2011/10/31

人生こぼれ話 (9)東京大空襲

人生色々こぼれ話(9)
東京大空襲

中学の制服はカーキ色(当時防空色と呼んでいた)で学帽は戦闘帽、そして登校、下校時には巻き脚絆の出で立ちである。女学生もセーラー服にもんぺの戦時姿に変わっていった。当時我が家は駒込にあり、JR(省線電車)山手線で恵比寿まで通学していた。何しろ途中に池袋、新宿、渋谷があるので帰路の途中下車はしばしばであった。

家の近くに日枝神社があり何かと集い合う格好の広場であった。母の相談相手となってくれていた慶応ボーイのKさん(私たちは傳さんと気安く名前を呼んでいた)はハンサムで、ウクレレにのせて自作のメロデイを聴かせてくれた。今でも口ずさむと懐かしさが蘇る。浅草・神谷バーの一族の人だった。先ごろ家内と近くを訪ねてみたが、日枝神社の社殿と大銀杏は昔の姿を留めていて何か安らぎを覚えた。


数年前弟がKさんを探し当て我々兄弟で是非再会をと懇請したが、電話での声は聞けても、顔を合わすのは遠慮されてどうしても想いは届かなかった。



中学に入学した17年4月には早くも米機の本土空襲が始まり、6月には日本はミッドウエイ海戦で惨敗を喫している。そして翌年2月にはガダルカナルにて敗退、5月にアッツ島玉砕と敗色が続く。“北海の寒気厳しきアッツ島2千の将士華と散らるる”当時私の作った和歌である。

東京にも時に警戒警報のサイレンがこだまするようになる。(空襲時には空襲警報が断続的に鳴る)灯火管制といって家中の灯りを消すか、黒いカバーで覆うのが義務である。灯りが隙間から漏れていて警戒中の防空班員からひどく怒られたこともあった。


昭和18年3月に父が天国に旅立った。連続する全国各地への炭坑出張の疲れからか結核を患い、1年ほどの闘病のあと45歳の若さで他界した。


寒い払暁であった。悲報を聞き、兄弟3人で本郷の東大病院に言葉も無く駆けつけた。父は霊安室で静かに目を閉じていた。私たちは心を引き締めて、これからの多難な時代に立ち向かうことを誓い合った。私が中学1年の3学期、弟がそれぞれ小5、小3であった。兄弟の結束がそのときに始まり、今も仲良く付き合えているような気がしている。

母は気丈な明治女であったが働き手を失い、食べ盛りの3人の男の子を抱えて戦中、戦後の労苦は計り知れない。阿修羅のごとく立ち向かうその頃の母の姿が瞼に浮かぶ。

先にも話したが、まともに学業を受けるより、修練、訓練の方が正課になっていった。昭和18年10月、箱根須雲川での4日間の禊(みそぎ)の辛さは今でも身にしみて覚えている。

白装束、鉢巻姿で勢ぞろいし、神池に入る時は一斉に褌一本である。水に入って両手を前に組み上下に動かしながら体を揺すり“天照大神、天照大神・・・・”と唱えるのだが最後の方は体がしびれて身を切る冷たさすら感じなくなる。
禊が終わると五分粥にごま塩、梅干一個の朝食であるが“箸とらば 天地御代の御恵 君と親とのご恩味わえ“と唱え、食事が終わると”飯食終わりて新力満ちたり 勇気前に倍し事為すに耐えん“となる。質、量とも”新力満ちたり“と言えたものではない。そのあと有難い修身の話を聞いてにぎり飯を持って箱根八里を歩き回るといった修行である。


孫のshunがアメリカで16歳くらいの頃ボーイスカウトの訓練で難行苦行の行軍をした(彼は2005年にイーグルスカウトという最高の栄誉を得ている)が私の14歳の修行と重なりあうような気がする。


