり込むこととなった。
雑司が谷での猛爆の夜、赤い炎をあげて私の目の前を焼夷弾が走り、地面に突き刺さった。後数十センチの所で私は直撃をまぬかれた。奇跡という他はない。


その後5月頃だったと思う。東京駅の八重洲口で汽車の切符を求めるために長い列に並んでいた。30分を経過した頃、空襲警報のサイレンが鳴り終わらぬうちに、数十米後方に爆弾が炸裂した。時に私は切符売り場の窓口の前から2番目に並んでいた。

猛烈な破片が飛び散り、唸りをあげて爆風が人々を吹き飛ばした。とっさに頭に手をやり地べたに這い蹲った。体を動かしてみる。どうやら助かったらしい。後ろを見返ると粉塵が立ち昇り、人影は殆ど消えていた。傷ついて呻く声がする。切符売り場も爆風で吹き飛ばされていた。まさに地獄絵の有様であった。この強運に祖母は喜び、ご先祖様のお蔭と仏壇に長い時間手を合わせていた。この二度の強運は亡き父の庇護であったように思う。


20年2月(3年の3学期)には学業は事実上放擲し学徒勤労動員に組み入れとなった。勤務先は逓信省の電気試験所(五反田)である。仕事は明けても暮れてもほぼ暗室の中での現像、焼付けで防空壕暮らしみたいなものであった。軍事上の機密的な情報も含まれていたようで、内容の理解は不要で、機械的に作業するだけであった。O学園の女子生徒2名も配置されていたがその一人Hさんと後年早稲田のキャンパスでばったり会いお互いに健在を讃え合った。 

                                             以上

(戦時中の事は、子供達や、孫達に都度話してきたけど、こうして実録として文章に
組み立ててみると、ついこの間の出来事のようにその光景が見えてきます。次回は終戦の姿を書くつもりです。厳しく辛い話が続きますが、その後は信じがたい激動の戦後をいかに生き抜いたかをお伝えしましょう。事実は小説より奇といわざるを得ません。) 

2011/10/17

人生色々こぼれ話(8) 〜開戦そして進学

人生色々こぼれ話(8)
開戦そして進学

その年昭和16年12月8日、真珠湾への奇襲で日本は太平洋戦争に突入した。あたりは次第に戦時色に包まれてきた。4月に尋常小学校は国民学校に呼称が変わり新教科書にが制定された。そうだその意気♪とか 大政翼賛会の歌♪等戦時歌謡が流れる。

明けて17年、学友達は中学への進学準備に入る。ハンディキャップは大きく九州で恩師に後押しされた府立一中(現都立日比谷高)など望むべくもない。府立八中(現都立小山台高)を受けるが見事失敗。時に新設校で市立四中(多摩中)の募集があり、一次を落ちた優秀だった級友3人(今は既に故人)と共に合格となった。 父母はことの外喜んだ。

80名の少数精鋭、全寮制のもと未来は陸海軍の将校を目指すというものであった。その後戦局が悪化する中で結局多摩丘陵に出来るはずの学寮は沙汰止みとなった。それでも多くの学友は予科練、陸軍幼年学校、海軍兵学校へと自ら進んだ。

我が軍国の母は私が一向に関心を示さないのを嘆いていた。後に弟の正雄が軍人志向の名門校成城中学に進み漸く面目を施したようであった。


白金小学校の在学は6年の二学期,三学期の僅か半年であった。それでも卒業生である。霞むように遠いあの日のことなのに今でも級友相集い毎月17日に「となな会」と称して旧交を温めている。

たまたま絵を描く連中が多くお互いに出展の展覧会を観たりしている。昔の恋人みたいに毎月会って何をしているの?と奥方達は訝っているようだが、実に話題は尽きない。日々に楽しく安らけく♪(校歌の一節)昔話に花を咲かせ、時世を論ずる。

本年2月に横浜で催した私たちの夫婦展には8名も見えて楽しいひと時を過ごした。その中の一人Y君が或る紙面に投稿したコラムをお借りして紹介する。

“小学校(東京・白金)の同級生で絵画仲間でもある羽佐間英二(横浜在住)から送られてきたハガキを見た瞬間ギヨッとしました。そのタイトルが何と『水と油の夫婦展』いったい何を暴露しようというのか。決着はどうなるのか。

 然しよくよく見ると夫君の英二は水彩、細君の勝子は油彩の作品合同展示会(横浜:関内ガレリア・セルテ)への招待状であったというわけで二度ビックリ。

 決して溶け合うことのない代名詞である「水と油」を看板に掲げながらこともあろうに禁句の「夫婦」をトリに使うというキワモノから一転、絵画という洒落た落ちで締める。夫婦円満の現代風コバナシにできあがっていました。
本人は奇をてらう意図はないというけれど、つかい方や受け方によって変化する言葉の多面性、さりげなく教訓を示唆する意外性を改めて思い知らされました。“


毎年正月には幹事M君の企画で、元気に首都圏各地の七福神めぐりを続けている。人の中なる人たらん♪(校歌の一節)と志高く生きてきた良き友垣である。



中学時代は戦時そのものである。好きな課目の英語は敵性語として2年生で排除された。仕方なく教科書を元に母から英語を習った。母は往年T女学館で英国人教師から教育を受けたという。学業はそこそこに、柔剣道、夜間行進、山中にこもっての禊、座禅、登山訓練、学校周辺(恵比寿)のマラソンなど、まるで軍隊に準ずる日課である。

3年生の明治節(11月3日)に或る事件が起きた。猛烈な雨風を突いての参拝を強行するという。
誰が先導するのでもなく、皆裸足で校庭に整列した。全員反対の示威である。烈火のごとく怒った図画担当のT教師が一人一人を一歩前に出させ、「奥歯を噛締めろ、行くぞ!」と往復びんた、殴打の制裁である。一度始めたら止めるわけにもいかず、最後の頃は当の教師が殴りつかれ斃れてしまった。軍事教練担当のK教官(陸軍中尉)は加担せず静観していた。忠良なる臣民を傷つけてはならずの自重がそうさせたのかもしれない。

この年(昭和19年)サイパン島守備隊が玉砕、神風特攻隊がレイテ沖に初出撃、米機B29の東京爆撃が激化し、一億国民総武装、集団疎開など戦局は日増しに厳しさを増してきた。

親友のN君は陸軍幼年学校へ合格し、母に挨拶に来た。母はわがことのように喜び「お国のために手柄をたてて」と熱いいエールを贈った。軍国少年のN君は笑顔で敬礼して去った。母はその後姿を眩しそうに見送った。私とN君(愛知県在住)との交流は今でも続いている。

後年クラス会誌に投稿した彼の一節がある。

「一番親しかった友達は羽佐間英二君である。クリクリ坊主の色白の好少年であった。彼の家にも度々行った。背の高い美人のお母さんだった。そしてやんちゃそうな弟二人。
山の手の標準の家だった・・・・」


一学年下に、卒業後文学座に入り俳優となった小池朝雄がいた。当時は紅顔の美少年であった。TVドラマ「刑事コロンボ」で声優として当たり役となったが、私の弟道夫とも「フレンチコネクション」で組んでいた。惜しくも病を得て、54歳で早世している。


                                    以上

2011/10/07

人生色々こぼれ話 (7)〜 東京へ

人生色々こぼれ話(7)
東京へ

九州での少年時代の思い出話はまだ尽きない。然し前6話でもう大牟田を発ち東京に向かったのでもっと書きたい想いを敢えて断ち切り、舞台を東京に移すこととする。

関門海峡(当時は未だ関門トンネルは開通していない)を連絡船で渡り、下関から特急「さくら」で20時間ほどの長旅を終えて、初めて降り立った東京第一歩の地は品川駅であった。これが大東京かと思えるほどの、そこには静かな落ち着いた雰囲気が漂っていた。

現在の品川駅はあまりにも変貌し当時と比べようもないが、市電①系統で浅草行きの始発駅でもあった。今の高輪プリンスの辺りは竹田宮や北白川宮のお屋敷が連なっていた。だらだら坂を上り、突き当りを左折して暫く行くと高輪南町の羽佐間本家(父の兄)の家がある。お隣は山下太郎(山下汽船〕,嶋田繁太郎(海軍大将)などの立派なお屋敷町といった佇まいである。


小さな田舎町の社宅から出てきた文字通りのおのぼりさん3兄弟は、ただびっくりするだけで声も出なかった。洋風の洒落た玄関を入ると、ホールがあり左は応接室右は食堂がある。借り猫のように小さくなって、テーブルと椅子での食卓につくのだが、堅苦しくてものが喉を通らない。


1歳年上の従兄のS(当時麻布中、後年はフジサンケイグループ代表)は3Fのロフトに自室を構えていた。世界文学全集がずらりと並び、クラシック音楽を聴ける蓄音機つきである。
電話も,水洗トイレもあり、ガスコンロのある大きな台所、家族が住めるような女中部屋
がついている。飛び交う言葉の種類も生活様式も何もかもが違う世界に迷い込んだ感じであるが私たちはここに暫く身を置くことになった。



早速考えられない異変が起こった。父は数日後に近衛師団(天皇と皇居を警備しまた儀仗部隊としての任に当たる)に入隊する手筈である。前日品川の「緑風荘」という料亭で盛大な壮行会があった。祖母はわが子の出征に涙していた。

翌日父は九段の部隊に出頭したが間もなく帰還してきた。痔疾患のため騎兵連隊では受け入れられずとの判定であった。何としたことだ。私たちは不甲斐ない思いであったが、祖母は望外の喜びであったようだ。入隊転じて父は結局、三井鉱山の本社に勤務することとなった。然し私たちは何のために住み慣れた故郷を捨てて、東京に出てきたのだろう。と子供ながらにそんな想いを噛締めていた。



