2013/01/28

人生色々こぼれ話(24) 〜正月興行


人生色々こぼれ話(24)
正月興行

 
正月2日に北京から休暇で帰国の朋巳君(娘・美知の夫)一家と泉岳寺に初詣をした。随分ご無沙汰していたが境内は美しく整備され四十七士の墓石にはそれぞれ分かりやすいように本名、戒名、享年が書き込まれた札が立っていて、参詣者には便利である。


先祖の間喜兵衛、重次郎、新六の墓石は親子なのに、ばらばらに立っている。義士の墓列はそれぞれお預けになった大名屋敷(細川越中守、松平隠岐守、毛利甲斐守、岡崎城主 水野監物)ごとに区分けされているからである。
手向けるお線香は100円で数十本あるので夫々のひいき筋に配って歩く姿が目立つ。



我が家は重次郎光興(泉岳寺の墓石では十次郎となっている)から十代目の子孫に当たるが、境内に新しく構築された大理石の囲み柵に本家の羽佐間重彰、以下 英二、正雄。道夫、則人(故人・従弟)とそれぞれ名が刻まれている。実は相当額の寄付をしている証しである。


駿之介(孫)もこの血の1%以下が流れている筈だからと言ったら瞬時彼の目が輝いた。
晴れた穏やかな午後、ゆったりと泉岳寺へ初詣が出来て正月らしいスタートとなった。


忠臣蔵の文献は何冊も読んでいる。真相、浪士伝、銘々伝とタイトルはさまざまであるが私は海音寺潮五郎の「赤穂浪士」と桂木寛子訳の「四十七士の手紙」が面白いと思う。従弟の則人(故人)は忠臣蔵博士(このようなマイナーな称号があるとは知らなかったが取得するのは大変なことらしい)という称号がつくほどくまなく勉強し、家の中は関係図書で溢れかえったという。もう少し生前に彼の講話でも聞いておけばよかったと悔やんでいる。



重次郎一番槍はどの文献を見ても似たような記述であるが、台所前の炭小屋の前を重次郎ら四名の義士が通りかかったところ中からかすかに人声が聞こえる。戸を打ち破ると中から斬りかかってくるものがいる。
これを討ち止めたが奥で何か動く気配がするので重次郎が一槍入れたところ、脇差を抜いて刃向かう様子なので横から武林唯七が一太刀打ち下ろし引きずり出してみると年齢、服装から見て上野介としか思えない。
重次郎や吉田忠左衛門が背中の傷を改めてまぎれもなく古傷が確かめられたので合図の笛を吹き一同を集め内蔵助がとどめを刺す。



泉岳寺で第一番に主君 浅野内匠頭の墓前に焼香を許されたのも重次郎であり、後に切腹に際しては若輩にもかかわらず一同を代表して検使に挨拶し二十六才を一期に相果てた。


これが情景描写の大要であるが、ある文献では面白い記述がある。


内蔵助は刀を抜いて吉良のとどめを刺すや重次郎を呼んで「初槍を付けたのは貴殿である。貴殿みしるしを上げられよ」と命じた。間ははっと答えて首を打ち落とし、上野介の懐中から守袋二つを取り揃えて内蔵助に呈した。これは故実である。戦場においても身分高き敵を討ち取った場合は、刀なり何なりを取り揃えて証拠とすることになっているのである。


別の文献では以下の記述がある。

頼みにする家来達も主人に代わって打ち出るが忽ちにして切り伏せられてしまう。
上野介が震えながら潜んでいる所へ間重次郎がくり出す槍の穂先が上野介の股をぐさりと刺す。思わず槍の穂先を両手でつかみ、抜き取ろうとする。重次郎は手応えありと再び槍をしごく。上野介の掌は切れて傷つく。


これが事実だとすると槍の一突きは急所を抉り致命傷に近かったのではないだろうか。いやそうではない。槍は中央部を外れ左股部刺創だという。槍なので即死は考えられない。
創傷は閉鎖的であったはずだと反論がある。医学的判断では左動脈を外れていて血圧低下による出血抑制で多量の出血には至っていない。というのだ。


この一番槍の実物は本家重彰が泉岳寺の記念館に寄贈し展示されている。


重次郎の三つ下の弟の新六郎光風についての逸話も多く残っているがこれは別の機会に譲る。彼は切腹のマナーを心得ないで介錯を待たず自ら腹を掻き斬った唯一人の義士である。
後にこのことが勇壮な武士の鑑と江戸中の評判になったと伝えられている。


四十七士の切腹は元禄16年(1704年)24日であった。



話題は転ずる。
恒例の兄弟での正月顔見世興行は「浅草」となった。
かねてより道夫(三男)より、面白いロングランの歌と踊りがあると聞いていた。内心、程度は知れたものと思っていたが、かぶりつきの席を確保してもらい2時間ほどを堪能した。


「虎姫一座」といい、メンバーは男性2人、女性7人がコスチュームを変えて狭い舞台をいっぱいに踊って歌うのだが、良くトレーニングされていて芸風も豊かである。何よりも浅草っぽい泥臭さが気に入った。

