2013/03/30

人生色々こぼれ話(26)〜 絵の迷い道②


人生色々こぼれ話(26)
絵の迷い道②


私の主宰する水彩画教室「みずき会」が創立10周年を迎えかねてより企画していた記念絵画展が3月18日~24日に盛大に開催された。出展者27名、会場は新設のみなとみらい駅のサブウエイギャラリーM」、ご来場者960余名、先生クラスは19名、最終日はサプライズつき(私の小品3点が抽選で当たる)の懇親会で大盛り上がりであった。



イッツ ハザマ ワールド! どれが先生の絵か区別がつかない! との声が聞かれた。私はこうした評価を聞くと内心はほくそ笑む気持ちになる。それこそが私の真の狙いだからである。私は私自身の絵しか教えることが出来ないし、皆さんの絵が私に近づきそれを超えてもらうこととこそ自己評価に繋がるのだと思っている。



皆さんがみずき会に入ってくるのは、「私のような絵が描きたいから」というのが第一の動機である。確かにそうなのだが、印で押したように同じ絵が描けるわけがないし、個性があり感性が違うからこそ絵は面白いのだ。
私がやれるのは理論や技法の伝授と体験した私なりのノウハウを包み隠すことなく会員に公開することである。


“絵は盗むもの、混色は企業秘密”とか言って、自分のお弟子さんに端的に教えない講師もいる。画評のときコメントが出て来て“それなら何故描いているときに言ってくれないのだろう”という疑問は私自身が、先生について水彩の勉強をしていた時代に痛感したことである。



或る先生に聞いたら“あまり教えるとストックがなくなるから、自分を超える人が出てくるから”と実感をもらした人がいた。確かにこのスタンスを取っていれば上昇志向の生徒は離脱し、ニューカマーが入ってきて、ローテーションが早くなる。先生は入門者にイロハだけをアドバイスしていればよいことになる。ベテランの育成というコンセプトが先生自身にないので自分でブラッシュアップするか、離脱するしかないことになる。



私は私塾的な教室では、メンバーのコミュニケーションが大事だと思っている。チャーチル会のように「友情に厚いこと」「分派をつくらないこと」「既婚者との会員間恋愛をしないこと」などと教条的なことは言うつもりはないが、非日常的な交流の時間を大事しているつもりである。
ティータイム、飲み会、旅スケッチ会、打ち上げ会、忘年会などなど。そしてやはり集大成は展覧会につきる。展覧会は最近どの会でも開いているが、相談会や画集発刊をしている会はそんなにないと思う。

画集は毎年発刊し今回で5回目であるがみずきの自慢行事の一つだと思う。別に公開しているわけではないものの、潜在的に人気が出てきているようである。思い出のアルバムとしてだけでなく、副教本的なメリッとがあり、替えがたい宝物です。といってくれる会員もいる。


幹事長の山中さんとのコラボでやっているのだが、彼の絵の編集努力は尋常なものではない。私も丁寧に、慎重に会期中からコメントつくりに励む。画集発行が終わると一段落し2ヶ月後に迫るチャーチル会の制作に入るのがこの時期のパターンとなっている。



みずき会はほんのちょっとしたきっかけから生まれた。200310月のチャーチル会展の会場で私の出品作に対して「こんな作品を描いて見たい。教えていただけないか」と3人ほどの女性から熱心なオファーがあった。固辞したものの最終的にはトライアルにやってみようということで山手通りでの5人程での教室が始まった。横浜山手のイニシャルをとりYY会と称しての第2、第4水曜日を写生会としての発足であった。
やがて木曜日を例会としたYS会という姉妹クラスがスタートし、いつしか二つの会が統合、みずき会として再発足し今日に至っている。



現在27名(男子5名、女性22名)の構成であるが、私はあくまでアマチユアの水彩画家であり年齢的な限界もあるのでこれ以上の拡大は願っていない。やむを得ない事情で多少のローテーションがあっても現状を安定的に維持したいと思う。
今年は個々の会員と絵のテーマ(課題)を決めてブラッシュアップをしたいと思っている。
これまでほぼ400回の写生現場をこなしてきたが、皆勤であるのが唯一の誇りかもしれない。学校、社会人として、しかも今よりも若い頃に出来なかったことが、「みずき会」という場で為しえていることは、好きなことを無駄なストレスなくやれていることからだと思う。



