2011/06/25

人生色々こぼれ話 (2) ~少年時代①~

人生色々こぼれ話(2)
「少年時代」・・・①

私は13歳(小6の1学期)まで九州の炭鉱町で過ごした。“三池炭鉱に月が出た”で
有名になった黒ダイヤの街である。石炭産業の衰退と共に戦後は見る影もなくなった大牟田の町もその頃は活気に満ちあふれ、好況に沸き返っていた。

父は関東大震災の1923年に大学を卒業、三井鉱山に就職し翌24年に結婚してこの炭鉱町に赴任したことになる。T女学館を出て間もない新婚の母は“良かおなご死んでしまえ!
”と石を投げられ知る人もいない狭い社宅住まいで心細く泣いて暮らしたという。後々の気丈な母はこの辛苦に耐えてのことだったのかもしれない。

私は荒尾町万田という社宅街で生まれ育った。父が昇進する度に社宅を移り住んだ。小学校に進む頃には家にねいやもいて、庭に池があり、仔犬が走り回っていた。


父は労務関係の仕事で帰宅が遅く家族で夕食を共にすることは稀だった。その代わり日曜日はバスで15分ほどの大牟田の町に散歩と食事に連れて行ってくれた。時に映画に行こうといってエノケンヤロッパの喜劇に誘い出してくれるのだが、次第にもの足らなくなり、「愛染かつら」「浅草の灯」や「支那の夜」などを密かに観に行った。純真な少年の心は乱れて目は血走っていた。「風の中の子供」や「路傍の石」といった名作にも出会い心を打たれた。

「のらくろ」のシリーズ、「家なき子」「母を訪ねて三千里」「綴方教室」「リビングストン
の冒険」などを読み漁り心を燃やした。今思うと多感な少年だったのかもしれない。

世界のプリマドンナ「三浦環」は父の従姉妹だが、ある時「入江たか子」との蝶々夫人の共演で大牟田にやってきた。始めてお会いしたのだがその見事な風格と派手なコスチュームに圧倒されて一言も声が出なかった。高額なお子遣いを頂戴し(多分10円)びっくりしてお礼の言葉も失った。

「声」という字の色紙を父に残し風のごとく帰京して行った。やや色あせたその色紙は今も我が家に残っている。弟二人は揃って声のプロフェショナルだが、三浦環さんのDNAの影響に違いないと思っている。



少年時代には誰でも忘れられない出来事がいくつかある。しかも可なりの精度で記憶の中に蘇る。トンボ捕り今日は何処まで行ったやら・・・。友達と連れ立って鬼ヤンマや熊蝉を追いかけるのは夏の風物詩にも似ていて宿題を放り出して興じていた。

大きな樹の枝にとまって我が世の春を謳う熊蝉が見えるが網が届かない。鳴き終わるとションベンを引っ掛けて逃げるのが習性。どうしても捕りたい!今だと樹を登り枝に移って網を伸ばしたとき蝉は風の中へ、私は枝ごと地上に落下となった。何とそこは、畑の流動肥やしの壷の中、黄金漬けとなり、友達の手を借りて脱出する。

近くの1君の家で裸になり風呂で洗い流し、少し黄ばんだ下着やシャツの乾くのを待ち、友達3人で恐る恐る帰宅する。「H君のおっかさんは良かおなごばってんえすかけん」皆日頃そう言っていた。美人だけど怖いから・・・・ということ。
「みなよく来たね。お上がり」何の報告もお咎めもなし。冷えたスイカをたらふく食べて
「今日はほんなこつよか日ばい」とニコニコ顔で帰って行った。あのシャツや下着に2度と出会ったことはない。ミステリアスな話である。私にはほのかに漂う香りが残った。