軍事教練(当時は陸軍省からの配属将校がいた)は日常茶番事であるが、俵担ぎ、投擲、銃剣術など苦手である。何か武術をということで柔道に救いを求めるものの、これとて後手に回ることが多く、特に寝技は不得意であった。一度強烈な体臭のS君に首を絞められ毒ガスを嗅がされたように悶絶寸前になったこともある。以来とらうまで彼と組んで倒されると、絞められる前に“参った”を余儀なくされた。

比較的強いのは、長い20km~30km位の行軍であった。背嚢を背負って夜間、雨中、雪中など落伍することなくゴールできた。後年歩き回るゴルフ、渓流釣り、スケッチ紀行が平気なのは少年時代からの素質かもしれない。


然し毎週月曜日の早朝駆け足はきつかった。制服、制帽、軍靴にゲートル巻きで中目黒、渋谷、恵比寿などのルートを2列縦隊での駆け足である。隊列が乱れたり、ゲートルが緩んだりすると配属教官から横ビンタを食らうことになる。


月に1回仙川の農場で農業実習があったが、自然に親しむ機会でもあり種まきから収穫までの楽しみもあって好きな行事であった。帰りに大根やサツマイモなどの収穫物のお土産つきである。

戦局は厳しさを増し、昭和19年(1941年)には集団疎開(下の弟は信州に疎開)、1億總武装、17歳以上は兵役編入となった。神風特攻隊はこの年の10月に初出撃をしている。

米機の東京空襲は日増しに激化しいよいよ本土決戦の構えになった。


私たちは20年3月の東京大空襲時、雑司が谷(駒込のあと転居)で雨あられと降りそそぐ焼夷弾の爆撃で罹災し、やむなく昭和16年に上京の時お世話になった高輪の本家に再び転がり込むこととなった。
雑司が谷での猛爆の夜、赤い炎をあげて私の目の前を焼夷弾が走り、地面に突き刺さった。後数十センチの所で私は直撃をまぬかれた。奇跡という他はない。


その後5月頃だったと思う。東京駅の八重洲口で汽車の切符を求めるために長い列に並んでいた。30分を経過した頃、空襲警報のサイレンが鳴り終わらぬうちに、数十米後方に爆弾が炸裂した。時に私は切符売り場の窓口の前から2番目に並んでいた。

猛烈な破片が飛び散り、唸りをあげて爆風が人々を吹き飛ばした。とっさに頭に手をやり地べたに這い蹲った。体を動かしてみる。どうやら助かったらしい。後ろを見返ると粉塵が立ち昇り、人影は殆ど消えていた。傷ついて呻く声がする。切符売り場も爆風で吹き飛ばされていた。まさに地獄絵の有様であった。この強運に祖母は喜び、ご先祖様のお蔭と仏壇に長い時間手を合わせていた。この二度の強運は亡き父の庇護であったように思う。


20年2月(3年の3学期)には学業は事実上放擲し学徒勤労動員に組み入れとなった。勤務先は逓信省の電気試験所(五反田)である。仕事は明けても暮れてもほぼ暗室の中での現像、焼付けで防空壕暮らしみたいなものであった。軍事上の機密的な情報も含まれていたようで、内容の理解は不要で、機械的に作業するだけであった。O学園の女子生徒2名も配置されていたがその一人Hさんと後年早稲田のキャンパスでばったり会いお互いに健在を讃え合った。 

                                             以上

(戦時中の事は、子供達や、孫達に都度話してきたけど、こうして実録として文章に
組み立ててみると、ついこの間の出来事のようにその光景が見えてきます。次回は終戦の姿を書くつもりです。厳しく辛い話が続きますが、その後は信じがたい激動の戦後をいかに生き抜いたかをお伝えしましょう。事実は小説より奇といわざるを得ません。) 

2011/10/17

人生色々こぼれ話(8) 〜開戦そして進学

人生色々こぼれ話(8)
開戦そして進学

その年昭和16年12月8日、真珠湾への奇襲で日本は太平洋戦争に突入した。あたりは次第に戦時色に包まれてきた。4月に尋常小学校は国民学校に呼称が変わり新教科書にが制定された。そうだその意気♪とか 大政翼賛会の歌♪等戦時歌謡が流れる。

