2011/11/30

人生色々こぼれ話(11) 〜戦後の始まり

人生色々こぼれ話(11) 戦後の始まり



天皇の詔勅で戦争は終わった。敗戦の国民的なショックは計り知れないほど大きかった。“勝利の日まで”を合言葉に一億総決戦を胸に秘めてこれまで戦い抜いてきたのだ。その挫折感で日本は立ち直れないのではないかとさえ思った。

然し人々はただ黙して耐えた。彼等は天皇のご英断に心を傾けつつも溢れる無念、無情の想い絶ちがたく、正座して宮城前にひれ伏し涙した。無辜(むこ)の民のこの耐え難い姿を聖戦の責任者である大元帥陛下はどう感じとられたであろうか。

軍国日本は永久に戦争を放棄し平和日本として生まれ変わろうとしていた。そして焦土と廃墟の中からの復興も少しづつ始まった。

昭和20年9月1日には曲がりなりにも新学期(私は中学4年)が再開し級友達は、学校に集い、お互いに無事を確かめ合った。陸幼、海兵の勇士達も帰還してきた。再び剣を筆に変えて学業に励む日が帰ってきた。

戦後が始まった。



私たち一家4人は家もなく、焼け残った本家(:*1)の家での居候を余儀なくされたが、復員してきた親戚や疎開先からの引き揚げを含めて一族郎党20名近くだが、それぞれの家族が部屋をあてがわれ集団生活をした。

山形から来ていた力持ちの心優しき女中Cさん(私たちは彼女をchiyobusuと呼称していた)は故郷に帰らないで留まってくれた。 今でも仲良く我々世代の「羽佐間いとこ会」が続いているがこのキャンプ生活は共有の歴史となっていて連携の絆のように思える。

食べ盛りの子供達が多く、食料の調達は並大抵のものではない。食料、日用品、酒、タバコに至るまですべて切符配給制(これは戦争中から続いていた)であるが、瞬く間に底をつき、母達は千葉の農家に闇米や野菜の買い出しに出かけた。

駅頭などで捕まれば統制違反で没収のリスクはあるが、着物や帯と食料品の物々交換は日常茶番事であった。戦時中から続いているタケノコ生活の知恵である。

サツマイモが貯蔵されている部屋があり、これが私たち3兄弟にとっては絶好のねらい目となり、深夜ともなると、二階から外へ物干し台の柱伝いで外庭に抜け出し、ストック場所の窓から侵入する。収穫した芋をひも付きのバケツで吊るし上げるのだ。少年時代に鍛えた木登りなどの軽業が大いに役に立った。 煮炊きは私が動員の時に確保した電熱器(ニクローム線と称する簡易コンロ)と鋳物の飯ごうである。大量の在庫の山から2,3本ずつ頂戴するので、痕跡は留めない。私たちの飢えを凌ぐ最たる方法として今尚秘話として残っている。


配給米は7分づきのいわば玄米(玄米の皮が30%残っている米)なので炊いても固く、まずくて食べられない。すぐにお腹を壊す。業者は違反となるので精米が出来ず、みな自宅で一升壜に米を入れて棒で突いて皮を取り除く手動式精米法が普及していた。僅かなお小遣いでこの作業にたびたび駆り出されていた。しかし口にする主食は、おもゆに、さいころサイズのサツマイモが浮かんでいる流動食である。


「すいとん」と称する代用食は本当にまずかった。お湯を沸かし緩くといた小麦粉の塊を落とし固まったところで殆ど味のない汁で食するのだが、浮いているものはサツマイモや南瓜の茎と葉っぱである。高粱の一見赤飯を思わせる真っ赤な固いご飯、粟や稗、食べられるものは何でも口にした。

海岸で海水を汲んできてすいとんを作ったという話さえある。

塩もないけど、糖分も乏しい。当時某火薬会社が「ズルチン」という変な名前の化学甘味料を開発しこれがヒットした。然し副作用が問われて間もなく衰退したように思う。



どういうわけか、私は家庭農園作りが好きで、防空壕の上や狭い空間を見つけては、枯れ草を焼いた灰と若干の自家製おわいでトマトやナス、きゅうりなどビタミン補給のできる野菜を栽培し食卓に供し好評を得た。サツマイモも挑戦したが、細いひょろひょろのうちに食べてしまいまともに収穫したことはなかった。

信じられないことに後日私は中学5年から「東京高等農林」(現在の東大農学部)を受験し落ちた。ばあさんが「英二は手先が器用で、畑つくりも好きだから・・・」との単純な理屈に後押しされて軽はずみに受験したが落ちてよかった。

もし受かっていたらやがて山深き営林署か、さいはての酪農工場勤務であったことだろう。後には世界辺境の地で米や小麦つくりのボランティアに励んでいたとも思える。意外と「エイジー」と慕われ地元の名士に名を連ねたかもしれない? 
姪の長男が現在、岩手大の獣医学部に在学しているが将来が楽しみである。



