2012/06/29

人生色々こぼれ話(18) ~再び少年時代に(2)


人生色々こぼれ話(18)
再び少年時代に(2)
山下洋輔さんのドファララ門(サンデー毎日連載のコラム)に誘われて私のこぼれ話も前回から再び少年時代に舞い戻っている。
山下家と羽佐間家の不思議な物語が、菊代おばさん(洋輔さんの母上)の出産記や私たち兄弟の思い出話がよりどころとなり6回に亘り「サンデー毎日」の誌上に紹介された。
624日号で終結したように思われるが、まだ余韻が漂っている。
面白く懐かしいのでこれを繰り返し読んでいるうちに、私自身が再び少年時代に呼び戻されてしまったようである。


菊代おばさんは、とても洒脱でユニークは人であった。ご夫君を「ゲーリー クーパー」にそっくりだといい、私の父を「上原 謙」に似ているとからかっていた。何処がそうなのか、私は「愛染かつら」を何度見てもぴんと来なかった。
私の弟に“貴方は(声がいいから)上野(音楽学校)に行きなさい!”とサジェストしたのも傑作だが、私に「白玉」というあだ名をつけたのも菊代おばさんであった。顔が白くて坊主頭が丸いのでまさに白玉のようにつるつるしていたのであろう。おかげで私は九州の少年時代は「白玉」で通っていた。この「白玉」がバレー部の猛練習で「黒玉」に日焼けしたことは以前お話した。



一番下の弟・道夫が洋輔さんの姉上・美紗子さんと乳母車で仲良く同床(サンデー毎日)というのは光景として私も覚えている。私は美紗子さんが2歳の頃7歳なので、私の場合は容量オーバーで相乗りは無理である。

このしとしとぴっちゃん型乳母車は実は幼児を乗せて、万田炭坑の傍の購買組合売店(ばいかんばと呼んでいた)に買い物に行き、帰りは食料品や日用品と一緒に積んで帰るというのが当たり前であった。私もねいやに買い物に連れて行かれ、帰りは大根や南瓜と一緒だったことが記憶に残っている。

この乳母車を卒業すると三輪車が買い与えられ、やがて小学校に進む頃、側輪付の自転車へと進化するのだ。
私も自転車を買ってもらった頃は急に偉くなったような気になり、暗くなるまで上級生に連れられミニサイクリングに出かけたり、「宮本馬車」の後を追いかけたりした。
弟の正雄は大牟田にやってきた三浦環さん(父の従姉)から三輪車をプレゼントしてもらったという。



私が5年生の頃父が映写機を買ってくれた。「のらくろ」「たんたんたんくろう」の漫画や日本ニュース(ドキュメンタリー)を壁に映して楽しんでいた。
大牟田のこの社宅は集会所のようにお客さんがひっきりなしに見えていた。或る時映写機がショートしフィルムに火がつき、ぼや騒ぎになった。
忽ち押入れの中まで火が広がりお客様総出で消火作業である。日ごろのバケツリレーの防火訓練が役に立ちやがて鎮火となった。

この事件以来我が家での映写は禁止となり私は親友の今村君を誘って繁華街の映画館に通うことになる。禍を転じて福と為すとはこのことに違いない。



とうとうあの「宮本馬車」の写真が出てきた。記憶の形はほぼ正しかったようでまさに幌馬車である。
そして前輪が小さく後輪が大きい。窓はなく吹きさらしである。子供なので大きく感じていたが実際は大人4人で満席となるほどの小型馬車であった。


母が残した当時の写真や手紙が蔵王の別荘から数多く出てきた。不思議なことに長期出張時に父から母に宛てた手紙は残っているが母が父に書いたものは何もない。父の手紙は激務にありながら家族思いの心情溢れるものが多い。筆跡は私に似ている。今となると昼夜を分かたぬきつい仕事が45歳という短命を誘ったのであろう。まさに殉職と言えなくもない。


この大牟田、万田時代の写真は貴重なので、サンデー毎日の大場さんに託して山下家にも
届けてもうことにした。この写真を見ているとドファララ門に菊代おばさんの手記として紹介された光景がありありと炙り出されてくる。



華やかな黒ダイヤの町大牟田も、次第に戦時色が濃くなり、父は在郷軍人(位は少尉、職務は警備隊小隊長)母は国防婦人会の班長として活躍していた。皆おそろいのもんぺ姿で
防火訓練に明け暮れる日々であった。


昭和13年(1938年)にはオリンピック東京大会が延期、1939年ノモンハン事件(日ソ
衝突、英仏が独に宣戦布告、(事実上の第2次世界大戦勃発)、1940年日独伊三国同盟締結
と続き、1941年には米国の対日石油輸出全面禁止、そして戦時体制として東条英機内閣が
成立した。