明けて17年、学友達は中学への進学準備に入る。ハンディキャップは大きく九州で恩師に後押しされた府立一中(現都立日比谷高)など望むべくもない。府立八中(現都立小山台高)を受けるが見事失敗。時に新設校で市立四中(多摩中)の募集があり、一次を落ちた優秀だった級友3人(今は既に故人)と共に合格となった。 父母はことの外喜んだ。

80名の少数精鋭、全寮制のもと未来は陸海軍の将校を目指すというものであった。その後戦局が悪化する中で結局多摩丘陵に出来るはずの学寮は沙汰止みとなった。それでも多くの学友は予科練、陸軍幼年学校、海軍兵学校へと自ら進んだ。

我が軍国の母は私が一向に関心を示さないのを嘆いていた。後に弟の正雄が軍人志向の名門校成城中学に進み漸く面目を施したようであった。


白金小学校の在学は6年の二学期,三学期の僅か半年であった。それでも卒業生である。霞むように遠いあの日のことなのに今でも級友相集い毎月17日に「となな会」と称して旧交を温めている。

たまたま絵を描く連中が多くお互いに出展の展覧会を観たりしている。昔の恋人みたいに毎月会って何をしているの?と奥方達は訝っているようだが、実に話題は尽きない。日々に楽しく安らけく♪(校歌の一節)昔話に花を咲かせ、時世を論ずる。

本年2月に横浜で催した私たちの夫婦展には8名も見えて楽しいひと時を過ごした。その中の一人Y君が或る紙面に投稿したコラムをお借りして紹介する。

“小学校(東京・白金)の同級生で絵画仲間でもある羽佐間英二(横浜在住)から送られてきたハガキを見た瞬間ギヨッとしました。そのタイトルが何と『水と油の夫婦展』いったい何を暴露しようというのか。決着はどうなるのか。

 然しよくよく見ると夫君の英二は水彩、細君の勝子は油彩の作品合同展示会(横浜:関内ガレリア・セルテ)への招待状であったというわけで二度ビックリ。

 決して溶け合うことのない代名詞である「水と油」を看板に掲げながらこともあろうに禁句の「夫婦」をトリに使うというキワモノから一転、絵画という洒落た落ちで締める。夫婦円満の現代風コバナシにできあがっていました。
本人は奇をてらう意図はないというけれど、つかい方や受け方によって変化する言葉の多面性、さりげなく教訓を示唆する意外性を改めて思い知らされました。“


毎年正月には幹事M君の企画で、元気に首都圏各地の七福神めぐりを続けている。人の中なる人たらん♪(校歌の一節)と志高く生きてきた良き友垣である。



中学時代は戦時そのものである。好きな課目の英語は敵性語として2年生で排除された。仕方なく教科書を元に母から英語を習った。母は往年T女学館で英国人教師から教育を受けたという。学業はそこそこに、柔剣道、夜間行進、山中にこもっての禊、座禅、登山訓練、学校周辺(恵比寿)のマラソンなど、まるで軍隊に準ずる日課である。

3年生の明治節(11月3日)に或る事件が起きた。猛烈な雨風を突いての参拝を強行するという。
誰が先導するのでもなく、皆裸足で校庭に整列した。全員反対の示威である。烈火のごとく怒った図画担当のT教師が一人一人を一歩前に出させ、「奥歯を噛締めろ、行くぞ!」と往復びんた、殴打の制裁である。一度始めたら止めるわけにもいかず、最後の頃は当の教師が殴りつかれ斃れてしまった。軍事教練担当のK教官(陸軍中尉)は加担せず静観していた。忠良なる臣民を傷つけてはならずの自重がそうさせたのかもしれない。

この年(昭和19年)サイパン島守備隊が玉砕、神風特攻隊がレイテ沖に初出撃、米機B29の東京爆撃が激化し、一億国民総武装、集団疎開など戦局は日増しに厳しさを増してきた。

