2011/09/13

人生色々こぼれ話(6) 少年時代⑤

人生色々こぼれ話(6)
少年時代・・・⑤

父の趣味は写真であるが、自宅で暗室を設置し現像、焼付け、引き伸しまですべて自作でやっていた。私も興味があり、父の作業がある日は、そばで見学やら手伝いをさせてもらった。特に写真の定着工程は私の守備範囲だった。カメラは1935年版のドイツ製「ローライコード」であった。6×6cm、二眼レフはしりの名機である。

父は人物をモチーフとする構成が好きで、妻を含めて近くの奥様方をモデルに撮影をしていた。野外での撮影には私も時折お供をさせてもらった。

後に中学4年の頃、学徒勤労動員で逓信省の電気試験所というところの写真部で働いたが、少年時代の体験が偶然役に立つことになった。また絵の趣味に取り付いたのも、何となく父の写真の影響かなと思っている。


小学校5年の頃、どうしても欲しかった空気銃を買ってもらった。子供用のものとはいえ銃なので今では持つことが不可能である。さすがに遠くに行くことは許されず、早朝に自宅の庭で構えていて、枝に止まる雀を狙撃するのだが、的中率数%である。近いと逃げられので、遠くから狙い定めて引き金を引くのだが、プスッという射撃の音で雀たちは驚き飛びたってしまう。音速より弾の速度が遅いのか・・・・所詮おもちゃはおもちゃである。

それではと音の出ない武器を作った。木の枝の分かれる大型のY字型のホルダーに幅広のゴムをつけ、丸い石ころを挟んでゴムの弾力で石を放つのだ。無音である。当たれば目が回って雀が落下するはずである。猫には当たるが雀に当たった試しはない。

フナ釣りにも出かけるが,釣果は殆んどない。うさぎ狩も然りどうも狩には恵まれず、ヤンマ捕りと潮干狩りそれに樹登りがせいぜいであった。
それでもその頃は自然との触れ合いの中で親離れして丈夫に育っていたように思う。

博多の町に連れて行ってもらうのが、楽しみの一つだった。大牟田から博多まで西鉄で2時間以上かかった。小旅行の気分である。風情のある柳川、学業を祈っての大宰府天満宮参り、玉屋、岩田屋のデパート巡りなど今でも覚えている。名物の鳥の水炊き屋で、好きだった双葉山が69連勝で安芸の海に敗れたニュースをラジオで聞きショックを受けたのは、記録を調べると昭和14年1月のこととなる。

後年、会社の工場が大牟田にあったので、出張することが多かったが、私は博多から国鉄ではなく何となく懐かしい西鉄で大牟田入りをするのが好きだった。

大牟田駅の裏に「京政」という料亭があり、出張の折に時折お世話になったが、ここは父も仕事で愛用した割烹で話題も二代に亘り、不思議なご縁を感じた。

幼年、少年時代の大半を、そして戦前の黒ダイヤ時代を石炭の町、荒尾、大牟田で過ごした思い出は、ほのぼのとしていて懐かしい。何処を切り取ってもセピア色の映像として脳裏にファイルされているようだ。

あの学友達は今どうしているか。「ぬしや どけ行くとや」(君は何処に行くの)/「君げさんた」(君の家にさ) この方言、標準語ミックスの日常会話は恩師H先生の薫陶のおかげだ。 私に府立一中を目指せとはっぱをかけたあの先生だ。


最近いつごろから絵に興味を?聞かれることがあるが、やはり小学校の高学年からだと思う。「君は絵の才能があるから・・・・」と動機を与えてくれたのもH先生であった。南瓜の絵やポスター(弟が覚えていて、「計りの日」に描いた升の絵が机から浮き上がっていたという)など小学生新聞に入選したことがある。筆字のうまいI君は「忠君愛国」と書いてやはり小学生新聞で金賞を得た。田舎の一小学校から全国版の新聞公募への入賞なのでその誉れは高い。

「霧の朝」という小5の時の私の作文は名文として全校に紹介された。

「昨夜までの星空は消え、深い夜霧に閉ざされたまま朝になったらしい。あたりは何も見えない。 わっ、いっちょん見えんばい! と弟がおどけて叫ぶ。 露にぬれた白菊の花だけが ぽっと浮かんで見える。 汽車は走らないかもしれない。歩いてゆこうか と思いもう一度家に戻る。・・・・・」

 とこんな調子のあまり今と変わらない書きっぷりだなと感ずる。
 社会人になって、絵描きにはなれなかったとしても、もしかして記者ならばと思うことがあった。


突然、父に召集令状(在郷軍人を現役に召集する命令書)がきた。昭和16年8月中に東京へ移ることとなった。私は既に6年生であったが、折しも夏休みで先生や友達にさよならを言う間もなく、住み慣れた地を離れることになった。子供心にも未知の東京への旅立ちの不安やら惜別の念に駆られ、気持の落ち着かない夏の終わりを過ごしていた。父母が記念旅行をしようと、家族みんなで熊本、阿蘇、杖立温泉に1泊2日の旅を楽しんだ。少し気が晴れた。
母は学校に行き、宿直の先生への挨拶と、級友達にとお別れの印に鉛筆を2本ずつ預けたらしい。

胸ふさがる思いで、大牟田駅を後にしたあの寂しさは今でもジーンと溢れくるものがある。
                                   以上


(九州・大牟田での少年時代は、この稿で終わり、次回から東京での激動体験記に移ります。田舎町での小学生時代は、これまで遠い昔の霞んだ映像でしかありませんでしたが、こうして思い出し、振り返ってみると、鮮明に蘇ってくるのに、我ながら驚いています。
 齢のせいでしょう。“忘却とは忘れ去ることなり”の名セリフのように昨今の事象はかえっておぼろげとなりました。 では東京で・・・・)