19418月に突然父に召集が来た。私たちは父とともに住み慣れた大牟田を離れ上京することになる。

実は最近、この召集令状が見つかった。父の招集先は第一師団、東部第3部隊とある。そして職務は第73兵站警備隊小隊長である。
秘密文書であり、冒頭に“秘密保持ノ為本内達承知後ハ直チニ焼却セラレタシ”となっている。
母はこの掟を破り我が家の重要記録として永久保存をしていたことになる。
黄ばんだ一片の紙片であるが、歴史の重みをひしひしと感じ、とても焼却する気にはならない。もう時効なのでそれをお許し願いたい。



1941128日に日本は太平洋戦争に突入した。
大本営陸海軍部発表・・・“帝国陸海軍は今8日未明、西太平洋において、米英軍と戦闘状態に入れリ”これがニュースの主文である。
歴史は大きく右旋回し、否応なく国民皆兵の戦時に入った。

私の平和で夢多き少年時代も終焉し、これより耐え難き困苦の道をたどることとなる。  以上

(洋輔さんのドファララ門に招かれ、遠い日の少年時代を再び彷徨いましたが、思い出すことはほぼ書き尽くしたように思います。ドファララ門のおかげです。
そして、サンデー毎日の大場さんにはこの間すっかりお世話になりました。
今回母の遺品から歴史的文書を見つけ、これが大きなピリオドとなりました。)

2012/06/02

人生色々こぼれ話 (17)〜再び少年時代に


人生色々こぼれ話(17)
再び少年時代に
ジャズピアニストでエッセイスト の山下洋輔さんの連載コラム「ドファララ門」(サンデー毎日に掲載中)を毎週読んだり、記事中に私たち兄弟がこもごも登場するのに触発されて、ここで再び少年時代の続編を書く気持ちになった。



山下家とのお付き合いは昭和8年(1933年)に洋輔さんのご両親の山下啓輔、菊代夫妻が
結婚後三井三池鉱業所(大牟田)に赴任されたときに始まる。偶然ながら菊代夫人が母と同門の東京女学館卒であったことが両家の交流のきっかけとなったことは容易に頷ける。


当時母は33歳、菊代おばさんは21歳だったので、妹のように可愛がり先輩として何かと口を出し、面倒を見たに違いない。とにかく母のお世話好きは生まれながらのものだった。当時の菊代おばさんの日記(出産記)に何度も母が登場するのも良く判る。


その頃私は4歳である。母に手を引かれ、大牟田の山下さんのお宅(白金社宅といい少し小高い所にあった閑静な住宅地)に何度もお邪魔したことを覚えている。茶の間に長火鉢がありそこで対座して母たちは面白おかしくお喋りをしていた。時折母が教訓じみた口調であったように覚えている。私はお菓子を与えられじっと我慢して時の過ぎるのを待っていたのであろう。ふと幼な心に、菊代おばさんはベティさんのように可愛いい顔をした人だなと思った。



よい機会なのでここで私の両親達のことをご紹介しておく。
父昌(まさし)は1899年生まれで、1921年に慶応大学を出て、三井鉱山に入社した。
父の父(私の祖父)は栄次郎といい函館地方裁判所の検事正だったが1911年に46歳で早世している。父が12歳の頃である。栄次郎は柴田家というところから羽佐間に婿入りした養子である。羽佐間は忠臣蔵四十七士の「間 重次郎 光興」の末裔ということは以前に紹介した通りである。
栄次郎の兄 猛甫(弁護士)がプリマドンナ三浦環の父なので、父と環はいとこ同士となる。


母たか子(旧姓小古井)1901年生まれで1919年に東京女学館を出て習い事(琴、三味線、長唄、華道など)に励むなど裕福な暮らし向きだったと聞く。


両家は当時の芝区汐留でご近所付き合いがあったようである。二人の間にどんな交際があったか定かではないものの、母のほうが積極的に近づいたに違いない。
1926年に結婚し、やがて福岡県の田舎の炭鉱・勝立坑に赴任となった。そこを基点に
万田坑、三川坑と転籍し1941年まで15年ほど炭鉱町での暮らしが続いた。


1941年東京に転勤したが、父は1943年に病を得て45歳で他界した。私は13歳であった。まるで祖父、父そして私の境遇が似ていて運命じみたものを感じざるを得ない。



さて山下洋輔さんは1942年生まれなので、サンデー毎日の記事はいわば身に覚えのないことばかりで、「自分が生まれる直前の時間をこのように克明に知ることになろうとは、ドファララ門は俺をどこに連れて行くのか」といっている。


その中の一つが姉の美紗子さんの堤防滑落事件である。当時山下家は私達の住む万田から4kmほど離れた四山というところにあった。有明海を臨む高台である。
或る日私は山下家のばあやの息子いさおさん(私より3歳くらい年上)、美紗子さんと三人で海の堤防を散歩していた。私は8歳、美紗子さんは3歳くらいだったと思う。


ふとした弾みで、美紗子さんが堤防の斜面を滑り落ちた。一瞬の出来事である。私はただ息を呑んで拳を握り締めているだけだった。そのときとっさにいさおさんが後を追って滑り降り美紗子さんを助けて事なきを得た。