親友のN君は陸軍幼年学校へ合格し、母に挨拶に来た。母はわがことのように喜び「お国のために手柄をたてて」と熱いいエールを贈った。軍国少年のN君は笑顔で敬礼して去った。母はその後姿を眩しそうに見送った。私とN君(愛知県在住)との交流は今でも続いている。

後年クラス会誌に投稿した彼の一節がある。

「一番親しかった友達は羽佐間英二君である。クリクリ坊主の色白の好少年であった。彼の家にも度々行った。背の高い美人のお母さんだった。そしてやんちゃそうな弟二人。
山の手の標準の家だった・・・・」


一学年下に、卒業後文学座に入り俳優となった小池朝雄がいた。当時は紅顔の美少年であった。TVドラマ「刑事コロンボ」で声優として当たり役となったが、私の弟道夫とも「フレンチコネクション」で組んでいた。惜しくも病を得て、54歳で早世している。


                                    以上

2011/10/07

人生色々こぼれ話 (7)〜 東京へ

人生色々こぼれ話(7)
東京へ

九州での少年時代の思い出話はまだ尽きない。然し前6話でもう大牟田を発ち東京に向かったのでもっと書きたい想いを敢えて断ち切り、舞台を東京に移すこととする。

関門海峡(当時は未だ関門トンネルは開通していない)を連絡船で渡り、下関から特急「さくら」で20時間ほどの長旅を終えて、初めて降り立った東京第一歩の地は品川駅であった。これが大東京かと思えるほどの、そこには静かな落ち着いた雰囲気が漂っていた。

現在の品川駅はあまりにも変貌し当時と比べようもないが、市電①系統で浅草行きの始発駅でもあった。今の高輪プリンスの辺りは竹田宮や北白川宮のお屋敷が連なっていた。だらだら坂を上り、突き当りを左折して暫く行くと高輪南町の羽佐間本家(父の兄)の家がある。お隣は山下太郎(山下汽船〕,嶋田繁太郎(海軍大将)などの立派なお屋敷町といった佇まいである。


小さな田舎町の社宅から出てきた文字通りのおのぼりさん3兄弟は、ただびっくりするだけで声も出なかった。洋風の洒落た玄関を入ると、ホールがあり左は応接室右は食堂がある。借り猫のように小さくなって、テーブルと椅子での食卓につくのだが、堅苦しくてものが喉を通らない。


1歳年上の従兄のS(当時麻布中、後年はフジサンケイグループ代表)は3Fのロフトに自室を構えていた。世界文学全集がずらりと並び、クラシック音楽を聴ける蓄音機つきである。
電話も,水洗トイレもあり、ガスコンロのある大きな台所、家族が住めるような女中部屋
がついている。飛び交う言葉の種類も生活様式も何もかもが違う世界に迷い込んだ感じであるが私たちはここに暫く身を置くことになった。



早速考えられない異変が起こった。父は数日後に近衛師団(天皇と皇居を警備しまた儀仗部隊としての任に当たる)に入隊する手筈である。前日品川の「緑風荘」という料亭で盛大な壮行会があった。祖母はわが子の出征に涙していた。

翌日父は九段の部隊に出頭したが間もなく帰還してきた。痔疾患のため騎兵連隊では受け入れられずとの判定であった。何としたことだ。私たちは不甲斐ない思いであったが、祖母は望外の喜びであったようだ。入隊転じて父は結局、三井鉱山の本社に勤務することとなった。然し私たちは何のために住み慣れた故郷を捨てて、東京に出てきたのだろう。と子供ながらにそんな想いを噛締めていた。



間もなく6年の2学期を迎えるが、私たち3兄弟は、従兄Sが前年に卒業した白金小学校という有名校(明治9年創立で今でも越境・進学校として知名度が高い)に学区外から越境して転入することとなった。東京の白金、誠之、番町は三大名門小学校と呼ばれていた。間もなく世田谷の奥沢町に自宅(借家)を構え、目蒲線で奥沢⇔目黒と電車通学をすることになる。汽車通学に馴れていた私にその抵抗感はなかった。がたことと走る大都会の郊外電車の風物が楽しかった。