間もなく6年の2学期を迎えるが、私たち3兄弟は、従兄Sが前年に卒業した白金小学校という有名校(明治9年創立で今でも越境・進学校として知名度が高い)に学区外から越境して転入することとなった。東京の白金、誠之、番町は三大名門小学校と呼ばれていた。間もなく世田谷の奥沢町に自宅(借家)を構え、目蒲線で奥沢⇔目黒と電車通学をすることになる。汽車通学に馴れていた私にその抵抗感はなかった。がたことと走る大都会の郊外電車の風物が楽しかった。


然し生活環境、学校の風土、学業の内容、友人関係、言葉遣いなど、過去との繋がりを断たれすべてが新らしい出発となり、戸惑い、不安は少なくなかった。当初は生まれ育った荒尾、大牟田が懐かしく子供心にも望郷の念に駆られ寝付けない夜が続いた。はだしで校舎内を走り回っていたのにここではきちんと上履きだし、身だしなみも違っていた。周囲では九州から三匹の山猿が来たとの噂であった。


小学校の校舎は蔦の這う美しいコンクリート造りの3階建で屋上に奉安殿があった。地下にはプールがあり、特別教室として音楽室、階段状の理科室、大工道具の揃った工作室、裁縫室などが備わり、冬の暖房は蒸気のラジエーターが機能する。お弁当はここで温める仕組みである。いかにも都会風の洗練された校内環境である。今でも白金小は改築を重ねながらも当時の面影を留めている。

私は1階建ての木造校舎を裸足で走り回っていた昨日までの環境が信じられなかった。
まるで異国の文化に触れたような想いであった。然し校庭はコンクリートで小さく、休み時間など密度が高過ぎお互いにぶつかり合うほどである。 田舎町の小学校は小高い丘に囲まれ、広大な野原のような校庭で風がそよぎ、自然の緑陰があった。


決定的だったのは、勉学の中身である。ことごとくレベルが高く、これまでとは異質であった。教科書に添ってではなく、特別な教材が用意されている。それでも学校に来るのが退屈だと言って憚らない憎らしい連中が少なくなかった。

私は各課目共に悪戦苦闘である。母は家庭教師を呼んだ。今までは経験のない復習が必須となった。音楽などはピアノの音を聴き和音を言い当てる教科があり、♪菜の花畑に入り日薄れ・・・♪ 狭霧消ゆる湊江の・・・・♪等と正しく歌えばすむといったものではない。クラシック音楽を鑑賞し、感想文を書く。もはや教養のジャンルである。
付いてゆけたのは書道、図画、作文などマイナーな課目だけであった。

上の弟は抜群の運動能力があり、投擲では校庭外に擬似手榴弾を飛ばしたり、競走ではごぼう抜きを演じ、そして廊下ではスカートめくりのいたずらも・・・。

女の子はすかした私服姿で、にきび顔でませていた。昨日まで見慣れたおかっぱで赤い頬のずんぐりの子はいない。小6なのにペアで三越に行き、噂話になるほどのませた輩もいた。

明らかに田舎者と見下げたような視線を感じるとむかむかし、ぶん殴りたい衝動を感じた。弟のスカートめくりに蔭ながら声援を送ったが、母は先生に呼び出されては厳重注意を受けていたようだ。



父は各地の炭鉱に出張することが多く家を空けていたが、日曜日は近くの多摩川園、九品仏、自由が丘、などに出かけた。子供のくせに、昔恋しい銀座の柳♪の銀ブラが好きで、友達と内緒で出かけることもあった。

日曜日の朝、光を浴びながら「おーブルースカイ!! 大きな猫がわしの○○タマ持ってった!」とわけの分からぬ言葉を発していた。面白く懐かしい。朝食も生卵と納豆からハムエッグとトーストに変わった。
平和な時代の、普通の家庭の営みがあり、私たちも少しずつ東京での生活に溶け込んでいった。新しい友達も何人かできて標準語での会話にも親しんできた。父は転勤と度重なる出張の疲れからか、年末頃から体調を崩した。   以上

(とうとうまだ見ぬ東京にやってきました。懐かしい大牟田は遠く去り、望郷の果てに霞んで消え入りそうです。戦争という過酷な現実が直ぐそこに迫り私たちは激動の坩堝に引き込まれて行きます。)

2011/09/13

人生色々こぼれ話(6) 少年時代⑤

人生色々こぼれ話(6)
少年時代・・・⑤

父の趣味は写真であるが、自宅で暗室を設置し現像、焼付け、引き伸しまですべて自作でやっていた。私も興味があり、父の作業がある日は、そばで見学やら手伝いをさせてもらった。特に写真の定着工程は私の守備範囲だった。カメラは1935年版のドイツ製「ローライコード」であった。6×6cm、二眼レフはしりの名機である。

父は人物をモチーフとする構成が好きで、妻を含めて近くの奥様方をモデルに撮影をしていた。野外での撮影には私も時折お供をさせてもらった。

後に中学4年の頃、学徒勤労動員で逓信省の電気試験所というところの写真部で働いたが、少年時代の体験が偶然役に立つことになった。また絵の趣味に取り付いたのも、何となく父の写真の影響かなと思っている。


小学校5年の頃、どうしても欲しかった空気銃を買ってもらった。子供用のものとはいえ銃なので今では持つことが不可能である。さすがに遠くに行くことは許されず、早朝に自宅の庭で構えていて、枝に止まる雀を狙撃するのだが、的中率数%である。近いと逃げられので、遠くから狙い定めて引き金を引くのだが、プスッという射撃の音で雀たちは驚き飛びたってしまう。音速より弾の速度が遅いのか・・・・所詮おもちゃはおもちゃである。

それではと音の出ない武器を作った。木の枝の分かれる大型のY字型のホルダーに幅広のゴムをつけ、丸い石ころを挟んでゴムの弾力で石を放つのだ。無音である。当たれば目が回って雀が落下するはずである。猫には当たるが雀に当たった試しはない。

フナ釣りにも出かけるが,釣果は殆んどない。うさぎ狩も然りどうも狩には恵まれず、ヤンマ捕りと潮干狩りそれに樹登りがせいぜいであった。
それでもその頃は自然との触れ合いの中で親離れして丈夫に育っていたように思う。

博多の町に連れて行ってもらうのが、楽しみの一つだった。大牟田から博多まで西鉄で2時間以上かかった。小旅行の気分である。風情のある柳川、学業を祈っての大宰府天満宮参り、玉屋、岩田屋のデパート巡りなど今でも覚えている。名物の鳥の水炊き屋で、好きだった双葉山が69連勝で安芸の海に敗れたニュースをラジオで聞きショックを受けたのは、記録を調べると昭和14年1月のこととなる。

後年、会社の工場が大牟田にあったので、出張することが多かったが、私は博多から国鉄ではなく何となく懐かしい西鉄で大牟田入りをするのが好きだった。

大牟田駅の裏に「京政」という料亭があり、出張の折に時折お世話になったが、ここは父も仕事で愛用した割烹で話題も二代に亘り、不思議なご縁を感じた。

幼年、少年時代の大半を、そして戦前の黒ダイヤ時代を石炭の町、荒尾、大牟田で過ごした思い出は、ほのぼのとしていて懐かしい。何処を切り取ってもセピア色の映像として脳裏にファイルされているようだ。

あの学友達は今どうしているか。「ぬしや どけ行くとや」(君は何処に行くの)/「君げさんた」(君の家にさ) この方言、標準語ミックスの日常会話は恩師H先生の薫陶のおかげだ。 私に府立一中を目指せとはっぱをかけたあの先生だ。


最近いつごろから絵に興味を?聞かれることがあるが、やはり小学校の高学年からだと思う。「君は絵の才能があるから・・・・」と動機を与えてくれたのもH先生であった。南瓜の絵やポスター(弟が覚えていて、「計りの日」に描いた升の絵が机から浮き上がっていたという)など小学生新聞に入選したことがある。筆字のうまいI君は「忠君愛国」と書いてやはり小学生新聞で金賞を得た。田舎の一小学校から全国版の新聞公募への入賞なのでその誉れは高い。

「霧の朝」という小5の時の私の作文は名文として全校に紹介された。

「昨夜までの星空は消え、深い夜霧に閉ざされたまま朝になったらしい。あたりは何も見えない。 わっ、いっちょん見えんばい! と弟がおどけて叫ぶ。 露にぬれた白菊の花だけが ぽっと浮かんで見える。 汽車は走らないかもしれない。歩いてゆこうか と思いもう一度家に戻る。・・・・・」

 とこんな調子のあまり今と変わらない書きっぷりだなと感ずる。
 社会人になって、絵描きにはなれなかったとしても、もしかして記者ならばと思うことがあった。


突然、父に召集令状(在郷軍人を現役に召集する命令書)がきた。昭和16年8月中に東京へ移ることとなった。私は既に6年生であったが、折しも夏休みで先生や友達にさよならを言う間もなく、住み慣れた地を離れることになった。子供心にも未知の東京への旅立ちの不安やら惜別の念に駆られ、気持の落ち着かない夏の終わりを過ごしていた。父母が記念旅行をしようと、家族みんなで熊本、阿蘇、杖立温泉に1泊2日の旅を楽しんだ。少し気が晴れた。
母は学校に行き、宿直の先生への挨拶と、級友達にとお別れの印に鉛筆を2本ずつ預けたらしい。