この話は美紗子さんの母の菊代おばさんにも告げることはなく70年も記憶の底に沈めていた。 秘話とも言える。


これがこの度ドファララ門で公開となった。果たして美紗子さんはどの程度覚えているか
サプライズとなるかどうか興味深々であった。


ところがこちらがサプライズである。彼女は鮮明に覚えていてあの時は私と二人だけだったと確信をもって言う。滑り落ちた後泣きじゃくりながら堤防下の道を歩いていた。私の「大丈夫か美紗子ちゃん!」という心細い声が聞こえてきたという。


こうなれば滑り落ちた本人の証言に従わざるを得まい。二人だけのランデブーであったとしておこう。
美紗子さん良く覚えていてくれて有難う。


 
もっと怖かった話が幾つかある。



深夜に「助けて下さい。追われています!」と男の声で雨戸を叩く音がする。父は出張で不在である。私は布団に包まり震えていた。母は雨戸を開けて男をかくまう。やがて追ってきた男が短刀をかざして家に入り込んできた。母はあわてることなく迎えいれ「落ち着いてそこに座りなさい。私の主人は労務、組合担当です。事情を聞きましょう」といって目の前に二人を座らせ最後は喧嘩両成敗で和解させたという。肝の据わったすごい話だなと思う。母がたじろいだら事態は治まっていなかったであろう。


「よかおなご死んでしまえ」と石を投げられ泣いていた赴任当初とはまるで違う母をここに見る思いである。


或る古ぼけた家の屋根の上に夕暮れ時に最近火の玉が出るらしい。そんな馬鹿な・・・と思いつつ怖いもの見たさに友達と二人で草茫々の空き家の裏に潜んで待つこと1時間くらいたったであろうか。出た!!薄紅色の細長いものが可なりの速さで音もなく天空をよぎった。二人は無言で手を握り合っていた。二人が見たのだからこれは実話である。
然し母に話したら全く取り合ってくれなかった。



小学校の女子トイレに便器の中から物差しが出てくるという噂である。女子児童の証言が複数ある。誰かが「ものさし幽霊」と命名した。こればかりは興味はあれども検証が出来ない。作られた話か、悪戯なのか不明のままそのうち立ち消えとなった。トイレの神様
に聞いてみないと真相は分からない。



倉掛という商店の立並ぶ界隈に「一丸館」という映画館があった。入り口に斜め前に張り出した板張りのボードがありここに今週と次週の上映案内が広告される。この看板を見るだけでも心が躍りその近くの井上君の家に遊びに行きがてら眺めるのが楽しみであった。
映画館といっても座敷席の小屋である。
大河内伝次郎の「丹下佐膳」 鈴木澄子の「佐賀怪猫伝」などを覚えている。この女優は化け猫映画専門で、本当に怖くて子供心に強く残っている。



親友の今村君、井上君、は習字がうまくて小学校5年のときに小学生新聞の書道展に応募しそれぞれ金賞と銅賞を得た。これは現在でも続いている伝統ある企画で全国から数多くの応募がありこれに入賞するのは大変なことらしい。(サンデー毎日 大場編集者談)


私は先に紹介したように、1941(62学期)に父の転勤で東京に移るが彼らは大牟田の三池中学に進んだ。当時小学校から中学に進学する生徒は1割程度であった。

この今村君(後に青木建設)井上君(三井鉱山)それに前出した大牟田駅前の「やまだや」の息子の福江君(三井物産)は三池中学の同窓であるが、社会人となり私(三井金属)も加わり機会があれば東京で集って思い出話を重ねた。


今村君とは大牟田から荒尾まで汽車通学をした仲であり、社会人になってからも長く交流が続いた。

2001年に私たち兄弟で大牟田、万田と生まれ故郷を訪ねる旅をした折、今村君も参加してくれた。万田ではすでに跡形もないがここが山下さんの家のあったところ、今村君の家、そして我が家と少年時代を思い出しながらのセンチメンタル ジャニーであった。
その今村君も今はいない。


山下洋輔さんの「ドファララ門」に誘われて再び少年時代を懐かしんだ。
この夏洋輔さんが長く住んだ福岡県田川でいわばホームかミング コンサートがあるという。

私たち三兄弟もこれに参加し、その足で再び大牟田や万田を訪ね生まれ故郷に“グットバイ”を言って来ようと思う。                       以上

(こぼれ話ではもうとっくに卒業した少年時代にまた立ち帰ってしまいました。ドファララ門は現在33回の連載中ですが、もうしばらく羽佐間シリーズが続くかもしれません。
機会があったらサンデー毎日を手にとって見て下さい。いずれ本になるでしょう。

一つ訂正があります。前の16話で高岡家の話題を掲載しましたが、現在新宿区戸山町にあるお宅は多分高岡早紀さんのお兄さんが住んでいるのかもしれません。高岡の表札があることは確かです。

今回から実名が入りだしました。現実味があり文章がはっきりしてきたようです。)