展覧会でもこれまでのところ毎日会場に顔を出すことにしている。大体終日立って過ごすので足は棒のようになり、夜はつったりしている。しかし朝になると心は展覧会場に飛んでいるのだ。 
或る画廊のマネジャーから“他の先生は時に顔を出してすぐ帰りますよ“と言われたけど私もそれに習わねばと思ったことはない。 もしそのような事態が訪れたら私は指導者として資格を失う時だと思っている。



最近私が大いに影響を受けたアメリカの女流水彩画家「マリリン シマンドル」は“すべてはデザインすることから始まる“という。”デザインとは明暗の度合い、線、色彩、とりわけ形についてそれを構成し絵画的な要素を配置することをいう“とし彼女は「調和」「リズム」「単純」こそが水彩画の本質だといっている。

“難しいことをやさしく、やさしいことを深く”といっている井上ひさしの名言と合わせてみると絵を描く心の何かかが分かってくるように感じとれるのだ。



私はみずき会の皆さんに“写実は自然の模倣ではない。見えるものを描かないという目で見てみよう。何を描くかではなく何を描かないか“という観点が大事と説いている。これは私自身の座右
銘でもある。




さて余興を紹介します。
これは私の知っている方が多く所属する或る大きな展覧会の壁に張り出されていたお絵描き川柳である。いちいち当てはまっていて絵よりもこちらを見ている人が目に付いた。。
拝借して10句掲載する。


  紙一流 絵具ニ流で 絵は三流
  四季通し 緑はみんな 同じ色
  上り坂 下り坂とて 同じ絵に
  目線だと 目線はいつも 若い娘へ
  消失点 加齢のせいで 見えません
  あら上手あら綺麗 お世辞飛び交う 展覧会
  絵を描かぬ 人を選んで 案内状
  今解る “優”じゃなかった 図画の点
  色使い 色恋よりも 難しき
  義理があり どうせ暇だし 観にきたの

笑いを誘う そして誰もが心当たりのある思いや嘆きが詠まれている。



次は私が作った替え歌である。神楽坂はん子の歌う「ゲイシャワルツ」のメロディーで口ずさんで下さい。羽佐間英二作詞、古賀政男作曲となる。題は「みずきワルツ」です。

1、   貴方のリードで 絵筆もゆれる
遠近法の 悩ましさ
乱れる目線も はずかしうれし
みずきワルツは 思いでワルツ

2、空には三日月 お絵描き帰り
  心は重たい 荷も重い
  描かなきゃよかった 今日の私
  これが苦労の はじめでしょうか

3 描くのはあきらめ 帰った夜は
  にじむ涙の ぼかし雨
  遠く泣いてる 港の霧笛
  修行の辛さが身にしみるのよ



 みずき会員であった故矢島敦夫さんは人格豊かな風流人でいつも皆に慕われていた。
「ニューグランドホテル」を描いて「名門の佇まい」と題した絵を残し、2年前に卒然と旅立った。絵こそわが命と言っていた。
「みずきの日よいつまでも」は「みずきの人よさようなら」に変じて・・・・・。

♪雨の馬車道 夜霧の山手
今もこの目に やさしく浮かぶ
君はどうしているだろか
ああ みずきの灯よ いつまでも

と宴会の度に歌ってくれたことを今でも思い出し、目頭が熱くなる。        以上


(写生をしていると絵心がある人はいいな。よく言われます。絵心という意味の定義はありません。絵は描かないけど観るのは好きです。という方こそ絵心が豊かなのではないでしょうか。 人は字を書く前に絵を描いていたのです。そこで象形文字が生まれました




2013/03/04

人生色々こぼれ話(25) 〜絵の迷い道①


人生色々こぼれ話(25)
絵の迷い道①
この2月の総会で私は所属するチャ-チル会ヨコハマの幹事長(チャーチル会では会長ではなく幹事長と呼称する)をまた1年続投することになった。
もう4年目である。ここは運営の幹事を離れてじっくりと絵を描きたいというひそかな願望はあえなくも潰えてしまった。



私がチャーチル会に入会したのは2002年である。弟の道夫の紹介であるがそのいきさつが面白い。当時通関、海外輸送関係の仕事をしていた後澤さん(現会員)が道夫の娘婿の海外転勤の仕事で訪れた折のことである。