胸ふさがる思いで、大牟田駅を後にしたあの寂しさは今でもジーンと溢れくるものがある。
                                   以上


(九州・大牟田での少年時代は、この稿で終わり、次回から東京での激動体験記に移ります。田舎町での小学生時代は、これまで遠い昔の霞んだ映像でしかありませんでしたが、こうして思い出し、振り返ってみると、鮮明に蘇ってくるのに、我ながら驚いています。
 齢のせいでしょう。“忘却とは忘れ去ることなり”の名セリフのように昨今の事象はかえっておぼろげとなりました。 では東京で・・・・)





2011/09/03

人生こぼれ話 (5) 少年時代 ④

人生色々こぼれ話(5)
少年時代④

前号で早世した兄のことに少し触れたが、私を含め3兄弟は、激動の80年程を生き抜いて皆元気で今もそれなりに活躍している。弟達を簡略にご紹介します。


上の弟の正雄はかってNHKスポーツアナウンサーとしてその名を馳せた。相撲以外の殆んどのジャンルをこなした。オリンピック実況11回の実績を持ち1987年には『全米スポーツキャスター協会賞』の特別賞を日本のスポーツアナウンサーとして始めて受賞し殿堂入りを果たした。現在も民放、講演、著述などで活躍している。「日本プロゴルフ協会」の名誉顧問に寓されているが、72歳の折にエージシュートを記録している。趣味はゴルフ(HC8)とカラオケ(プロ級)。慕われている後輩は草野仁さん。


下の弟の道夫は舞台芸術学院を卒業し俳優、声優、ナレーターを職業とするが吹き替の外国映画は数え切れない。
シルベスター・スタローン、ディーン・マーティン、スティブ・マーティン、ピーター・セラーズ、マイケル・ケリン、レスリー・ニールセンなど多くのの持ち役を持つ。2008年第2回声優アワード功労賞を得ている。 芸域の広さ、声の使い分けなどから”困った時の羽佐間“との異名を取っている。趣味はゴルフ。後継は山寺宏一さん。


少年時代はこの二人の弟は大半を大牟田の名門校第二小学校に通学した。私は隣町の荒尾第三小学校であるが、坊主刈りに詰め襟:坊ちゃん刈に開襟の差があった。私も都会風の洒落た大牟田第二校に憧れを抱いていたが、高学年になるにつけ友達との触れ合いも絶ちがたく何よりも担任のH先生との別れが辛く父の転勤(万田坑→三池坑)があっても荒尾第三校に留まり汽車通学をした。


大牟田に越してからの楽しみは映画館が近いことである。多くは栄町という繁華街に固まっていたが、中に入らなくても上原謙、佐分利信、田中絹代、桑野通子、高峰三枝子などの刺激的な看板や写真を眺めているだけで、胸が焦がれた。勿論、燃える大空(大日向傳)、西住戦車長(上原謙)、土と兵隊(小杉勇)などの戦争映画は少年の心を揺さぶった。可なり離れたところにある五月橋(名前は良いけど川は染料の匂いで臭かった)のほとりにある大都館という映画館まで看板見物に出かけていた。


駅前に「やまだや」という本屋兼おもちゃ屋があり、ここで「少年倶楽部」や「のらくろ漫画」を買うのも恒例であった。この店の息子H君(同年齢)は当時見知らぬ仲であったが後年早稲田を出て三井物産に勤務し、仕事の関係でたびたび交流があった。この年(小5年)多分母の薦めだろうと思うけどこの店で立派な日記帳を買った。
相当ぼろぼろになっているが、不思議なことにこれが現存する。直ぐに飽きて日記は中断しているが、骨董品並みに蔵王(別荘)の奥深くしまいこんである。


1940年(昭和15年)は日本の紀元2600年にあたり、戦意高揚の意味もあって11月11日に国を挙げての盛大な式典があった。私たちも父兄共々学校に集まり神国日本の国威発揚とばかり恭しく勅語を聞き、万歳を唱え、2600年の歌を歌いながら提灯行列をした。

♪金鵄(きんし)輝く日本の 栄えある光 身に受けて 今こそ祝えこの朝(あした)
 紀元は2600年 ああ一億の胸は鳴る♪

ところが誰が作るのか替え歌が世に出てこの方が直ぐに普及してしまう。

♪金鵄上がって十五銭、栄えある光三十銭 今こそ上がるタバコの値 
紀元は2600年 ああ一億の金は減る♪

小学生がこぞってタバコの歌を歌うのもおかしなものだが、物価高騰の世相を風刺したものである。(ちなみに調べてみると 当時白米は10kg3円26銭、入浴7銭、もりそば15銭、ビール1本40銭、牛乳一本九銭である)


この年10銭のアルミ貨が世に出て学校の流れる用水に浮かべて競わせていたのを覚えている。男の子の遊びはコマ回し、ビー玉、メンコ、凧揚げ、ヨーヨー、縄跳びなど仲間と一緒だが、今の子供たちも引きこもりのゲームから少し離れてみてはと思う。

運動会の花形は競争(かけっこ)と騎馬戦で、下に敷くござ、むしろがビニールに変わったけど朝早くからの場所取り、楽しみだったお弁当等その景色はさして今と変わりない。

私は4年からバレー部に入った。5年の頃は身長を生かして前衛のセンターかレフトがポジションであった。春、秋に大会があるので猛特訓が続き日没の後、へとへとになって家路につく日も少なくなかった。白玉(私のあだ名)も日焼けして黒玉になった。30校くらいのエントリーだがトーナメント方式で勝ち上がり3位になったのがベストであった。

日本の伝統的な言葉遊びの「しりとり」も子供達の間で流行った。今でも覚えているが皆の間に根着いた面白い一節がある。自然に出来たものか、誰かが創作したものか定かではないが、最初は子供らしく単純だが、後に行くほど叙事的な言い回しになっているのが面白い。

“すずめ、めじろ、ロシヤ、やばんこく、クロポトキン、きんのたま、負けて逃げるはチャンチャン帽、棒でころすは犬殺し、尻の割れ目は十文字、爺さんの頭ははげ頭、饅頭の中に餡いっちょ、朝鮮征伐秀吉はわらじのもとに出世す“ すずめ、めじろ・・・・・・と元に戻って続くので12ワードながらエンドレスである。


夜寝付けないで繰り返し唱えているとやがて飽きてきていつの間にかすやすやのおまじないでもあった。

皆さんがやると、興奮してかえって眠れなくなるかも知れません。お試しを。今では禁制の単語も入っているが当時の世相を表していて面白い。
                                   以上

2011/07/31

人生色々こぼれ話 (4)少年時代 ③

人生色々こぼれ話(4)
少年時代・・・③

うさぎ狩りという年中行事があった。朝5時に校庭に集まり幾つかの集団に分かれてそれぞれ野山に入る。

集団は網を張って獲物を待つ組と、うさぎを追い立てる勢子に分かれる。朝まだきの、うさぎが寝ぼけているところを急襲するのだが、ことごとく取り逃がしてしまい戦果なしのご帰還である。ところがお母さん達が作ったうさぎの炊き込みご飯が空腹の私たちを待っていた。何も捕れなかったのに?と不思議で仕方なかった。
まさに、うさぎ追いしあの山はいまいずこ。

蝉取りの失敗談は前にお話した通りだが、昆虫採集が好きで、父に標本箱を買ってもらい蝶々、トンボ、ヤンマ、蝉、甲虫類などに仕分けして観察していた。形を壊さないように捕獲しホルマリン注射をして、ピンで刺して留める。昆虫図鑑から正体を調べキャプションをつける。夏休みの宿題専科であった。 中にはめったに出会わない希少な珍種をゲットしてその夜は何度も虫籠を覗き見て興奮のあまり寝付けなかった。

切り傷は絶えなかったが、秋になるとはぜの木にかぶれ、真っ赤に腫れ上がった顔に生の油揚げを貼って、それを食べるとおまじないのように治った。


いたずらっ子の弟は、引込み線の線路に釘を並べ、矢じりを作り、それを竹の先に装着しその小槍で引き売りのリヤカーや女学生の自転車のタイヤを突っついていた。母は謝るのに忙しかったようだ。阿蘇へ家族旅行をした折に、弟は柵を乗り越え噴煙の火口まで降りるといって母を困らせていた。

町のあちこちにカンジン(物乞いのこと)がいて、皆あだ名がついている。あんしゃんカンジン、あねしゃんカンジン、ビスカンジン、湯のみカンジン、屁ふりカンジン、・・・

中でも「あんしゃんカンジン」はひげ面で哲学者のような風貌をしていて、今流に言うとインテリのホームレスだったのかもしれない。おなら名人の「屁ふりカンジン」には“そらそうたい、味噌こしゃ竹たい屁はガスたい“とからかっては一目散に逃げていた。


I君の家の前に配管が破れそこからお湯が噴き出している。一人のカンジンがやってきて唐津焼の湯のみ茶碗でおいしそうにお湯を飲んでいる。「湯のみカンジン」である。帰宅したI君のお姉さんはカンジンさんに一礼して自宅の門をくぐったという。何とも奥ゆかしい光景である。


担任のH先生は教育熱心で厳しかった。標準語を使う訓練もあった。「ぬしゃ、なんばしよっとや」→「君は何をしているの」、「どげんもこげんもしょんなかばい」→「どうにもこうにも仕方がないよ」、「もうし、とっぱいばはいよ」「こんにちは、豆腐をください」こんな調子である。呼び捨てではなく君付け運動も推奨された。


5年生の夏休みの或る日家庭訪問があった。濡れ縁での先生とのやり取りを今でも覚えている。 「勉強しているか」/「はい」  「中学は何処へ行きたいか」やや置いて「I君やN君と一緒に三池中学を目指します」 「駄目だ」/「・・・」 「君は東京の府立一中を受けるのだ。先生はどうしてもそうさせたい。そのためには家で一日5時間勉強するのだ」
熊本中、福岡中すら難関なのに先生は私に何を求めているのだろう。この日から私はやや無口になった。