然し生活環境、学校の風土、学業の内容、友人関係、言葉遣いなど、過去との繋がりを断たれすべてが新らしい出発となり、戸惑い、不安は少なくなかった。当初は生まれ育った荒尾、大牟田が懐かしく子供心にも望郷の念に駆られ寝付けない夜が続いた。はだしで校舎内を走り回っていたのにここではきちんと上履きだし、身だしなみも違っていた。周囲では九州から三匹の山猿が来たとの噂であった。


小学校の校舎は蔦の這う美しいコンクリート造りの3階建で屋上に奉安殿があった。地下にはプールがあり、特別教室として音楽室、階段状の理科室、大工道具の揃った工作室、裁縫室などが備わり、冬の暖房は蒸気のラジエーターが機能する。お弁当はここで温める仕組みである。いかにも都会風の洗練された校内環境である。今でも白金小は改築を重ねながらも当時の面影を留めている。

私は1階建ての木造校舎を裸足で走り回っていた昨日までの環境が信じられなかった。
まるで異国の文化に触れたような想いであった。然し校庭はコンクリートで小さく、休み時間など密度が高過ぎお互いにぶつかり合うほどである。 田舎町の小学校は小高い丘に囲まれ、広大な野原のような校庭で風がそよぎ、自然の緑陰があった。


決定的だったのは、勉学の中身である。ことごとくレベルが高く、これまでとは異質であった。教科書に添ってではなく、特別な教材が用意されている。それでも学校に来るのが退屈だと言って憚らない憎らしい連中が少なくなかった。

私は各課目共に悪戦苦闘である。母は家庭教師を呼んだ。今までは経験のない復習が必須となった。音楽などはピアノの音を聴き和音を言い当てる教科があり、♪菜の花畑に入り日薄れ・・・♪ 狭霧消ゆる湊江の・・・・♪等と正しく歌えばすむといったものではない。クラシック音楽を鑑賞し、感想文を書く。もはや教養のジャンルである。
付いてゆけたのは書道、図画、作文などマイナーな課目だけであった。

上の弟は抜群の運動能力があり、投擲では校庭外に擬似手榴弾を飛ばしたり、競走ではごぼう抜きを演じ、そして廊下ではスカートめくりのいたずらも・・・。

女の子はすかした私服姿で、にきび顔でませていた。昨日まで見慣れたおかっぱで赤い頬のずんぐりの子はいない。小6なのにペアで三越に行き、噂話になるほどのませた輩もいた。

明らかに田舎者と見下げたような視線を感じるとむかむかし、ぶん殴りたい衝動を感じた。弟のスカートめくりに蔭ながら声援を送ったが、母は先生に呼び出されては厳重注意を受けていたようだ。



父は各地の炭鉱に出張することが多く家を空けていたが、日曜日は近くの多摩川園、九品仏、自由が丘、などに出かけた。子供のくせに、昔恋しい銀座の柳♪の銀ブラが好きで、友達と内緒で出かけることもあった。

日曜日の朝、光を浴びながら「おーブルースカイ!! 大きな猫がわしの○○タマ持ってった!」とわけの分からぬ言葉を発していた。面白く懐かしい。朝食も生卵と納豆からハムエッグとトーストに変わった。
平和な時代の、普通の家庭の営みがあり、私たちも少しずつ東京での生活に溶け込んでいった。新しい友達も何人かできて標準語での会話にも親しんできた。父は転勤と度重なる出張の疲れからか、年末頃から体調を崩した。   以上

(とうとうまだ見ぬ東京にやってきました。懐かしい大牟田は遠く去り、望郷の果てに霞んで消え入りそうです。戦争という過酷な現実が直ぐそこに迫り私たちは激動の坩堝に引き込まれて行きます。)