TVで聞き慣れた道夫の声が後ろから聞こえ「貴方様はもしや羽佐間道夫さんでは?」となった。
「はい、そうですが・・・」
「私は貴方の声をテレビで聴いています」の出会いから始まり、飾ってあった中川一政の絵画数点に目を留めた後澤さんがすかさず「絵がご趣味でしょうか」と問う。
「いえ鑑賞は好きですが自分は描きません。兄は水彩を描いています」
「それではお兄さんを是非私の入っているチャーチル会へお誘いできないでしょうか」
「分かりました。伝えておきます」
これが私のチャーチル会入会のきっかけである。


チャーチル会は入会時にゲスト会員という名の半年ほどの見習い期間がある。そして入会
時には2名の保証人が必要となる。その一人が後澤さんであることは言うまでもない。
彼とは今でも親交が深い。


チャーチル会が発足したのは1949年(昭和24年)である。当時銀座の焼け跡にあった
「蟻屋」という喫茶店に各界で活躍中の多彩な人々が集まり、賑やかに談笑していた。
或る日「おい、絵でも描くか、油絵というやつを」という声が起こり「チャ-チル会」という名前をつけ(杉浦幸雄命名と伝えられている)日曜画家の集団が誕生した。


創立会員は石川滋彦、宇野重吉、高峰秀子、長門美保、藤浦洸。森雅之、横山隆一、杉浦
幸雄の諸氏となっている。これに梅原龍三郎、安井曽太郎など画伯が加わり、早田雄二カメラスタジオで裸婦のデッサン会が始まった。映画、演劇、文壇、画壇をメインに我も我もと輪が広がり戦後のにわか文化の象徴の様であった。毎週土曜日の午後、早田スタジオは大入りの盛況であったという。


アマチュア ペインターズのクラブにチャーチルの名前を冠することにチャーチル卿自身が「余はアマチユアにあらず」とすぐには承諾しなかったという。林謙一、石川欣一両氏の重ねての努力で数年後に英本国から外務省を通じて認知の知らせがあったといわれる。
皆欣喜雀躍したという。


東京を長姉とし現在全国に姉妹会の数は50に達するが、1950年に発足したNO,2のチャーチル会が大都市ではなく、人口8万の山口県防府市であったのも面白い。そしてそこは
弟正雄のNHK入局の最初の赴任地であったことも何かの縁を感じるのだ。正雄はチャーチル会の人たちともお付き合いがあり、今でも私はCC防府の方々との交流を続けている。
当時防府放送局の西内部長はチャーチル会とも付き合いが深く、自宅に人を招くのが好きで酒宴が絶えなかったという。
或るとき正雄もお呼ばれしたのだが、西内さんのお嬢さんのお気に入りのミルク飲み人形にお酒をしたたか飲ませて泣かせてしまい、母上はあわてて正雄にお酢のお燗を出したという逸話が残っている。(西内さんのお嬢さんから聞いた実話)



『気晴らしに絵ほどいいものはない。まだやったことがなければ是非一度試してご覧。私を嘲笑する前に。そしてしくじったところで大した損害でもなかろう。絵を描き出せば上手も下手もない。第一頭の中に何事もなくなる。やってご覧是非一度 死なないうちに』
チャーチルのユーモラスな名言である。
こんなチャーチルの台詞を取り入れてチャーチル会には絵に対しての上手い、下手の評価基準はない。気分良く楽しく描けていれば、それに勝るものなしとしている。



全国のチャーチル会に共通する基本ルールがあるがユニークなのでその一部を紹介する。
  分派行動をしてはいけない(誰とでも仲良く交流せよ)
  会内既婚者の恋愛を禁ずる(仲良くしても良いが不倫はダメ)
  会員相集まった時の会計は割り勘とする(年中あるので便利なルール)
  自分の利益のため会を利用してはいけない(政治的な意味で、ありうるか?)
  会員は会の体面を重んじ友情に厚いこと(相手の気持ちを尊重せよ)
など先人達の体験と知恵が詰まった戒めである。60年以上も続いているので憲法並みに価値がある。



創設の頃高峰秀子は人気女優の故に週刊誌、グラフ雑誌、映画雑誌に追い回され会員の皆さんに迷惑をかけるのが辛く、二年足らずで泣く泣く退会してしまったという。
仕事を離れて利害なしで屈託なく愉しんでいた絵を描く場を失った彼女の心境は察するに
余りある。彼女が世に残した絵は少ない。宮田重雄が「現ナマに手を出せ」とメモした当時5万円入りの小箱を彼女の結婚式(1955326日の筈・・・・なぜならその日は
私たちの結婚式でもあったので)にお祝いとしてくれた話は彼女の自著に記されている。