それから33年後故人となられた恩師の墓前に跪き、私は溢れ出る涙を留めるすべもなく、先生の想いに至らなかったことを深くお詫びした。然し幸せな半生を送っていることも報告した。
今でも竹の筒で頭をこつんとやられたあの痛さを思い出す。

ジステンバーという強い感染症で愛犬の「ジン」が死んだ。まだ2歳のシェパードである。
或る日帰宅すると、息絶え絶えに横たわっているジンの傍らに獣医がついている。とっさに何が起きたのか理解できない。思いがけない光景に息を呑んでその場に佇むだけであった。「ジン頑張って!死んじゃ嫌だ。また遊ぼうよ、庭でかけっこだって、公園の散歩でも何でもしてあげるから・・・・」やがて彼は短かった命を閉じた。「さようなら、楽しかったこと忘れないから・・・・」
「愛犬ジンの死」という作文は最優秀賞を得て校内に掲示された。先生方からも名文として長く賞賛を得た。
犬は大好きだけど、再び犬と暮らすことはなかった。

父が万田坑(今では国の重要文化財として開放されている)から三池坑という炭坑に転勤になったので、社宅も荒尾町から大牟田市に移った。4kmほどしか離れていない隣町なのだが田舎から都会に越した感じである。家も大きく
なって子供部屋つきである。5年の2学期だったが近くに住んでいた親友のI君と楽しい大牟田⇔荒尾の一駅だけの汽車通学が始まった。

荒尾駅から学校まで2kmほどの道のりだが、その年の春に女学校をでたT先生とH先生との同道で楽しかった。途中北小学校の正門前を通ると悪がきに冷やかされ石を投げられた。「北のパチ」という頭にメンコ(パチという)大の禿がある恐ろしく足の速いのがいて、逃げ足鋭く手におえない。ある時、地域全体の競技会があり、小学校対抗リレーで弟が北校を抜き去りのろまの私は溜飲を下げた。弟は超快速のランナーであった。彼はその足を生かし中学、大学と野球の道を選んだ。


話は戻るが、私たち三兄弟には長兄がいた。私は次男なので英二である。私の生まれる半年前に4歳で疫痢で亡くなっているので、知るすべもない。母から斌(あきら)は聡明で優しい子だったと聴かされていた。もし生きていても軍国の母は必ずや兄を海軍兵学校か陸軍幼年学校に進ませたに違いないと思っている。多分護国の華と散ったであろう。私は決してリベラリストではなかったが、自ら軍人になるのを肯んじなかった。                         
                                以上
(夏休みのため、次号は9月1日頃の掲載となります。引き続きご愛読を)

2011/07/21

なでしこは日本を変えた

なでしこは日本を変えた

今この時に、神風が吹いたような戦いぶりとその爽やかな笑顔に日本中が沸きかえっている。日本は沈没の淵から再起できるかもしれない。なでしこは河原や野に咲く可憐な花だけど、踏まれても蹴られても挫けない信念の花だということが分かった。
「諦めない」「負ける気がしなかった」平然と言って憚らない彼女達の強い心と高い技術に感動し、感涙した。

正直に言って延長前半の終盤に、あのワンバックという名手の桁外れのゴールで今回も終戦だと思った。25回も戦って勝てないアメリカの高く厚い壁を感じた。ところが崖っぷちで沢の右アウトサイドでネットを揺らしたあの瞬間、私は何事が起きたのか俄かに判じ得なかった。遂に運命のPKである。
PK戦は持病の心臓に良くないので、大試合では見ないことにしている。今回もトイレに入り、うんがつくようにとただひたすらに祈っていた。

さてどうか・・・と怖いものを観るような気持ちで、スイッチオン!なんと3-1で優勝した瞬間であった。劇的に勝ち進んできた日本に又も奇跡が起きた。あまりにも強烈な信じ難い事実にただ興奮し、声を上げ拍手した。妻がふと、原爆のお返しだと呟いた。
日本中を夜明けの感動が走った。

新聞を読みまくり、TVを観ているうちに、何故勝てたのか、そして日頃の彼女達の素顔が見えてきた。チームの団結や監督との一体感が原動力となって、「いつも楽しく戦ってる」という言葉の真実性を理解できた。監督は日本人でなければダメという教訓も大きい。なでしこはドイツの地で伝説となった。「人間、欲が出るので五輪のメダルも欲しい」と言い切る沢の言葉は重い

女子サッカーはこれから花形としてクロ-ズアップされるであろう。
色々な物心の波及効果で、日本は明るさを取り戻せるのではないかと思う。

貧困な政治家諸君よ!国民は貴方達をきっぱりと見捨てたということを銘記すべきである。
                                   以上

2011/07/13

人生色々こぼれ話(3)少年時代②

人生色々こぼれ話(3)
少年時代・・・②

九州の夏はとにかく暑い。海水浴が楽しく、前出の宮本馬車で母に連れられよく出かけた。ところが有明海は干満の差が激しく、引き潮とになったと思うと瞬く間に干潟となり、海水浴から潮干狩りに場面転換である。

海辺は小魚や貝のお祭りである。ムツゴロウ、しゃこ、はぜ、かに、アサリ、赤貝、蛤・・・・採りたい放題で、この方が泳ぎよりよほど面白い。そして海の家でカキ氷を食べ夏休みの一日が終わる。

真っ黒に日焼けして新学期を迎えるや否や、猛烈な台風がやってくる。急な大雨で学校で借りた番傘は忽ち暴風にあおられてお猪口となって、空に舞い上がる。ずぶぬれの黒いどぶ鼠のような姿でほうほうの体で我が家に辿り着く。ランドセルの中身を乾かすのが大変だった。

♪今日来たねいやは、いいねいや。雨の降る日に傘さして、まあお可愛いと言いながら私を抱いてくれました。♪ こんな詩情豊かな楽しい雨の日もあった。

「町立荒尾第三小学校」までは1km足らずの距離だが、朝は地域ごとに集団登校した。今のように身の安全を守るのではなく、組織体としての秩序ある行動をとるためであった。もう一つ「私立万田小学校」というお坊ちゃん学校があったが“尻つまんだ校”と言って軽視していたようである。

帰りはばらばら帰宅であるが、寄り道ばかりでずっこけていた。我が家に級友を何人も連れて帰ると、母は喜んで迎え入れお風呂をたいて、サツマイモをたらふく食べさせた。職員社宅ではなく当時「納屋」と呼んでいた炭鉱夫の家の子供達である。

多分母の気持ちの中には、あの子達のお父さんが数千尺の地底で命を張って働いてくれているから、炭鉱が動いているのだとの感謝の気持ちがあったからに違いない。後年も誰かれとなく人様の世話をする母の人情を、私はその時感じ入っていた。

2001年4月私たち3兄弟夫婦は、私の親友I君(故人となった彼のことはいずれ触れます)共々母校と少年時代を過ごした家を訪ねた。校庭の桜は満開であの頃を彷彿とさせてくれた。校門から校舎のあたりも変わらぬ姿を留めていて懐かしかった。職員室を訪ね往年の写真を見るにつけ感無量であった。

住んでいた家はどうだろう。やはり何もない。廃墟と化した玄関の辺りに佇み私は心の中で「ただ今」と呟いた。「こんなに狭い道だったのか」と弟が云う。♪幾とせ故郷来てみれば 咲く花鳴く鳥そよぐ風 門辺の小川のささやきもなれにし昔に変わらねど 荒れたる我が家や住む人絶えてなく♪

日頃畏怖する先生方が或る日大挙して我が家を訪れ宴会となった。父が日頃の謝恩会と言う意味でお招きしたらしい。飲めや,歌えの大饗宴である。物珍しげに、弟とふすまの陰から覗き見をする。人格とはこんなに変貌するものか。ただの酔っ払いのおとっちゃんと化した我が師の姿にびっくり仰天しているうちに、教頭の「いもちゃ」(禿げちゃびんのI先生のあだ名)が父の好きな広沢虎三のレコードアルバムをしたたか踏みつけ粉々にしてしまった。一言「ごめん!!」その慌てぶりを今でもはっきりと覚えている。

父は労務担当なので、仕事柄お酒の付き合いが多かった。日頃は母子家庭のようなものである。夜寝静まった頃、炭鉱労組の強面の親分が一升壜を片手に自宅に乗り込んでくる。大きな声で談じこんでいる。子供ながらに異常を感じていた。S兵衛さんというくりから紋々のひげ面がいきなり畳に短刀を突き立てる。父は動ずることなく応じている。

数日後またやってきた。「坊っつあん、こん間は勘弁ですたい」50銭玉をおもむろに差出し私の顔を見る。その目の鋭さに射抜かれたように小さくなって俯いているだけだった。

子供の頃から集会慣れしていて、休日には父の先輩、後輩の持ちまわりの集まりに付いていった。勿論子供たち同士が番外で会えるのが楽しみだからである。子供映画のフィルムを燃やしてぼや騒ぎを起こしたこともあった。当時「サクラビール」というブランドがあり、栓の裏側に張ってあるコルクをはがしサクラのマークが現れると当たりで、小さなおもちゃと替えられる。ビールの栓を抜くのは子供の特権とばかりにその機をうかがっていた。

♪おどんがこんちょかときゃビルビンに屁ふりこんで開けちゃかずみかずみ臭かったノーイノーイ♪(小さい頃ビールの空瓶におならを詰めて栓をして、開けて臭いをかいでみた。臭い臭い)

