2012/04/04

人生色々こぼれ話(15) ~青春の門

人生色々こぼれ話(15)
青春の門

終戦から2年経った1948年(昭和23年3月)に私は都立青山中学(現青山高校)を卒業した。
振り返れば中学生活の大半は戦争体験であった。ペンを置き学徒動員に駆り立てられた日々も今の時代では決して味あうことのできない辛いけど、貴重な経験となった。

大空襲の戦火を浴びながらも、生と死の危機を免れ、軍隊にこそ属さなかったけど、衣食住の貧しさを考えると、それ以上の過酷な洗礼を受けたように思える。

終戦と共に少年飛行兵、海軍予科練、陸軍幼年学校、士官学校、海軍兵学校等に進んだ学友も生きて帰ってきたけど、故郷の中学に転じたものも少なくなかった。
学制が変わり旧制中学を5年で卒業するもの、と新制高校3年に進む者に別れた。選択性であった。

従兄のSは前年麻布中学を出て、旧制富山高校に進んでいた。
私は旧制5年で卒業し、1年間定職のアルバイトで学資の一部を蓄え、自力で受験勉強をしながら翌年大学受験の機を窺うという奇策を取った。つまり新制高校に進んだ連中と同時に大学に進学できることになる。同じ大学のキャンパスでの再会もありうる。

本家の叔父の紹介で日本橋のD産業という会社に臨時社員として働くことになった。月給6,000円位だったと思う。仕事は雑務同然ながら先輩社員が良く面倒を見てくれ愉しい社会体験が出来た。おかげで、そろばんの習得や実践簿記が身についた。
翌年に大学を受験するいわば腰掛社員であるが、周囲はそのことを好意的に受け止め苦学生をバックアップする優しさを感じた。よき時代の片鱗がうかがえる。

「蛍雪時代」という受験雑誌を愛読し、旺文社の受験参考書で勉強した。前にも触れたが「豆単」の愛称で知られる単語帳は擦り切れるまで活用し丸暗記した。英語の構文、文法は力を入れた。1年間は瞬く間に過ぎた。

狙いは早稲田(文系)であるが、憧れがあって公立の東京高等農林(後の東大農学部に移行)もターゲットに加えた。結果は20倍の関門を突破の上、早稲田の政経学部に合格し高等農林は落ちた。農林省、水産省の安泰を目指すより、将来はサラリーマンとして当たり前の社会人となって自分の力量を試すのが生甲斐と考えるようになっていた。
D産業の先輩達が盛大に宴を開き私の門出を祝ってくれた。堅物のSさん、朗らかなKさん、優しかったTさん・・・・・皆覚えている。どうしておられるだろうか。

しっかりやれと言って、学資はT伯父(母の弟)が出し後押しをしてくれた。戦争で家族を失ったこともあり、私たち兄弟をわが子のように思い、世話をしてくれたのだと思う。
後年この伯父の仲人で結婚した。

歌舞伎役者のような美形の顔立ちであったが、惜しむらくは短足であった。伯父の仲間たちは「でっちゃん」と呼んでいた。確かにお尻も大きかった。
そして私たち兄弟が“あれは脱腸だね”と訝るほど、狸のような大きいものをぶら下げていた。
座り姿が良かったので長唄を詠じていた。

東京鉄道局(現JR東日本)を辞め新橋で焼きとり屋「串助」を開いた人である。多くの文化人、芸能人が集っていた名店となった。(前に紹介) この伯父は後に神田須田町に「立花亭」という寄席を開業し、演劇学校に行っていた末弟の道夫が入場券売り場でアルバイトをしていた。名のある落語家と接する機会も多く、後の声優としての基礎を学ぶのに大いに役に立ったと云う。