藤山愛一郎が絹のハンカチと言われながらも、絵にならない絵をチャーチル会で20年以上も黙々と描き続け、その腕前とセンスを磨きあげ作品の売れる画家となった話しと対照的な逸話である。



戸田豊鉄(長女美知の名付け親)は私の会社時代の2年先輩である。作詞、作曲、絵画、陶芸、サックス演奏などをたしなむマルチな自由人であったが、後にチャーチル会東京の五代目の幹事長(1983年~92年)を長く勤め、大きな功績を残した。戸田さんとは入社当時から公私にわたるお付き合いで、良く飲み、良く遊んだ。山登りも好きで成蹊大の谷川岳の寮に連れて行ってもらい彼の作詞、作曲による『山の友に』という歌を合唱した。この歌は後にダークダックにより世に広まった。 

♪薪割り、飯炊き、小屋掃除 みんなでみんなでやったっけ 雪解け水が冷たくて苦労したことあったっけ 今では遠くみんな去り 友を偲んで仰ぐ雲♪
*下にYoutubeよりの画像あり


戸田さんの成蹊大山岳部僚友の河盛好昭さんは現在東京チャーチル会でお元気に活躍されているが、彼の入社初任地が防府であったことから弟正雄とも交流が続いている。


私に絵を描くことを熱心に勧めてくれたのは彼だし、水彩の手ほどきらしいものも教えてくれた。私は小さなスケッチブックを持って出張の合間に鉛筆を走らせるようになった。
「是非近い将来にチャーチル会に入りたまえ」と言い残して彼は69歳で早逝した。
彼とチャーチル会生活を共に出来なかったのは残念でならない。
病院に家人とお見舞いに伺った折、廊下が画廊もどきで彼の絵が飾り付けてあったのを今でも感動的に思い出す。

「羽佐間君!4年位の幹事長で音を上げてはダメだ。会の発展に奉仕するのが会員の第一の務めだから」と戸田さんに諭されそうである。



著名人たちの文化クラブのように発足したチャーチル会であるが、今は当たり前の人たちが集い、絵を描いて交流を深めているアマチュアの集団である。
ただ当初から伝統的に行われている名物行事が全国大会である。各地持ち回りで開催されるのだが、絵のコンクール、趣向を凝らしてのパーティ、アトラクション、エクスカーションなどが繰り広げられ既に61回の大会を重ねている。


200710月はヨコハマ大会の実行委員長を仰せつかりその準備期間を含め2年間ほど絵をのんびり描いている時間がなかったほどである。「ハイカラからハイテクまで」をキャッチフレーズに展開したヨコハマ大会は340名が集まったが、今でも思い出に残る名大会としてチャーチル会史を飾っている。
この年、大会のお手伝い要員として妻勝子も私の推薦で(当たり前)入会することとなった。今では熱心に活動に参加し、名実ともに腕前を上げてきたように思う。



語るに尽きぬチャーチル会物語であるが、『気晴らしに絵ほど良いものはない』それだけで
絵を描く意味があるのだからと自問しつつプロ作家気取りで昨今何か「絵の迷い道」に差し掛かっている自分を感じている。    
思い上がりであるに違いない。                    以上

(水彩画を描いて25年くらいになります。数百点の作品を数日に亘り松、竹、梅に仕分けしてみたら松は10パーセント程度で愕然としました。その後で、それは他家の所蔵になっているからだとつじつま合わせをしています。次回も絵の話しをします)

山の友に ~ダークダックス



山の友によせて(山の友よ)
戸田豊鉄 作詞作曲


薪(まき)割り飯炊き小屋掃除 みんなでみんなでやったっけ 雪解け水が冷たくて 苦労したことあったっけ

今では遠くみんな去り 友をしのんで仰ぐ雲 前傾外傾全制動 みんなでみんなでやったっけ

雪が深くてラッセルに 苦労したことあったっけ 今では遠くみんな去り 友に便りの筆をとる

落葉松(からまつ)萌(も)ゆる春山に みんなでみんなで行ったっけ 思わぬ雪にワカンはき 苦労したことあったっけ 

今では遠くみんな去り友の姿を夢にみる