万田公園という桜の名所があったが、三井の所有で、グラウンド、講堂、青年学校、プール、ボートの浮かぶ池、クラブなどが揃っていて住民の憩いの場であった。春爛漫、花咲き乱れる光景は見事であった。ぼんぼりの揺れる桜祭りに浴衣で夕涼みに出かけ屋台でべっこう飴を割るのが楽しみだった。うまく型どおりに割れると、もっと大きなものへとステッアップし最後はお面のような大きなものをゲットできる。

父がこの講堂での戦記ものの映写会に学校のクラス全員を招いていわば課外授業をしてくれるも楽しみだった。「5人の斥候兵」という映画を見て感動で震えた。

昭和13年に、日独同盟強化の一環としてこの公園のグランドに突然「ヒットラー ユーゲント」(ナチス党の青年組織で10歳から18歳で構成)がやってきて、私たちは盛大に迎えた。規律正しく凛々しいその行進に少年の心は火と燃えた。私は今でもあの昭和18年10月の学徒出陣、雨中の壮行会の映像を見ると、なぜかユーゲントの姿がダブってくる。それほど鮮烈に映ったのだろう。父は陸軍少尉で在郷軍人分会長、母は婦人会の世話役で、もんぺ姿で年中バケツリレーの訓練をしていた。日中戦争はエスカレートし、国家総動員法が制定された。

♪パーマネントに火がついて みるみる中にはげ頭 はげた頭に毛が三本 ああ恥ずかしや恥ずかしや パーマネントはやめましょう。♪ この程度ならユーモラスだがそのうち、贅沢は敵だ! 欲しがりません勝つまでは! の戦時体制にひた走るのだ。                 以上

2011/06/25

人生色々こぼれ話 (2) ~少年時代①~

人生色々こぼれ話(2)
「少年時代」・・・①

私は13歳(小6の1学期)まで九州の炭鉱町で過ごした。“三池炭鉱に月が出た”で
有名になった黒ダイヤの街である。石炭産業の衰退と共に戦後は見る影もなくなった大牟田の町もその頃は活気に満ちあふれ、好況に沸き返っていた。

父は関東大震災の1923年に大学を卒業、三井鉱山に就職し翌24年に結婚してこの炭鉱町に赴任したことになる。T女学館を出て間もない新婚の母は“良かおなご死んでしまえ!
”と石を投げられ知る人もいない狭い社宅住まいで心細く泣いて暮らしたという。後々の気丈な母はこの辛苦に耐えてのことだったのかもしれない。

私は荒尾町万田という社宅街で生まれ育った。父が昇進する度に社宅を移り住んだ。小学校に進む頃には家にねいやもいて、庭に池があり、仔犬が走り回っていた。


父は労務関係の仕事で帰宅が遅く家族で夕食を共にすることは稀だった。その代わり日曜日はバスで15分ほどの大牟田の町に散歩と食事に連れて行ってくれた。時に映画に行こうといってエノケンヤロッパの喜劇に誘い出してくれるのだが、次第にもの足らなくなり、「愛染かつら」「浅草の灯」や「支那の夜」などを密かに観に行った。純真な少年の心は乱れて目は血走っていた。「風の中の子供」や「路傍の石」といった名作にも出会い心を打たれた。

「のらくろ」のシリーズ、「家なき子」「母を訪ねて三千里」「綴方教室」「リビングストン
の冒険」などを読み漁り心を燃やした。今思うと多感な少年だったのかもしれない。

世界のプリマドンナ「三浦環」は父の従姉妹だが、ある時「入江たか子」との蝶々夫人の共演で大牟田にやってきた。始めてお会いしたのだがその見事な風格と派手なコスチュームに圧倒されて一言も声が出なかった。高額なお子遣いを頂戴し(多分10円)びっくりしてお礼の言葉も失った。

「声」という字の色紙を父に残し風のごとく帰京して行った。やや色あせたその色紙は今も我が家に残っている。弟二人は揃って声のプロフェショナルだが、三浦環さんのDNAの影響に違いないと思っている。



少年時代には誰でも忘れられない出来事がいくつかある。しかも可なりの精度で記憶の中に蘇る。トンボ捕り今日は何処まで行ったやら・・・。友達と連れ立って鬼ヤンマや熊蝉を追いかけるのは夏の風物詩にも似ていて宿題を放り出して興じていた。

大きな樹の枝にとまって我が世の春を謳う熊蝉が見えるが網が届かない。鳴き終わるとションベンを引っ掛けて逃げるのが習性。どうしても捕りたい!今だと樹を登り枝に移って網を伸ばしたとき蝉は風の中へ、私は枝ごと地上に落下となった。何とそこは、畑の流動肥やしの壷の中、黄金漬けとなり、友達の手を借りて脱出する。

近くの1君の家で裸になり風呂で洗い流し、少し黄ばんだ下着やシャツの乾くのを待ち、友達3人で恐る恐る帰宅する。「H君のおっかさんは良かおなごばってんえすかけん」皆日頃そう言っていた。美人だけど怖いから・・・・ということ。
「みなよく来たね。お上がり」何の報告もお咎めもなし。冷えたスイカをたらふく食べて
「今日はほんなこつよか日ばい」とニコニコ顔で帰って行った。あのシャツや下着に2度と出会ったことはない。ミステリアスな話である。私にはほのかに漂う香りが残った。


もう一つは弟・正雄の落下事件。万田抗のN抗長の家には、室内ゴルフの練習場があった。
名だたるいたずらっ子の弟は、ねずみ小僧か丹下左膳のまねをして、瓦屋根をびょんぴょん飛び跳ねて走り回るうちに、痛んだ屋根を突き破り地上5mほど落下。そこはゴルフ練習場の中である。天井に厚地のキャンバスが張ってあったのが幸いしてバウンドして軟着陸となった。落雷まがいの大きな音がして、救急車で病院へ。本人は無傷でも上役の家を傷つけた、母の心の傷も深かった。


家の近くに、駄菓子屋があり、焼き芋の匂いがぷんぷんと漂う。甘納豆の小袋を買うと
大きな袋が当たったりする。夏の日の冷たいラムネの喉ごしは忘れない。でも我が家は買い食いご法度である。

その頃東京からきたS君はいつもお小遣いに事欠かず羨ましかった。早速仲良くなって、母の目を盗んで駄菓子や通いをした。或る日ねいやに見つかり口止めに高級な大牟田饅頭で買収は成功。私はS君が石の影に設置した野外金庫の在りかを知っていたけど決して盗掘したことはなかった。

その駄菓子屋の隣は馬車やである。四つ山という隣の鉱山まで通う重要な交通手段である。
6人乗りほどの馬車で行く暫しの旅は嬉しかった。母は女学校の後輩Yさんのお宅に何度も連れて行ってくれた。美人のオバサンに可愛がってもらった。今をときめくジャズピアニスト・山下洋輔の実家である。その姉のM子さんは今でも弟・道夫の芝居や、私の絵画展を見に来てくれる。
「虚空蔵」さんというお宮の縁日にその馬車で行くのが格好良かった。“コクゾサン参りは
宮本馬車で行こうよ 何処を向いても菜の花盛り・・・・・・“と『野崎小唄』の自作の替え歌を口ずさみながら。                        以上  
  
  (このエッセイは好評のようなので、毎月1日、15日ころ掲載します)    

2011/06/13

人生色々こぼれ話 (1) ~社会人一年生

人生色々こぼれ話(1)
「社会人1年生」

娘や孫に促されて、越し方を振り返りこぼれ話を綴ることにした。もうそろそろ思いつくことを書き留めておかないと、記憶が霞んでは間に合わないとの思惑かもしれない。

然し確かに後世に残す大事な作業の一つかなと思うようになった。出てくる話は僅か半世紀強の時系でしかないのに、そこには激動の時代背景が重なり、今の世の中からは想像の出来ない自由闊達で、情緒的、貧乏でも温かく人情に満ちた人間の営みがあったように
思い返される。


先日孫のshunが始めてのお給料(本人はお給金と称している)を頂いたので妻共々夕食
をとのお招きを受けた。嬉しい話なので喜んでその饗応を受けることとなった。

昨日までの学生気分は拭い去られ、社会人としての自覚満々で希望に満ちた明日を約束する彼の言動に驚きを禁じえなかった。彼が入社したO社は業界では名門、そして人間尊重の経営を貫いているクラシックな会社だけど、12,000人のエントリーから選ばれた12人のエリートの一人らしく、その誇りある語り口にしばし耳を傾けた。


私はひそかに60年前の私を想起していた。花の28年組と騒がれていたけど、失業者は町に溢れ企業倒産続出の大不況の最中にあった。吉田茂の「バカヤロー」解散の年である。
会社は今の「三井金属鉱業」、父の勤めた「三井鉱山」の非鉄部門ともいえる財閥系の会社
に身を置くこととなり、その時の母の喜びようは今でも忘れない。亡父の仏壇に日々報告をしていたようだった。何しろ会社と言えば三井しか頭になかった母の思いを充たしたのだから私も無形の親孝行をしたことになる。

本当は新聞、報道関係に入りたくてトライしたのだが、朝日新聞、NHKとも願いは叶わず、三井という傘のもと、堅実、質朴の明日に向かって1歩を踏み出した。


初めての職場は北区王子に在った(今は埼玉県上尾市)圧延工場の製品出荷の倉庫係だった。銅の板や真鍮の棒を、日立や東芝などの需要家と問屋在庫用に送り出すための伝票書きの仕事である。出荷が終わると、日計表の作成、明日の出荷予定表の作成など繰り返しの日々で、たちまち5月病に罹患してしまった。そろばんは苦手で残業が当たり前、体もくたくたで工場内の診療所でザルブロという静脈注射を打つ毎日だった。看護婦のKさんがやけに親切だったことだけを覚えている。

