2009/08/15

思い出遥かに

思い出遥かに    

                                   羽佐間 英二        


多感な少年時代を戦争体験の中で生きてきた私たちにとって、多摩中学は心のふるさととしていつも懐かしく思い出される。 当時をともに学び、ともに遊んだ学友たちと今でもクラス会、旅行、文通などを通してふれ合い、往時を偲んで語り合える連帯はあの激動の時代背景があったからとも思える。そして生まれ出て僅か4年で消えた母校への懐古集団だからかもしれない。

昭和17年4月、同じ庭に立った80名の少年たちは、60年を経た今でも45名の所在が確認され(他に物故者2009年8月15日現在20名)、しかも毎年1~2名がクラス会名簿に加わっている。この年代にしてこの補足は見事であり、きめ細かく仲間達の動静を追ってくれている柴本君によるところが大きい。

私は父の突然の転勤で友人たちとの別れを交わす間もなく、生まれ育った三池炭鉱のある大牟田を後にして慌しく上京した。昭和16年8月であつた。言葉遣い、生活環境、友人関係、教科内容など、すっかり変質し戸惑いと混乱の中で時局は開戦をむかえた。間もなく中学入試に直面し悪戦苦闘のなかで、入学できたのが、わが多摩中であった。小学校(港区白金小)の同級生だった高原君、吉川君、所君と入学式で再会し、君もか!と声を掛け合い何かホッとしたものだった。その3人とも今では鬼籍に入り寂しい限りである。

全寮制での特別教育に <多分そこには軍国少年づくりのスパルタがまっていたにせよ> 心は躍り希望に燃えてあの渋商での入学式を母同伴で迎えた日の熱い胸の高鳴りは、今でもジーンと蘇ってくるものがある。
翌5月私たちは、新設校舎の予定地である聖蹟桜ヶ丘の高台に立ち、限りない希望に胸を膨らませたものだった。それが時をまたずして幻と消える夢物語になろうとは誰もが思ってもみなかったことだろう。
それでも“欲しがりません。勝つまでは!”と思いを繋げつつ後年、渋商から上原小跡へと自前の校舎に移り住むこととなった。ボロでも我が家ともなると住み心地は悪くなかった。

昭和18年になると戦況は日増しに悪化を辿り、私たちは学業もさることながら訓練、修練により心身の鍛練に励むこととなる。
“飯食終わりて新力満ちたり、勇気前に倍しこと為すに耐えん”箱根での禊の折、食事のあとにこれを唱えるのだが、お粥に梅干では力がみなぎるどころか、身を切る水の冷たさに勇気も前に半ばする思いであった。三友君の偉大なものも、蓑虫の如くに萎えたのを覚えている。

戸澤先生にブザマとからかわれながらも、英語の授業は好きだった。
“Early to bed early to rise makes a man healthy wealthy and wise” などと暗誦するのが得意で家に帰ってはリ-ダーを読んでいた。 今思えばこんなところに動機がひそんでいて、社会に出てから海外関係の仕事に携わることになったのかもしれない。

18年の春 国語の授業で短歌を詠んだことがある。時にアッツ島の玉砕があり、これを主題に、もう一つは課外での鎌倉研究の折のものである。
“北海の寒気厳しきアッツ島2千の将士花と散らるる”
“朝まだき鎌倉山に来てみれば蝉の鳴く音のかしましきかな”
なんと即物的であることか。


私は“国の大事に殉ずるは我ら学徒の面目”…….とわきまえないではなかったが、直ちに学業を離れて軍人の道に転ずるのにいささかのためらいがあった。3年生になる頃には幼年学校や少年飛行学校に巣立って行く友人もいて、その壮たる志と凛とした勇姿は羨望の的ともなっていた。

長嶋君や坂口君が交々に私の家(駒込)にやってきて真新しい軍服姿で直立不動のまま敬礼し「では行ってまいります。」「しっかり銃後を頼みます」と挨拶するのだが、軍国の母は眩しそうに彼等を見送り、我が家は3人も男の子がいて1人もお国の役にたちそうもないと言っていた。

この年の春、二つ年下の弟は軍人志望の少年の育成に当たる牛込の成城中学に進むが、明治18年創立の伝統校で、母はやっと幼年学校への道が開けるかと喜んでいた。受験の日 木戸君と小川君がそれぞれ弟の保護者として付いて来ていて、そうだったのかとお互いにびっくりしたのを覚えている。結果3人共に合格できて喜びを分かち合ったものだ。

前年の昭和18年3月、父は病を得て早世した。食べ盛りの3人の男の子をかかえて母はたけのこ生活を始めた。翌年私たちは住み慣れた駒込の家を離れて雑司が谷の小さな家に移ったが、間もなくB29の烈しい洗礼を浴び、命からがら従兄の住む高輪の家に転がり込んだ。そのお陰で動員先の電気試験所には徒歩で通っていた。 昭和20年の2月頃だったと記憶している。

試験所で総務らしい仕事をしていた迎君が旅行証明書を作ってくれ、親戚の疎開先を訪ねるべく切符を求めに八重洲口の窓口に並んでいた時だった。いきなりの空襲警報と同時に爆弾投下があり、周りが人も物も吹っ飛ぶ中で、私は奇跡的に九死に一生を得たことがある。よくここまで生き長らえているのもあの日あの時の強運のお陰だと思っている。

20年5月の大空襲で試験所も廃墟と化し、間もなく私たちは陸軍の福生飛行場に再動員された。そこでの艦載機の機銃掃射も怖かったが連夜にわたり来襲する南京虫の波状攻撃に耐える方がもっと辛かった。

そして暑い終戦の日が来た。

私の戦後も荒廃した人々の心をとらえたあの明るい「リンゴの歌」で始まった。終戦後二ヶ月にして公開された「そよかぜ」という青春映画を幾たび観に行ったことか。当時は映画と実演の組み合わせで入れ替え制の興行が多かった。そこで休憩時間中にトイレにもぐりこみ、次の回もちゃっかり再入場という裏技もありだった。

歌の好きな保科君、金生君等と当時の日劇に出かけては、つぎつぎと新しいメロディーを覚え歌集もつくった。下の弟も加わりその輪は広がった。高橋礼三君などは、私たちを作曲家集団と勘違いしていたようだ。
進駐軍が持ってきた「ラッキーストライク」を私に無理やりに吸わせて不良を気取っていた所君はもういない。卒業後も三友君、神作君等とともに長く交流を続けた懐かしい友の一人だった。

昭和21年4月、多摩中は都立十五中との併合で僅か4年の歴史とともにその幕を閉じ都立青山中(現都立青山高)に名を変えた。私は旧制中学最後の卒業生として中学5年を終え目指す早大に進んだ。
離合集散はあっても、あの時代をともに過ごした旧友たちとの友情は今に続いている。そして命ある限りこれからもそうでありたいと願っている。

 ちなみに孫の駿之介(長女の息子)は半世紀以上を超えた今、同じ早稲田で学んでいるが、スマートで勉強が出来て、あの頃のばんからな早稲田魂の名残はさらさらない。