自家製パンは結構いけた。やや大きな弁当箱型の木箱の左右内側にトタン板を張る。+-の電極をつなぎ、この箱の中にふすま入りのメリケン粉と重曹少々を練り合わせた生地を入れコンセントにつなぎ時を待つ。10分もするとふっくらと蒸しパンのように焼きあがる。途中で半生の生地を触ると感電するので要注意であるが、このパン製造機はやがて市販品も出され普及した。


タバコの葉をきざんだものが配給されるのでこれを薄手の紙に手でくるんで吸うのだが大人たちは一日5本くらいの割り当てでは到底足りず、イタドリ、梅、椿、などの葉を乾燥させて刻みこれをタバコとブレンドして吸っていた。松の葉も乾燥させて点火するとパチパチと音を立てて煙を出した。口の周りで焚き火をしているようなものだ。一本づつ巻くタバコ紙巻器も売り出され一家に数台が常備された。


戦争後半には敵性語で無用化した「英和コンサイス辞典」が最高の紙質だった。1冊1200ページくらいあるので600本が巻けた。中には単語を覚えるとその頁を食べたりタバコ巻きに転用している輩もいたが所詮空しい努力である。

私は中学4年の頃いたずらでタバコを吸ったが、一度駅のトイレで友達と吸いっこしてその場で倒れた。まともに喫煙したのは大学に進学してからだった。



酒も配給制であるが婚礼などには特別に一升壜が配給されたようだ。アルコール分8度くらいで、金魚も泳げる「金魚酒」といわれた。叔父達は、お酒好きが多く何処から手に入れるのか結構「どぶろく」などを飲んでいた。
時に、闇のルートで「白鹿」という清酒を仕入れてきた。


母の弟のT叔父は、戦前から新橋で立ち上げた名門焼鳥や「串助」(;*2)の再興を目論んでいた。

今流で言えば脱サラ(当時は東鉄、現在のJR東日本勤務)であるが随分思い切った決断をしたものだと思った。
実はそこで扱ったのが灘の銘酒「白鹿」だったので後日謎が解けた。



(*1)羽佐間家は赤穂義士の末裔である。当時は羽佐間ではなく間を名乗り、喜兵衛光延(
元禄十六年二月四日、細川家に於いて切腹、享年六十九才)その子息の重次郎光興、(水野家に於いて切腹、享年二十六才)新六郎光風(毛利家に於いて切腹、享年二十三才)が四十七士に加わり主君の無念を晴らした。
吉良上野介を突いたと言われる重次郎の一番槍は泉岳寺に寄贈されている。
現在の当主Sさん(十代目)は重次郎の直系の子孫で私たち3兄弟の従兄(父の兄の長男)にあたる。
医者、検事正と真面目で固い家系であったが近年はマスコミ、キャスター、声優など口演
関係の系譜に変わったようだ。
何でも前向きに動く、曲がったことが嫌い、反権力志向、など皆似ていてこれも義士の血統かもしれない。


(:*2)戦後2,3年後であるが、やがてこの「串助」は文化人、芸能人のたまり場となった。和田信賢、松内則三、竹脇昌作、藤倉修一などのアナウンサー、小さん、正蔵、円歌、柳橋、正楽、しん生などの噺家達、堀内敬三、サトーハチロウ、徳川無声、渡辺伸一郎といった文化人が集いいつも店は賑わっていた。
「橘右近」とう橘流寄席文字の家元の書いた常連客の名札が店内の壁面狭しと嵌めてあり
私はそれを眺めているだけでも楽しかった。
以上



(戦後のプロローグはやはり食べ物からとなりました。飽食の現代から見れば信じられない世相ですが終戦直後は年末にかけて餓死者が続出しました。日比谷公園で餓死者対策国民大会なるものが開かれました。暗黒時代から次第に夜が明けてゆくのですが道のりは平坦ではありませんでした。

私はこれからもこの寄稿を続け完結する義務があるように思えてきました。

つまり娘が言うようにこぼれ話ではなくなってきたようです。丁度時間となりました。お後がよろしいようでとは行かないようです。

そこでお願いがあリます。明年からこれまでの毎月2回の掲載を1回にしたいと思います。毎月1日頃出しますのでどうかご愛読を続けて下さい。正月はお目出たい気分を損なってはまずいので、少し遅らせて掲載します。)

2011/11/14

人生色々こぼれ話(10) 終戦

人生色々こぼれ話(10)
終戦

20年3月10日にB29、110機による東京の下町を焼き尽くす大空襲があり、10万人が殉じた。4月には米軍が沖縄本島に上陸した。

5月25日には東京山手地域への猛爆が続いた。私たちは当時高輪の本家に住んでいたが、五反田方面からの火の手が迫り、遂にその時が来たと観念した。従兄のSは家が焼失しても「世界文学全集」を残したいというので、これを持ち出す作業が大変だった。何しろ重いので10冊も抱え込み階段を下りて外に持ち運ぶのだが、100冊以上もあってとても間に合わない。とうとう最後は3Fの窓から下に放り出すこととなった。