学生の時から所属していたS合唱団の活動も盛んで日曜日は殆ど三軒茶屋に出かけ練習に明け暮れていた。第九を暗譜する作業もあり音楽も闘いに似ていた。


当時私は新宿区戸山町のぼろ小屋に居を構え(このあたりの話は後日に)早稲田から王子の神谷町まで都電で通勤していた。32系統で早稲田―面影橋―学習院下を経て雑司が谷-巣鴨―飛鳥山―王子まで、そこで27系統の赤羽行きに乗り換え工場のある神谷町まで1時間近くを掛けてのんびりの電車通勤だけがゆとりの時間だった。

早稲田から大塚辺りまで乗るOGが気になっていたのだがある日からぱったりと会わなくなった。父の転勤でどこかへ、もしやお嫁になどと想像を巡らせていた。

今でも最後の都電として早稲田から三ノ輪橋までこの区間だけが運行しているのは懐かしく、ワンデイトリップに出かけてみたいと思う。


間もなく、私には事務労働は不向きと思われたのか、人事的なローテーションのためか
年明けを待たず、経理課に転ずることとなった。質の違う忙しさが待っていたが、仕事は
面白くなった。ネガティブからポジティブへの転換を感じた。先輩諸氏も親切に指導してくれた。私も本を買って実務的な勉強をした。

俄かに文化人になったような気分で、先輩との飲み会にも加わった。近くの小便臭い喫茶店で話に興ずる日々も少なくなかった。このメンバーに後に娘の名付け親となる自由人のTさんがいて、長い交流が始まった。絵を描くことを教えてくれたのも彼だった。「山の友よ」という山男の歌は彼の作詞、作曲でダークダックスのレパートリーとなった。

Nさんは釣り狂で、誘い合って山に岩魚、ヤマメ釣りに出かけた。鉄橋で電車に出くわしたり、引掛かつた糸を外そうと登った木から川に落ちたり、熊の足跡を見つけたり、武勇伝は少なくない。後年家庭を顧みず釣りに熱狂したためか、妻は娘を連れて私の実家に家出をする始末であった。


冬のスキーは良く出かけた。上野初23時50分上越回り米原行きの夜行に飛び乗り、早朝石打に着き,仮眠をして、1日滑りまた夜行で帰る等の今では考えられない荒業が良く続いたものだと思う。妻とのロマンスはリフトのロマンスシートで芽生えたとの美談が伝えられている。


初任給8,000円(孫の4%弱)は殆ど飲代と野外の行楽で消えた。然しこうしたお付き合いで次第に人脈は厚くなった。仕事だけの虫にならないで、この、時代を超えて良く遊んだことは私の人生の糧になったように思っている。文武両道とはいかないまでも、忙中閑ありの構えが備わったのは経理課の自由で風通しの良い雰囲気のおかげと感謝している。恵まれた社会人としてのスタートであったが、約1年後に結婚する時、貯金ゼロ、で家賃4000円の負担は大きく共働き生活が始まるのは止むを得ぬとしても、家計のバランスから月300円の10畳一間の木賃宿以下の家族寮に移り住むことになった。台所もトイレも共用でスイートホームとは程遠いものであった。

電気洗濯機を買って、我が家が特権階級のように見られたあの頃が懐かしい。
家族寮入居者は、その実績で1年後優先的に新築の集合社宅(浦和)に移れることとなった。 
                                 以上

2011/05/16

第3回みずき会 作品集


こんな時期に単なるアマチュアクラブが展覧会を開いてどうなのか。被災地で辛い日々を重ねておられる方々に顔向けが出来るのか。お客様は来てくださるのか。余震への安全性は大丈夫だろうか。等反問することは少なくありませんでした。

結果は920名のお客様が見えて、かえって激励やら賛辞を頂きました。「とても爽やかで重い気分が晴れました」「絵がこんなに説得力も持つとは知らなかった」などの感想もありました。それは同時に私自身の実感でした。節電で暗い館内のアプローチを抜けると眩いばかりに輝くギャラリーがありホッとしました。

皆さんの技能の進化もさることながら、気持ちのこもったストーリーのある作品が多かったように思います。難局は続きますが、明るい気持ちを取り戻しながらこれからも楽しく絵を描きましょう。

皆さんの代表作品に簡単なコメントを添えました。    
                                 代表 羽佐間 英二



小さなパティオ
                      羽佐間 英二
ブロードウエイで見つけたおしゃれな空間です。石壁の淡いオレンジがかったアンバーと蔦のグリーンとの取り合いに目を奪われました。少し傾いた白と赤のオーニングの蔭に覗く窓辺を見たときこれはテーマになると思いました。




土屋 登志江      
緑 陰 
 
風景を単純化して、相対する家を主題に一気に動きのある絵を描き上げています。近景の樹木の大きさ、位置が適切で、その幹と白壁のコントラストが良い対比となっています。風の通り抜ける緑陰を感じます。充分に暗いところがあるので、もう少し道の影の表現を単純にあっさりと描いたほうがよいでしょう。




佐々木 志保子
刻の流れ

今にも夕立が来そうな空の雰囲気が見事に表現されています。偶然のにじみの効果が絵に味わいを添えています。モノトーン風に仕上がっていて、光る海や空を際立たせています。迫力と動勢を感じる良い絵です。遠景のシルエットにもう少し表情を。中景の客船はややあっさりと処理した方がこの風景には馴染むでしょう。題名いいですね。




吉岡 多枝子
私の好きな街

光の取り込み方が卓越しています。この絵の主題である赤いオーニングと店内の雰囲気が柔らかくとても良いタッチです。左空間を埋めるように歩く人物の取り入れ方も適切です。逆光のまぶしさを感じます。淡い影の入れ方が絵とマッチしています。画面中央の木が少し強すぎるので、やや左にシフトし空いた右の空間に街並みを描くと良いでしょう。




田中 良子
裏通り「馬車道」

馬車道とは思えないややうら寂しい裏道の表情をよく捉えています。長屋風の古びた小料理屋は充分 テーマになっています。右をカットした画面への入れ方も適切です。背景の処理も良いでしょう。
道のつき方、ビルの面の向き方に少し違和感があります。パースでのチェックを心がけましょう。





山中 良三郎 
みなとみらい
 
近景の船とみなとみらいの対比が面白いし遠近感が出ています。画面を斜めに切っている船のロープが良い構成になっています。赤レンガをポイントに置くため周りを寒色の色合いで処理し透明感を与えています。水面の表現が少し強すぎる(空のトーンより明るくする)。赤レンガの色を水に反映させると良いでしょう。題名が単調です。




野呂 洋子
海辺の村

セピア色の建物と緑の対比がとても美しい。建物、海、船などもバランスよく構成されていて、遠近感を感じさせます。遠景の処理も良いでしょう。明るい空の柔らかなにじみはいつもながら見事です。
手前の船はやや曖昧です。主題の塔のある建物の周辺にローバリューの濃い色を使うと良いでしょう。




小林 御代
教会のある風景

中間調の淡い色使いが美しい画面を創り出しています。教会はもっと描き込みたくなるのに抑え気味に表現しているので柔らかなしっとりとした空間を感じさせます。自分なりの感じ取り方であまり拘らずスピーディに描き上げています。二本の樹木をもう少し強めに描くとより遠近が出ます。道が強調されすぎています。




土屋 久子
小さい橋のある村

絶好のスケッチポイントを気持ちよく纏めています。屋根を明るいオレンジ色に統一したので、緑とのハーモニーを感じます。左のシンボルツリーは大きさが表現されていて幹の質感も出ています。
やや川が上っているように感じます。二つの橋の間隔を縮めて川の形を変えると良いでしょう。




座間 泰江
九品仏の境内

構図が調っていて安定感のある絵です。山門に至る道と前後の樹木の間に覗く山門が程よく描かれています。山門の位置も的確です。樹木の葉は表情があり色合いも良いと思います。山門の左手前の黄色い草むらはポイントになっています。やや道が上って見えます。左側の道の傾斜を広げ少し山門を下げると良いでしょう。




金久保 美保子
馬のいる村

ユニークな狙いで率直,軽快に描けています。馬に乗っている凛とした女性を主題に捉えた構成が動きもあって面白いです。背景の川や建物をあっさりと処理しているのも適切です。淡い色調も場面にマッチしています。馬の形、手前の草の扱い方を工夫しましょう。今回はマットと額が絵と不釣合いでした。





田澤 郁子
早春の風

構成が良い。ごちゃごちゃした部分を省略し爽やかな風景にまとめています。こうしたイメージでスピーディに描き上げると良い印象の絵になります。家の大きさやトーンで遠近感も出ています。空をカットして画面いっぱいに描けています。緑の色合いが皆似すぎています。もう少し早春らしい色を入れてみましょう。ところどころの濁りは塗りすぎです。




朽方 佳乃
旧軽への誘い

樹木の間に見える建物の入れ方が良い。たて構図一杯に描いた紅葉の色合いも美しくタッチも柔らかな感じです。おしゃれなフィーリングと静けさが漂っていて目を引く作品になっています。
道が描き過ぎです。明るさを残すと周りとの調和が良いでしょう。この場合屋根も白抜きがベターです。家の陰側の壁はもう少し暗く。




谷保 幸子 
初 秋
 
奥に見える建物と樹木の調和が取れて雰囲気が出ています。背景に見える建物の調子もこれでよいでしょう。手前から奥に行く遠近に工夫が必要です。道が立っています。右手前の樹木は大きく突き抜けるように描いてください。秋の色を少し加えてください。描き過ぎて濁らないように気をつけましょう。





