2011/10/17

人生色々こぼれ話(8) 〜開戦そして進学

人生色々こぼれ話(8)
開戦そして進学

その年昭和16年12月8日、真珠湾への奇襲で日本は太平洋戦争に突入した。あたりは次第に戦時色に包まれてきた。4月に尋常小学校は国民学校に呼称が変わり新教科書にが制定された。そうだその意気♪とか 大政翼賛会の歌♪等戦時歌謡が流れる。

明けて17年、学友達は中学への進学準備に入る。ハンディキャップは大きく九州で恩師に後押しされた府立一中(現都立日比谷高)など望むべくもない。府立八中(現都立小山台高)を受けるが見事失敗。時に新設校で市立四中(多摩中)の募集があり、一次を落ちた優秀だった級友3人(今は既に故人)と共に合格となった。 父母はことの外喜んだ。

80名の少数精鋭、全寮制のもと未来は陸海軍の将校を目指すというものであった。その後戦局が悪化する中で結局多摩丘陵に出来るはずの学寮は沙汰止みとなった。それでも多くの学友は予科練、陸軍幼年学校、海軍兵学校へと自ら進んだ。

我が軍国の母は私が一向に関心を示さないのを嘆いていた。後に弟の正雄が軍人志向の名門校成城中学に進み漸く面目を施したようであった。


白金小学校の在学は6年の二学期,三学期の僅か半年であった。それでも卒業生である。霞むように遠いあの日のことなのに今でも級友相集い毎月17日に「となな会」と称して旧交を温めている。

たまたま絵を描く連中が多くお互いに出展の展覧会を観たりしている。昔の恋人みたいに毎月会って何をしているの?と奥方達は訝っているようだが、実に話題は尽きない。日々に楽しく安らけく♪(校歌の一節)昔話に花を咲かせ、時世を論ずる。

本年2月に横浜で催した私たちの夫婦展には8名も見えて楽しいひと時を過ごした。その中の一人Y君が或る紙面に投稿したコラムをお借りして紹介する。

“小学校(東京・白金)の同級生で絵画仲間でもある羽佐間英二(横浜在住)から送られてきたハガキを見た瞬間ギヨッとしました。そのタイトルが何と『水と油の夫婦展』いったい何を暴露しようというのか。決着はどうなるのか。

 然しよくよく見ると夫君の英二は水彩、細君の勝子は油彩の作品合同展示会(横浜:関内ガレリア・セルテ)への招待状であったというわけで二度ビックリ。

 決して溶け合うことのない代名詞である「水と油」を看板に掲げながらこともあろうに禁句の「夫婦」をトリに使うというキワモノから一転、絵画という洒落た落ちで締める。夫婦円満の現代風コバナシにできあがっていました。
本人は奇をてらう意図はないというけれど、つかい方や受け方によって変化する言葉の多面性、さりげなく教訓を示唆する意外性を改めて思い知らされました。“


毎年正月には幹事M君の企画で、元気に首都圏各地の七福神めぐりを続けている。人の中なる人たらん♪(校歌の一節)と志高く生きてきた良き友垣である。



中学時代は戦時そのものである。好きな課目の英語は敵性語として2年生で排除された。仕方なく教科書を元に母から英語を習った。母は往年T女学館で英国人教師から教育を受けたという。学業はそこそこに、柔剣道、夜間行進、山中にこもっての禊、座禅、登山訓練、学校周辺(恵比寿)のマラソンなど、まるで軍隊に準ずる日課である。

3年生の明治節(11月3日)に或る事件が起きた。猛烈な雨風を突いての参拝を強行するという。
誰が先導するのでもなく、皆裸足で校庭に整列した。全員反対の示威である。烈火のごとく怒った図画担当のT教師が一人一人を一歩前に出させ、「奥歯を噛締めろ、行くぞ!」と往復びんた、殴打の制裁である。一度始めたら止めるわけにもいかず、最後の頃は当の教師が殴りつかれ斃れてしまった。軍事教練担当のK教官(陸軍中尉)は加担せず静観していた。忠良なる臣民を傷つけてはならずの自重がそうさせたのかもしれない。

この年(昭和19年)サイパン島守備隊が玉砕、神風特攻隊がレイテ沖に初出撃、米機B29の東京爆撃が激化し、一億国民総武装、集団疎開など戦局は日増しに厳しさを増してきた。

親友のN君は陸軍幼年学校へ合格し、母に挨拶に来た。母はわがことのように喜び「お国のために手柄をたてて」と熱いいエールを贈った。軍国少年のN君は笑顔で敬礼して去った。母はその後姿を眩しそうに見送った。私とN君(愛知県在住)との交流は今でも続いている。

後年クラス会誌に投稿した彼の一節がある。

「一番親しかった友達は羽佐間英二君である。クリクリ坊主の色白の好少年であった。彼の家にも度々行った。背の高い美人のお母さんだった。そしてやんちゃそうな弟二人。
山の手の標準の家だった・・・・」


一学年下に、卒業後文学座に入り俳優となった小池朝雄がいた。当時は紅顔の美少年であった。TVドラマ「刑事コロンボ」で声優として当たり役となったが、私の弟道夫とも「フレンチコネクション」で組んでいた。惜しくも病を得て、54歳で早世している。


                                    以上