1時間ほどの焼夷弾爆撃を受けて、あたりは火の海となりもはや延焼は免れないと思った。然しやがて風向きが変わり、懸命の消火活動も奏功し高台の一角だけが奇跡的に焼け残った。これも強運この上ないことである。

青山に住む叔父(母の弟)の一家は、家を守り最後に墓地に逃げた叔父と長男は幸運にも助かったが、早めに逃げた叔母始め一家6人が表参道の路上で犠牲になった。 翌日弟達が探しに行き重なり合う黒焦げの遺体をそれと確認した。焼け爛れた小さな金庫が印しだった。

現在の港区、品川区、渋谷区、新宿区の辺りが焦土と化した。遺体の燃える凄惨な現場の映像は打ち払っても尚脳裏をよぎることがある。親や兄弟を失つたであろう少女が泣きじゃくりながら焼け跡に佇んでいた光景を忘れることはない。


世界のどこかで、今尚戦争やテロが繰り返されているが、平和ボケと呼ばれても日本は素晴らしい国土だと思える。



5月の空襲で動員先の五反田にある広大な電気試験所も焼失した。一時学校に戻り次の動員先の命令を待つ身となった。そして今度は福生にある陸軍の飛行基地に決まった。

7月始めの或る日11時に青梅線福生駅に集合せよ、とだけの指示である。何をするのかも分からずに私たちは戦場に駆りたてられる様な気持ちで家や家族と離れた。帰れないかもしれないとすら思った。飛行場なので「グラマンF4F」など艦載機の襲撃が激しいに違いないと思った。

仕事は畑つくりが主たるものであった。サツマイモを栽培し航空機燃料のアルコールを採取するという。(いわば芋焼酎で飛行機が飛ばせるのだろうか?)それに宿舎の清掃、防空壕の整備、軍機の清掃、敵機爆撃跡の穴埋め、といったものである。とにかく朝から晩までの労働である。くたくたになり粗末なベッドに寝ると今度は南京虫の襲来である。ひっきりなしの波状攻撃に辟易する。


予想したように、昼間は艦載機が飛来する。敵兵の顔が見えるほどの低空での爆撃、機銃掃射でとにかく近くの防空壕にすばやく潜りこみ身の安全を図るしかない。迎撃する戦力が無いので、敵の思うままである。整備中の戦闘機が爆破、炎上される。機関銃で迎え撃つものの敵機に命中した試しはない。粉みじんに飛ばされて戦死する兵もいた。

口には出せないけどいよいよ日本は敗けるのではと思った。それでも「荒鷲の歌」「勝利の日まで」などの歌で鼓舞し、耐える日々が続く。中学に入学した頃の希望に燃えた赤き心は色あせていた。



♪嫌じゃありませんか軍隊は、かねの茶碗にかねの箸、仏様でもあるまいに、一膳めしとは情けなや♪と厭戦歌の通り、大豆入りの飯に、味気のないおかずでは元気は出ない。早く帰りたいとの想いが募る。

正雄は動員対象ではないが、学校に通っているだろうか。道夫は長野県に集団疎開をしているけど元気でいるだろうか。母の日々の暮らしぶりはどうか。など寝ながら思いを巡らせることもしばしばであった。

昭和20年8月に広島、長崎に相次いで原爆投下、そして8月15日、歴史に幕を閉じるその日がきた。

師団長以下整列し正午に終戦の詔勅を恭しく聞いた。玉音の中身はともかく、日本は無条件に敗れた。無念の涙が頬を伝わってとめどなく流れた。 やがて身の回りや宿舎を整理し、私たちは、大豆を土産に悄然と帰路についた。誇れるもの、輝けるものは何も無かった。生きていた喜びを思う心すら失っていた。


ただ真夏の陽光だけが眩しく長い影を落としていた。それは灼熱の暑い日であった。


1億総決戦だけは免れたが、汗のにじむぼろぼろの服をまとい、心空しく家路を目指したそのときから想像を絶する混乱と苦難の戦後が始まった。

残る愛機に乗り、飛び去ったまま帰還しなかった軍人がいたという。大君(おおきみ)の辺(へ)にこそ死なめ、顧みはせじ!の一節を残して。


この戦争の犠牲者は戦闘員1,741千人、非戦闘員393千人の記録が残っている。 焦土と化した都市は66にのぼる。市民の頭上に降り注いだ爆撃が無差別殺戮だったかどうかを戦後問われたことはなかった。 軍事目標だけを狙ってのじゅうたん爆撃などありうるはずがない。

人間の尊厳を踏みにじり、虫けらのように尊い命を奪ってゆく戦争は、国家や民族が犯す最悪の罪であり、どこにも正義などありようがない。


以上

(丁度第十話で戦争が終わったことになります。長くお付き合い願い有難うございました。然しこれから私自身姿を変えながら生きてゆく戦後が始まります。どんな展開になるのでしょう。どんなことから書き始めたらよいのかまだ暗中模索です。じっくりと噛締めながら書いてゆきたいと思います。)