小西 房枝
五彩池

バルトブルーのやや強めの色調と遠景の淡い山肌のトーンに差があって美しい広がりを見せています。池に動きが感じられるのも取り囲む風景の静けさからでしょうか。湖面を渡る風の音を感じます。中央手前の草は絵をつまらなくします。遠い山のふもとに部分的に暗い色があっても良いでしょう。地名だけではなく季節、時制、情景、感性等を表す題名にしてください。




天野 宏子 
コッツウォルズの名残 

中間色のウエット・イン・ウエットのハーモニーが美しい。樹木の繁みの重なり合い、家の配置など適切なコンポジションです。メルヘンチックな旅情を誘う作品です。いつもこんな伸びやかな気分で絵筆が取れると良いですね。樹木の幹を少し入れたり、丘の上の木を薄くしたり、花のボツボツを消したりしてみてください。




宮田 ちい子
初夏の風景

中央の橋をポイントに置いて、静けさの漂う空間を上手く描いています。全体の構成が整っています。大きな樹木の表現も勢いがあって良いでしょう。あまり説明していない中で、手前の水草だけが目に入ります。橋は白抜きにしてください。その周辺を含めてテーマになります。左の屋根の上に重なる樹木は家2軒とたての描写が過剰なのでこれを消すとすっきりした空間が生まれます。




柳澤 博
軽井沢の秋

池と樹木だけの単純な構成ですが、雰囲気を良く捉えています。描写もこの程度で適切です。紅葉が絵のポイントになっていて引き締めています。空と水平線が二分されているので思い切って上に上げて樹木を画面いっぱいに描いて大きさを強調し、池が広がった分そこに映る表情をたてのタッチでもう少し描き加えるともっと深みのある絵になります。あっさり描いてメリハリを、が課題です。




齋田 夏江
馬車道十番館

建物の質感と色調がとても良く描けています。中央の白いテラスとフランス国旗がこの絵のインタレストと感じて、周囲を暗く押さえその部分を強調しています。難度の高いモチーフに挑戦し風格のある建物に仕上りました。パースが少し狂っているところがあります。道が上り坂のように見えます。ポジションも少し下げたほうが落ち着くでしょう。題名が絵葉書的です。




高橋 雅美
 旅で出会った町 1

絵の構成がとても良いです。アーリントンローはこのアングルが最も美しいでしょう。フットパスから家並みへの動線が絶妙なバランスで描けています。橋の形も的確です。橋の側面を暗くしてください。柵が長すぎるので奥のほうは切ります。水が流れる様子がもう少し表現できると動きも出てきて良いでしょう。この場合人物の入れ方は成功しています。背景の木の青さをもう少し押さえてはどうでしょう。




小塚 和代
追 憶

セピア色のモノトーンが静かな古い村の佇まいを良く表しています。構図が素晴らしく、パースも正しく描けているので奥行き感が出ています。道に降り注ぐ光と奥の暗さの対比が美しいです。4号サイズに上手く収まった珠玉の小品。モノトーンなので背景の樹木は筆先のムラタッチを白く残して少し小枝などを入れたほうが良いでしょう。サインの入れ方が良い。




内山 万枝子 
アイ川にかかる橋

丁寧に気持ちよく描けています。透明水彩らしい色彩のハーモニーを感じます。橋の付き方、水に映る影など水辺の映り込みが美しく、テーマのはっきりした絵が出来あがっています。近景の草むらの表現もこの程度あっさりで充分です。屋根はもう少し明るくし、背景の建物を少し右に寄せます(建物を短く)。つれて奥の建物も右に寄せ、左の遠景の広がりを見せるとよりバランスが取れるでしょう。




石川 勝
早春の三渓園仏殿

光溢れるバックが美しい輝きを放っています。シルエット風に描いた仏殿とのコントラストが素晴らしい。仏殿の前の一本の木がポイントになっています。この明暗逆抜きのタッチは優れています。両側の柵はどちらかを省略した方がすっきりします。大屋根の付き方(左側面の形を)もう少しはっきりと見せたほうが良いでしょう。





2011/05/03

みずき会に寄せて

2004年1月に横浜山手を描く小さな集いとしてYY会が発足しました。私が前年9月に出展した「チャーチル会ヨコハマ」の絵画展で作品を見た数名の女性から、「こういう透き通った風景画が描きたい。是非指導して欲しい」と懇望されました。人様にお教えするほどのものではないとお断わりしたのですが、それでもと請われて、ではフリースケッチでも・・・と云って元町公園でスタートしたのが、現在の「みずき会」の生い立ちです。

それから、7年を経て、離合集散はありましたが、今は24名のメンバーで毎月第2、第4の水曜、木曜に写生教室を開いています。水、木から「みずき」というネーミングも生まれました。



絵は楽しんで描くこと、あまり強い自意識を持たないこと、そして絵を離れて仲間と触れ合うこと。たまには旅に出かけて心からリフレッシュすること。など私なりのスタイルで1度も挫折することなくここまで継続できたことは信じがたいことでもあります。

勉強をして、それをダイジェストできたら、教室の皆さんに技法としてお伝えする。私はプロの画家ではないからこそそれが出来ると考えています。本当の画家さんの場合は、差別化という言う意味で、自分の持っている秘めた要素を、なかなか伝えようとしません。

本を読めば済む様な、基本的な原理だけを繰り返し、後は自分自身がそこで描いている絵からハウツーを盗めと言わんばかりのレッスンプロが多いのも事実です。生徒さんの方も絵が進化しないのは、教えてくれない先生のお蔭と教室を渡り歩く人もいます。先生に転嫁すれば済むという話ではなく、やはり自分の気持ちの持ちようと絵と向き合う姿勢だと思います。

先生は地図と羅針盤は持っていますが、目標に向かって遠い道のりを歩いて行くのは自分自身です。 そして迷い道だらけの絵の道は、極限のない人生そのものであるような気がします。それがたとえのんびりとした趣味の領域であっても、一定の成果や達成感を伴ってこそ自分を知ることが出来ることとなります。



私はいつまで「みずき会」を発展的に維持できるか分かりません。然し今はまだ心、技、体のバランスが保てているようで、ストレスもありません。いつまでにどうしようという強い目標や目的は持たないようにしています。仮にそこに到着すると本当に完結したと錯覚するかもしれないからです。

今は嘗て私独りが釈迦力に気負ってやっていた時と違い、幹事会という機能があって、どんなことも知恵を出し合い、隔たり無く論議して,進路を決めています。私は極言すれば、技術職に専念すればよいわけです。然し休んだり,呆けたり、腕が落ちたりしてはその職を失うこととなります。それといつも大事にしているのは話術です。

私は教室の現場では絵を描きませんので、アドバイス、画評など言葉で伝えることが殆どです。 いつも言葉は起承転結で、できるだけわかり易く、大きな声で歯切れ良くを心がけています。この点はその道のプロである二人の弟から教わるところ大です。



昨年私にとっては10年ぶり9回目の「コッツウォルズへの12日間旅スケッチ」という偉業を成し得ました。しかもみずき会の皆さんを始め20人のグループで思い出に残る楽しい旅が出来たことは、私にとって画期的なことでした。未だやれるという自信を得たことです。そして宿願であった個展(水と油の夫婦展)へとコッツウォルズの作品を繋げることが出来ました。

この夫婦展は「みずき会」というかけがえの無いバックグランドとひたむきな皆さんのサポートがあってこそのものでした。やがて起きる空前絶後の出来事の直前であっただけに
本当にやれて良かったと感慨もひとしおです。

私の水彩画の原点はコッツウォルズの原風景です。いつ訪れても変わることなくそこに広がる優しい自然と古い家並みには、絵心をそそられずにはいられません。

19世紀初期の英国自然主義画家・ジョン コンスタブルが生まれ育ったイーストアングリア地方も忘れがたい風光に満ち、今なおコンスタブルが描いた当時の村が残っていて、私も旅で絵筆をとった場所です。
私はアルウイン クローショー、ジョン リジー、デビット ベラミー、デビット カーチスなどのイギリスの透明水彩画家の影響を受けながら自分の画風が出来上がってきたと思っています。

然し、私は最近アメリカのマリリン シマンドルという女流水彩画家の研究を続けています。若かりせば彼女の住むカリフォルニアのサンタ イネズに飛んでいってワークショップに入りたい気持ちです。技法書(英語版)やWebで情報を取りノウハウを習得中です。

勿論こんな方法でその域に及ぶことは不可能です。それでも少しでも彼女の水彩画に対する考え方、技法を理解しようとするプロセスが大事だと考えています。彼女の光と影の水彩画は私が蓄えている知識に付け加えるべき洞察と技法に満ちています。

私は自分なりに吸収したものをみずき会の皆さんに伝えて行こうと考えています。

これまで多くの作家の技法書や作品を見て、感動や啓示を受けてきましたが、また一つ仕上げと思えるような仕事が増えました。


2011年4月の「第3回みずき会水彩画展」の記録をWebサイトに公開します。代表作1点ですがどうぞ会員の皆さんの光り輝く作品をご覧ください。 

2011年5月
羽佐間 英二

2011/03/24

買溜め狂騒の終焉

本日23日、運動を兼ねて久しぶりに駅近くのヨーカ堂に行って見ました。ないものは無いほどで棚も満杯でした。お米は各ブランドが積み上げられているものの誰もキャスターに取込む人は居ません。
冷凍食品は半額セール中、普段より種類は豊富です。パンは山盛りでこれも特価。一時姿を消していたトイレットペーパーも現状回復。
帰路ガソリンスタンドを覗くと、従業員が暇そうにお客を待っています。
あの狂気の連鎖は終焉し、醒めた空気が漂っていました。