男性はドラマーとギタリストであるがヨコハマのジャズプロムナード(毎年秋に横浜馬車道、みなとみらいを埋め尽くして行われるジャズフェスティバルで知人のジャズ評論家・柴田浩一さんがプロデユースしていることもあり病みつき)に出てきても遜色のないレベルである。

彼らは、狭きオーデションの門をくぐり、厳しい訓練に耐え、自転車通勤をして更には
夜の仕事と掛け持ちのメンバーもいるのだそうである。


演目は「シャボン玉ホリデイ」の再現である。1960年~70年代を沸かせた「ザ ピーナッツ」「クレージーキャッツ」などのコント風ミュージカルで私たちにとってはやたらに懐かしくそのまま入っていける演出となっている。



牛乳石鹸提供 シャボン玉ホリデイ!!

♪シャボン玉ル・・・・・・・  シャボン玉ラ・・・・・
 ロマンチックな夢ね  丸いすてきな夢ね  リズムに乗せ運んでくるのね ホリディ ホリデイ シャボン玉   シャボン玉 ホリデイ♪

このイントロは懐かしい。今でもそのまま口をついて出てくる。このエッセイをご愛読の皆さんはご存知のはずです。


舞台は切れ目なくフェードアウト、フェードインを繰り返し歌と踊りのオンパレードが続く。ピーナッツメドレーでは「恋のバカンス」「恋のフーガ」「ラバーカンバックツーミー」「ムーンリバー」「情熱の花」「可愛い花」「月影のナポリ」などなどポピュラーな歌が続く。聴き入るほどにその時代に呼び戻される。
そして「さよならは突然に」「ローマの雨」とうっとりとなったところで「スターダスト」のエンディングで望郷の想いに駆られるといった構成である。


文句なしに面白かった。ワングラスのワインにほろ酔い気分で外に出たらまだ明るかった。
私は1926年~32年頃通いつめた「浅草六区」のあの頃の景色とオーバーラップして思い出していた。

「電気館」「日本館」「大勝館」「東京倶楽部「常盤座」などが次々と蘇る。
エノケン、ロッパ、しみ金、ばんじゅん、森川信、坊屋三郎、由利徹、コロンビアトップなどかつて華やかな浅草時代を飾った芸能人達は今いない。


私は幻の映画といわれた「新雪」五所平之助監督 水島道太郎、月丘夢路主演、歌は灰田勝彦という映画を友人とこの浅草で観て感動した記憶がある。
この映画が封切られたのは1942年なので、旧制中学1年のころである。戦争が始まった翌年であるが、厭戦的なロマンス映画ということで軍の差し止めを受けたものである。思えば貴重な体験であった。

♪紫煙る新雪の 峯ふり仰ぐ この心・・・・♪ 60年来の愛唱歌である。

この帰り道に六区の大きな有名レストラン「不二越」でカツ丼を食べたのを覚えている。



そんなことを思い出しながら浅草に来たらやはり駒形の「どぜう鍋」にしようと繰り込んだがお客は外に溢れでるほどの盛況である。この店は予約なしで入れないことが分かる。取り立てて美味しいものではないし、郷愁も沸かないであろう若い人たちが来店多数のミスマッチに驚いたが、豪華、美味、に飽きた若者のレトロ回帰かもしれない。


このどぜう屋に長女美知も加わった。 I PAD MINI が手に入ったと実演がはじまり興味はそちらに集まって懐古物語はこれにて終演となった。つられて数日後正雄(次男)もこの便利デイバイスをゲットしたという。



帰路は静かな仕上げを道夫が提供してくれた。道夫の盟友であった 故 児玉清さんが愛用していた高級感漂うバーである。不忍池の奥にある横丁のまた奥の小路の「琥珀」というお店である。ここは歌を歌うようなバーではないが、かつて児玉さんと何度か歌った「浅草の唄」が懐かしい。

♪強いばかりが男じゃないと 何時か教えてくれた人 何処のどなたか知らないけれど 鳩と一緒に遊んでた ああ浅草の街明かり♪

明るいメロディだけどぺーソス漂うこの歌の主人公は西島君(このエッセイに何度か登場)ではないかと思うことがある。


味わったことないジンベースのまろやかで香しいいちごのカクテルは何というネーミングだったのかノートにも取らずひたすら心地よく家路についたのが心残りであった。
シャボン玉のはじけるようなセシボンなホリデイであった
美知は非日常の夜を過ごせて大満足の様子であった。道夫伯父に深謝!

以上
(皆さんはお正月をいかがお過ごしでしたか。
アベノミクスで浮かれ気分のところに、あまりにも重いニュースが飛び込んできて心が痛みます。
私自身40年前アルジェリア、イラク、イラン、UAEなど土漠の中近東で仕事をしていたので目を閉じると蘇るものがあります。ご冥福と世界平和を祈らずにはいられません。)