“同じネタでも前座では笑えないのに真打では大うけ。違いは間だという。ふっと置いた1拍で聞き手の呼吸を止め、自分の間に引き込む。勢い良くワッとしゃべった後に間を入れて、お客の力を抜く。そうやってみな自分の呼吸に乗せてしまう。”(道夫談)
そういえば彼のナレーションを聞いていると、間に引き込んでゆくような語り口がうまいと思える。

私も次男の弟・正雄もしばしば「立花亭」に通い落語に親しんだ(顔パスで)。この弟は後にNHKのアナウンサーとして大成するのだが、これまた名人達の話芸が体にしみこんでいたのかもしれない。

大学に入ってからの4年間(1948年~52年)はまさに激動の時代であった。事件と呼ばれる
出来事が相次いだ。帝銀事件、下山事件、松川事件、三鷹事件、血のメーデー事件、桜木町事件などが今でも鮮明に蘇る。朝鮮動乱も勃発した。

1952年5月8日には世に云う早大事件が起きた。学内に潜伏し調査していた神楽坂署の私服警官が学生達により軟禁されたが、これを取り戻すために、500人に及ぶ武装警官が大挙して学園に突入し、学生との間に凄惨な死闘が繰り広げられた。
私はその日キャンパスにいたが学部の地下室の奥に潜り込み、乱闘の数時間をやり過ごし難を逃れた。

遡る1週間前メーデー事件(52年5月1日)の日も日比谷から新宿まで警察の張り巡らした網の目をくぐって逃げ帰った。警官隊はピストル、警棒、ガス銃でデモ隊に襲いかかり、皇居前広場は血の修羅場となった大事変である。
大型ピストルの連射で即死した或る都職員のポケットからは「平和が欲しい。独立が欲しい。新しい人間像が欲しい」というメモが出てきたという。また他の一人は死に際に「こうして強くなるんだ。日本が良くなるんだ」と呟いたと伝えられた。
平和呆けの現代からは考えられないが、その時代の世相が浮かび上がる一つの象徴的なシーンである。

読みふけった日本文学に太宰治「人間失格」、林芙美子「浮雲」、木下順次「夕鶴」、大岡昇平「武蔵野夫人」、吉川英治「新平家物語」などを思い出す。「聞けわだつみの声」は本が擦り切れるほどに再読した。

読んで面白くない小説は小説にあらずと云い、その小説を書くのが嫌になったとし情死を選んだ無頼派の太宰治には私自身ある時期傾倒していた。
ニヒルなダンディズムというか孤独でありながら女性たちに構われる美貌の青年作家の翳に惹かれた。
昨秋、津軽の「斜陽館」を訪れ、太宰文学に漬かっていたあの頃の自分を思い出しみじみとした感慨、郷愁を味わった。もっとそこにいてわが青春も回顧したいので必ず再度訪れて今度は「グッドバイ」をしてきたいと思っている。

愛読誌「キネマ旬報」でハリウッド女優に憧れて映画を観まくり、ロシヤ民謡の叙情旋律に感動し自らもロシヤ語で歌う専門合唱団で活動する傍ら、ヤンキーゴーホーム!民族独立を唱え学生運動にもしばし加担した。
そして大学の絵画クラブでクロッキーにも夢中になっていた。今でもその古い画帳が残っていて古いコンテの匂いを感じることがある。

貧乏暇なし、若い時は二度とない。なんでもありの学生生活であったが、今顧みるとそれが人生の可能性を広げてくれたのではないかと思う。

「青春の門」ともいえる多感で激動の時代体験であった。  
      
以上


(後記:実は私の主宰する「みずき会」の水彩画展が昨日4月3日に終わりました。嵐の中の劇的なフィナーレでした。みずき会は今の私の生甲斐となっています。「青春の門」を開き色々な道をたどり行き着いた最終章のテーマだと思っています。いつまでか私にも分かりません。
青春時代のような可能性への挑戦はありませんが、いつも絵を描く時には或るときめきを
覚えます。このドキドキ感があるうちは絵と暮らすことになるでしょう)