出荷制限のかかったほうれん草などは安全保証品として時折消費者の手が伸びていますが価格は30%割高です。ここには「わけあり」の廉価品はありません。基準値を超えるけど人体に影響はありません(現に政府はそういっている〕のレッテルを貼った商品を70%引きで売ってみたらと思います。第一毎日1年間ほうれん草を食べる人がどこにいますか。ポパイだって無理でしょう。

この1週間、毎朝並んで買い溜めした食料品や生活物資をご自宅で短期に消費するのは大変でしょう。固いパンや伸びかかった茹で麺をランプの光で食しても味気ないことでしょう。在庫投資は終わりました。後は早めに大量消費して(トイレットペーパー等は普段の3倍くらい使って)レギュラーな生活スタイルを取り戻しましょう。

さて被災地の現場には欲しいものと届けられるもののミスマッチが続いているといわれます。要は前線と後方部隊が上手くかみ合わないのだといいます。例えば避難所からの品目毎の注文リストが物資がプールされている自治体や流通倉庫などに出されて、それを原票にしておおよその配送計画を組み立てれば良いことだと思うのですが。

これまではガソリン不足が主因でしたが現状は実務の問題のようです。ボランティアの皆さんの活躍の場でもあるはずです。家庭ごみになるのではと思われる都会人の過剰在庫と、ライフラインの途絶えた劣悪な環境の中で生き抜くための最低のものが購えないこのギャップは何としますか。寒空の中、温かいものを涙を流しながらおいしそうに食べていた老夫婦の姿が目に焼きついて離れません。



毎日お目にかかる報道官をご存知でしょう。片や安全保安院の色黒の、のらくろみたいな人です。内容が分かりにくい上に活舌が最悪で肝心の説明が半分しか聞き取れません。もう一人は東電の説明者です。何となくにたついた、とっちゃん坊やです。紙ばかり読まないでこちらを見てメリハリをつけて話してください。

この二人には意訳する通訳が必要です。型にはまったアアウンスを平常語に置き直して簡潔に説明して欲しいものです。
消防庁や自衛隊の人たちは使命感に燃えて命がけで見えぬ敵と戦っています。
「日本の救世主になって」というリーダーの妻のエールには泣きました。
保安員(安全委員会)も東電も当事者なのです。お詫びの挨拶回りも心がこもっていません。「挨拶はいいから、とにかく早くやって」と返されていました。

「馬鹿といえば馬鹿」「遊ぼうといえば遊ぼう」・・・・・・「こだまでしょうか。」そして最後にAC♪(結構耳につく〕のCMには辟易しています。番組がスポンサーがつく内容ではないので、空いているコマの埋め草というのですが、昨日辺りから、やっと他のCMも入るようになりホッとしています。

29日選抜高校野球」が始まり久しぶりに平和な雰囲気を味わっています。
被災地にも届いていることでしょう。日本人の心のふるさとだし被災地にあって、町や村をあげて熱狂する場面もあることでしょう。プロ野球の開幕も近く心躍る日々が始まります。

5月は春爛漫の季節です。今年の花はひときわ美しさを競って咲き乱れることでしょう。
被災地にあってもお花見が楽しめるように、少しでも皆さんの笑顔が戻るように東北の春めく季節に祈りをこめます。
                        3月23日記   
                                 英二

2011/03/16

鎮魂の海

三陸の海はこよなく美しく詩情に満ちています。白砂の海辺、切立つ断崖、何処までも続く松原、浮かぶ島影、そして港々の風情など、限りなく旅情を誘います。私は中でも石巻、牡鹿半島、志津川(南三陸町)気仙沼、陸前高田あたりの入り組んだ小さな湾の風光が好きです。幾度訪れても自然の織り成すモチーフに見飽きることがありません。

2011年3月11日、その日この穏やかな海は荒れ狂い、怒涛逆巻く濁流の中に平和な町と人々の暮らしを沈めて浚ったのです。私は日々伝えられる信じがたい惨状を見ながら、なんとも言えない喪失感に襲われています。余りにも無情苛酷な天災に何故?どうしてこの海が・・・と天を仰ぎ絶句しました。

津波は明るい町を押し流し、尊い人命を翻弄するように奪い、明日の希望までも消し去りました。余りにも重く辛い現実です。営々として築いた人々の軌跡と営みを瞬時にして壊滅してしまいました。私は廃墟のような惨状を見ながら何故か1945年、東京大空襲のそれと重ねていました。嘗め尽くす火の海に街は焦土と化し、青山当たりに従兄弟達の遺体を捜していた私を思い浮かべました。然し戦争は敗色濃い中で本土決戦を覚悟し、竹槍でも国の大事に殉じようとの悲壮な身構えがありました。この東北震災は、何のプロセスもなく人々の平和な営みを瞬時にして無残な地獄絵図に変えてしまいました。


何処まで災害規模が広がるのかはかり知れません。原発神話も脆くも崩れ去り世界に大きなショックを与えています。原子力政策の岐路ともいえます。経済的損失も30兆円超に及ぶかといわれています。

避難生活はやがて精神的、肉体的限界に来ます。地域の自治体が崩壊しているので、国や、健全な自治体が協力して、被災地別の援助MAPを作り積極的に対応すべきです。このようなときこそ霞ヶ関の賢いエリート達の出番でしょう。当面は生活物資の供給に全力を挙げるべきです。例えば孤立している南相馬町の叫びは何とも悲痛なものです。


世界の見る目は日本人の沈着冷静さへの驚嘆のようですが、耐えて待つ消極性の裏返しかも知れません。一方都会の人が買いだめに走り、わが身を守るのは生活の知恵としてある程度は理解できたとしても、被災地への補給に影響を与えることはあってはならないことです。後で処理に困るほど備蓄するのはナンセンスです。何処に行っても何もない現状は明らかに行きすぎです。

これは「天罰」だといった某知事の暴言は、取り消しようはないでしょう。本性見えたりです。このような知事に被災地への真の思いやりなどあるはずがないと思えます。100億の義援金もさることながら、松戸市のような心の通う暖かい対応こそが必要なのではないでしょうか。


私にも宮城には知人が数多くいて、まだ多くは安否確認が出来ません。その中で石巻に住む甥の家内の実家4名の一人が確認できたとの朗報が昨日もたらされました。 然し残る3名はまだ不明で不安は続きます。仙台市、村田町からは[一人づつ喜びの声が届きました。

つい1週間前の三陸の町や港はもう再び元の姿をとり戻すことはありません。この大震災は日本の歴史や明日の展望を変えてしまいました。

私事ですが2月下旬に開いたあの賑やかで華やいだ「夫婦展」がとても昔にあった出来事ように思い出されます。

美しい石巻湾、女川湾、志津川湾は元の静かな遠望を取り戻していることでしょう。どうか鎮魂の海となって、多くの犠牲者を葬い、復興の郷土を見守って下さい。
  
                         2011年3月16日記

2011/03/06

「水と油の夫婦展」顛末記

 2011年2月21日~27日 関内の「ガレリアセルテ」で開いた羽佐間英二・勝子の絵画展はお蔭様で予想を上回る盛況のうちに無事閉幕しました。来場者は1073名を数え画廊新記録となったようです。水彩の英二、油彩の勝子で「水と油の夫婦展」とネーミングしたのがユニークで洒落ているという前評判が立ち、興味をそそられた方が多かったようです。

新聞記事などの情報でお見えになった方が大勢居られました。

久しくお会いしていなかった昔の方々とも再会することが出来ました。期せずして絵を通しての触れ合いの場が広がりました。

計画して良かった。長いプロセスの苦労が報われたというのが偽らざる心境です。



私は昨年7月、10年ぶりにイギリスのコッツウォルズへ旅スケッチに出かけました。

20人のグループでの12日間の夢のように優雅な日々でした。この旅も絵画展のための大きなプロセスでした。時の流れを感じさせない田舎町の佇まいは懐かしく、思い出と重なり郷愁を誘うものでした。

この旅スケッチの作品は水彩17点の出展に及びましたがお蔭様で好評を博しすべて他家のご所蔵となりました。 ハニーカラーの家並みや石垣など暖色系の色合いと、澄み切った空気感の表現が評価いただけたようです。 暗い世相の中、暖かな和みとほのかな癒しを感じ取って頂いたのかもしれません。

妻勝子もコッツウォルズ風景を好んで出品しましたが評判を頂いたようです。

私たち夫婦にとっては再びめぐり来ないであろう「世紀の祭典」が終わり、今は心地よい疲れと、達成感の中で祭りの後始末をしています。



アルバムの表紙をクリックすると、絵画展の様子、全作品が見られます。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

この絵画展にあわせて、初めて水彩画集を作りました。絵画展に平行しての制作でしたので、編集や校正など大変でしたが、何とか絵画展の初日の発刊に間に合わせることが出来ました。67ページの中型の本ですが、この5年ほどの作品の集大成としてほぼ満足できる内容になったと思っています。巻末に私の水彩画暦と小さなエッセイを紹介しました。 ¥2000のプライシングも適切だったようで絵画展会場でも多くの方にお求め頂きました。 水彩グループの教本にも使えるとの有難いコメントも頂きました。



私は自身の主宰する「みずき会」という水彩風景画教室を持っています。このメンバーの皆さんの全面的な協力を得て絵画展の運営が出来ました。長女の美知もこのときとばかりほぼ連日サポートしてくれました。

「みずき会」はこの4月11日(月)~17日(日)の日程で、山下公園前の「県民ホール」の画廊で第3回の絵画展を開きます。23名の個性溢れる力作が展示されます。

私も小さな作品を賛助出品する予定です。

お時間がありましたらこの絵画展もどうぞご高覧ください。

                                    以上