2011/07/13

人生色々こぼれ話(3)少年時代②

人生色々こぼれ話(3)
少年時代・・・②

九州の夏はとにかく暑い。海水浴が楽しく、前出の宮本馬車で母に連れられよく出かけた。ところが有明海は干満の差が激しく、引き潮とになったと思うと瞬く間に干潟となり、海水浴から潮干狩りに場面転換である。

海辺は小魚や貝のお祭りである。ムツゴロウ、しゃこ、はぜ、かに、アサリ、赤貝、蛤・・・・採りたい放題で、この方が泳ぎよりよほど面白い。そして海の家でカキ氷を食べ夏休みの一日が終わる。

真っ黒に日焼けして新学期を迎えるや否や、猛烈な台風がやってくる。急な大雨で学校で借りた番傘は忽ち暴風にあおられてお猪口となって、空に舞い上がる。ずぶぬれの黒いどぶ鼠のような姿でほうほうの体で我が家に辿り着く。ランドセルの中身を乾かすのが大変だった。

♪今日来たねいやは、いいねいや。雨の降る日に傘さして、まあお可愛いと言いながら私を抱いてくれました。♪ こんな詩情豊かな楽しい雨の日もあった。

「町立荒尾第三小学校」までは1km足らずの距離だが、朝は地域ごとに集団登校した。今のように身の安全を守るのではなく、組織体としての秩序ある行動をとるためであった。もう一つ「私立万田小学校」というお坊ちゃん学校があったが“尻つまんだ校”と言って軽視していたようである。

帰りはばらばら帰宅であるが、寄り道ばかりでずっこけていた。我が家に級友を何人も連れて帰ると、母は喜んで迎え入れお風呂をたいて、サツマイモをたらふく食べさせた。職員社宅ではなく当時「納屋」と呼んでいた炭鉱夫の家の子供達である。

多分母の気持ちの中には、あの子達のお父さんが数千尺の地底で命を張って働いてくれているから、炭鉱が動いているのだとの感謝の気持ちがあったからに違いない。後年も誰かれとなく人様の世話をする母の人情を、私はその時感じ入っていた。

2001年4月私たち3兄弟夫婦は、私の親友I君(故人となった彼のことはいずれ触れます)共々母校と少年時代を過ごした家を訪ねた。校庭の桜は満開であの頃を彷彿とさせてくれた。校門から校舎のあたりも変わらぬ姿を留めていて懐かしかった。職員室を訪ね往年の写真を見るにつけ感無量であった。

住んでいた家はどうだろう。やはり何もない。廃墟と化した玄関の辺りに佇み私は心の中で「ただ今」と呟いた。「こんなに狭い道だったのか」と弟が云う。♪幾とせ故郷来てみれば 咲く花鳴く鳥そよぐ風 門辺の小川のささやきもなれにし昔に変わらねど 荒れたる我が家や住む人絶えてなく♪

日頃畏怖する先生方が或る日大挙して我が家を訪れ宴会となった。父が日頃の謝恩会と言う意味でお招きしたらしい。飲めや,歌えの大饗宴である。物珍しげに、弟とふすまの陰から覗き見をする。人格とはこんなに変貌するものか。ただの酔っ払いのおとっちゃんと化した我が師の姿にびっくり仰天しているうちに、教頭の「いもちゃ」(禿げちゃびんのI先生のあだ名)が父の好きな広沢虎三のレコードアルバムをしたたか踏みつけ粉々にしてしまった。一言「ごめん!!」その慌てぶりを今でもはっきりと覚えている。

父は労務担当なので、仕事柄お酒の付き合いが多かった。日頃は母子家庭のようなものである。夜寝静まった頃、炭鉱労組の強面の親分が一升壜を片手に自宅に乗り込んでくる。大きな声で談じこんでいる。子供ながらに異常を感じていた。S兵衛さんというくりから紋々のひげ面がいきなり畳に短刀を突き立てる。父は動ずることなく応じている。

数日後またやってきた。「坊っつあん、こん間は勘弁ですたい」50銭玉をおもむろに差出し私の顔を見る。その目の鋭さに射抜かれたように小さくなって俯いているだけだった。

子供の頃から集会慣れしていて、休日には父の先輩、後輩の持ちまわりの集まりに付いていった。勿論子供たち同士が番外で会えるのが楽しみだからである。子供映画のフィルムを燃やしてぼや騒ぎを起こしたこともあった。当時「サクラビール」というブランドがあり、栓の裏側に張ってあるコルクをはがしサクラのマークが現れると当たりで、小さなおもちゃと替えられる。ビールの栓を抜くのは子供の特権とばかりにその機をうかがっていた。

♪おどんがこんちょかときゃビルビンに屁ふりこんで開けちゃかずみかずみ臭かったノーイノーイ♪(小さい頃ビールの空瓶におならを詰めて栓をして、開けて臭いをかいでみた。臭い臭い)

万田公園という桜の名所があったが、三井の所有で、グラウンド、講堂、青年学校、プール、ボートの浮かぶ池、クラブなどが揃っていて住民の憩いの場であった。春爛漫、花咲き乱れる光景は見事であった。ぼんぼりの揺れる桜祭りに浴衣で夕涼みに出かけ屋台でべっこう飴を割るのが楽しみだった。うまく型どおりに割れると、もっと大きなものへとステッアップし最後はお面のような大きなものをゲットできる。

父がこの講堂での戦記ものの映写会に学校のクラス全員を招いていわば課外授業をしてくれるも楽しみだった。「5人の斥候兵」という映画を見て感動で震えた。

昭和13年に、日独同盟強化の一環としてこの公園のグランドに突然「ヒットラー ユーゲント」(ナチス党の青年組織で10歳から18歳で構成)がやってきて、私たちは盛大に迎えた。規律正しく凛々しいその行進に少年の心は火と燃えた。私は今でもあの昭和18年10月の学徒出陣、雨中の壮行会の映像を見ると、なぜかユーゲントの姿がダブってくる。それほど鮮烈に映ったのだろう。父は陸軍少尉で在郷軍人分会長、母は婦人会の世話役で、もんぺ姿で年中バケツリレーの訓練をしていた。日中戦争はエスカレートし、国家総動員法が制定された。

♪パーマネントに火がついて みるみる中にはげ頭 はげた頭に毛が三本 ああ恥ずかしや恥ずかしや パーマネントはやめましょう。♪ この程度ならユーモラスだがそのうち、贅沢は敵だ! 欲しがりません勝つまでは! の戦時体制にひた走るのだ。                 以上