もう一つは弟・正雄の落下事件。万田抗のN抗長の家には、室内ゴルフの練習場があった。
名だたるいたずらっ子の弟は、ねずみ小僧か丹下左膳のまねをして、瓦屋根をびょんぴょん飛び跳ねて走り回るうちに、痛んだ屋根を突き破り地上5mほど落下。そこはゴルフ練習場の中である。天井に厚地のキャンバスが張ってあったのが幸いしてバウンドして軟着陸となった。落雷まがいの大きな音がして、救急車で病院へ。本人は無傷でも上役の家を傷つけた、母の心の傷も深かった。


家の近くに、駄菓子屋があり、焼き芋の匂いがぷんぷんと漂う。甘納豆の小袋を買うと
大きな袋が当たったりする。夏の日の冷たいラムネの喉ごしは忘れない。でも我が家は買い食いご法度である。

その頃東京からきたS君はいつもお小遣いに事欠かず羨ましかった。早速仲良くなって、母の目を盗んで駄菓子や通いをした。或る日ねいやに見つかり口止めに高級な大牟田饅頭で買収は成功。私はS君が石の影に設置した野外金庫の在りかを知っていたけど決して盗掘したことはなかった。

その駄菓子屋の隣は馬車やである。四つ山という隣の鉱山まで通う重要な交通手段である。
6人乗りほどの馬車で行く暫しの旅は嬉しかった。母は女学校の後輩Yさんのお宅に何度も連れて行ってくれた。美人のオバサンに可愛がってもらった。今をときめくジャズピアニスト・山下洋輔の実家である。その姉のM子さんは今でも弟・道夫の芝居や、私の絵画展を見に来てくれる。
「虚空蔵」さんというお宮の縁日にその馬車で行くのが格好良かった。“コクゾサン参りは
宮本馬車で行こうよ 何処を向いても菜の花盛り・・・・・・“と『野崎小唄』の自作の替え歌を口ずさみながら。                        以上  
  
  (このエッセイは好評のようなので、毎月1日、15日ころ掲載します)    

2011/06/13

人生色々こぼれ話 (1) ~社会人一年生

人生色々こぼれ話(1)
「社会人1年生」

娘や孫に促されて、越し方を振り返りこぼれ話を綴ることにした。もうそろそろ思いつくことを書き留めておかないと、記憶が霞んでは間に合わないとの思惑かもしれない。

然し確かに後世に残す大事な作業の一つかなと思うようになった。出てくる話は僅か半世紀強の時系でしかないのに、そこには激動の時代背景が重なり、今の世の中からは想像の出来ない自由闊達で、情緒的、貧乏でも温かく人情に満ちた人間の営みがあったように
思い返される。


先日孫のshunが始めてのお給料(本人はお給金と称している)を頂いたので妻共々夕食
をとのお招きを受けた。嬉しい話なので喜んでその饗応を受けることとなった。

昨日までの学生気分は拭い去られ、社会人としての自覚満々で希望に満ちた明日を約束する彼の言動に驚きを禁じえなかった。彼が入社したO社は業界では名門、そして人間尊重の経営を貫いているクラシックな会社だけど、12,000人のエントリーから選ばれた12人のエリートの一人らしく、その誇りある語り口にしばし耳を傾けた。


私はひそかに60年前の私を想起していた。花の28年組と騒がれていたけど、失業者は町に溢れ企業倒産続出の大不況の最中にあった。吉田茂の「バカヤロー」解散の年である。
会社は今の「三井金属鉱業」、父の勤めた「三井鉱山」の非鉄部門ともいえる財閥系の会社
に身を置くこととなり、その時の母の喜びようは今でも忘れない。亡父の仏壇に日々報告をしていたようだった。何しろ会社と言えば三井しか頭になかった母の思いを充たしたのだから私も無形の親孝行をしたことになる。

本当は新聞、報道関係に入りたくてトライしたのだが、朝日新聞、NHKとも願いは叶わず、三井という傘のもと、堅実、質朴の明日に向かって1歩を踏み出した。


初めての職場は北区王子に在った(今は埼玉県上尾市)圧延工場の製品出荷の倉庫係だった。銅の板や真鍮の棒を、日立や東芝などの需要家と問屋在庫用に送り出すための伝票書きの仕事である。出荷が終わると、日計表の作成、明日の出荷予定表の作成など繰り返しの日々で、たちまち5月病に罹患してしまった。そろばんは苦手で残業が当たり前、体もくたくたで工場内の診療所でザルブロという静脈注射を打つ毎日だった。看護婦のKさんがやけに親切だったことだけを覚えている。

学生の時から所属していたS合唱団の活動も盛んで日曜日は殆ど三軒茶屋に出かけ練習に明け暮れていた。第九を暗譜する作業もあり音楽も闘いに似ていた。


当時私は新宿区戸山町のぼろ小屋に居を構え(このあたりの話は後日に)早稲田から王子の神谷町まで都電で通勤していた。32系統で早稲田―面影橋―学習院下を経て雑司が谷-巣鴨―飛鳥山―王子まで、そこで27系統の赤羽行きに乗り換え工場のある神谷町まで1時間近くを掛けてのんびりの電車通勤だけがゆとりの時間だった。

早稲田から大塚辺りまで乗るOGが気になっていたのだがある日からぱったりと会わなくなった。父の転勤でどこかへ、もしやお嫁になどと想像を巡らせていた。

今でも最後の都電として早稲田から三ノ輪橋までこの区間だけが運行しているのは懐かしく、ワンデイトリップに出かけてみたいと思う。


間もなく、私には事務労働は不向きと思われたのか、人事的なローテーションのためか
年明けを待たず、経理課に転ずることとなった。質の違う忙しさが待っていたが、仕事は
面白くなった。ネガティブからポジティブへの転換を感じた。先輩諸氏も親切に指導してくれた。私も本を買って実務的な勉強をした。

俄かに文化人になったような気分で、先輩との飲み会にも加わった。近くの小便臭い喫茶店で話に興ずる日々も少なくなかった。このメンバーに後に娘の名付け親となる自由人のTさんがいて、長い交流が始まった。絵を描くことを教えてくれたのも彼だった。「山の友よ」という山男の歌は彼の作詞、作曲でダークダックスのレパートリーとなった。

Nさんは釣り狂で、誘い合って山に岩魚、ヤマメ釣りに出かけた。鉄橋で電車に出くわしたり、引掛かつた糸を外そうと登った木から川に落ちたり、熊の足跡を見つけたり、武勇伝は少なくない。後年家庭を顧みず釣りに熱狂したためか、妻は娘を連れて私の実家に家出をする始末であった。


冬のスキーは良く出かけた。上野初23時50分上越回り米原行きの夜行に飛び乗り、早朝石打に着き,仮眠をして、1日滑りまた夜行で帰る等の今では考えられない荒業が良く続いたものだと思う。妻とのロマンスはリフトのロマンスシートで芽生えたとの美談が伝えられている。


初任給8,000円(孫の4%弱)は殆ど飲代と野外の行楽で消えた。然しこうしたお付き合いで次第に人脈は厚くなった。仕事だけの虫にならないで、この、時代を超えて良く遊んだことは私の人生の糧になったように思っている。文武両道とはいかないまでも、忙中閑ありの構えが備わったのは経理課の自由で風通しの良い雰囲気のおかげと感謝している。恵まれた社会人としてのスタートであったが、約1年後に結婚する時、貯金ゼロ、で家賃4000円の負担は大きく共働き生活が始まるのは止むを得ぬとしても、家計のバランスから月300円の10畳一間の木賃宿以下の家族寮に移り住むことになった。台所もトイレも共用でスイートホームとは程遠いものであった。

電気洗濯機を買って、我が家が特権階級のように見られたあの頃が懐かしい。
家族寮入居者は、その実績で1年後優先的に新築の集合社宅(浦和)に移れることとなった。 
                                 以上