2012/02/29

人生色々こぼれ話(14) 〜戦後の闇市文化

人生色々こぼれ話(14)戦後の闇市文化

戦後の貧困と飢餓の裏側に闇市の跋扈(ばっこ)があった。戦争に負けても人々の食べる為の生存競争は熾烈を極めた。名ばかりの配給品は遅配、欠配でとても飢えを凌げるわけがない。住む家を失い衣食住共に極度の窮乏状態にあった。

そこに駅前広場や盛り場に闇市が出現し、一種の戦後風物となった。
横流し、盗品、密造品,進駐軍の残飯などの食料品を始め鍋、釜の日用品までところ狭しと立ち並び、日々賑わった。

空襲による焼け跡や建物疎開の空地が闇市により次々と不法占拠された。農家からの穀類野菜、イモ。豆などを始め、北海道のするめ、どぶろく、カストリ焼酎、進駐軍の残飯シチューなどを露天で売るのだが、そのうち的屋(てきや)が現れ、地割などを仕切るようになった。青空市場と言うよりまるで小規模なバラック商店街の様相である。

闇市なので値段は高いのだが、配給物資はほぼ底をついていたので人々は生き延びるために闇市に頼らざるを得なかった。当時の都市部のエンゲル係数(生活費に占める飲食費の割合)は70%であった。

街角に立つ復員傷病兵の物乞い、ガード下の孤児達の靴磨き、そして夜の街角に佇む女達(通称パンパンガール)など敗戦国日本の闇は深かった。

戦災浮浪児は12万人に達したとの記録が残るが、住宅街で靴をかっぱらい闇市に走り、モク拾いで小銭を稼ぐ浮浪児の姿や「♪こんな女に誰がした」と歌われた闇の女達は哀れではあったが、それがその時代の生き様であり、居直りの姿でもあった。

夕暮れともなると日比谷のGHQ本部(今の第一生命ビル)の傍には高級士官を待つ一級のパンパン嬢がたむろしていた。
私はその姿に敗戦日本の屈辱感を噛締めていた。

立川基地でパンパンをやっていた自分の過去を知られたくないので殺人を犯すというストーリーで、松本清張の「ゼロの焦点」が出たが、この時代背景の中でのテーマ性が高く、その後映画、TVでも相次いで上映されている。

折りしも流れてきた「リンゴの唄」(前出)の爽やかで明るいメロデーに人々はどれほどの励ましと勇気を貰ったか計り知れない。

私は今でもこのメロデーを口ずさむと「♪リンゴ可愛いや、可愛いやリンゴ」の のどかな津軽風景ではなく、戦後の荒廃した新橋や新宿の闇市のモノクロ映像が重なって見えてくるのだ。


そんな極限の時代に喘ぎ苦しみながら、なぜか人々には笑顔があり、身を堕とし誇りを捨てながらも明日への希望の灯をともし続けていたように思う。

新宿西口一帯にテキ屋安田組が仕切る闇市があった。アルバイトで稼いではこの一角で芋饅頭を頬張り、進駐軍の残飯シチューで空腹を満たした。トマト味のスープにコンビーフ、鳥の骨、魚の頭、じやがいも、キャベツの芯、にんじん、パセリ、パンの耳、などのごった煮に一杯10円でありつける。すっぱい匂いがして乙なものではないが、家で食べるすいとんより味があり栄養価も高い。ステーキの食べ残しが入っていようものなら大当たりとなる。

ただし中から色々な付録が出てくる。英字新聞、ビールの金冠、タバコの空き箱、チュウインガムのかす、などであるが、或る日友人N君のどんぶりからコンドームが出てきたのにはさすがにたじろいだ。

思えば進駐軍の残飯シチューのおかげで、生き延びていたような気がする。文句なく闇市文化のナンバーワンに推したい。
今でも「思い出横丁」の名前で往時の姿を偲ばせる一角が残っている。
ここでは本物の特製ブイヤベースが味わえるのかも知れない。

新宿東口の闇市はスケールが大きかった。テキ屋、クレン隊、博徒が入り乱れまるでギャング街の様相で近寄りがたかった。悲惨にもメチールアルコールの入った密造酒で失明したり、命を落とした事例も少なくないと聞く。

空いているのは腹と米びつ、空いていないのは乗り物と住宅といわれた時代である。

新橋駅裏の闇市は本邦第一号である。終戦の日からわずか5日後には何処からともなく人々が集まり闇物資を持ち込み露店で営業を始めたといわれる。やがて何でも手に入る百貨市の様相を呈した。食べ物だけではなく鍋、釜、電熱コンロ、布団、靴、洋服、下着など日用品も手に入る。米は統制品なので摘発されたようだが、銀シャリは加工品なのでパスである。

スルメは日持ちが良いので大量に持ち込まれ、貨幣の役割すら果たしていた。つまりお酒
一合がスルメ一枚で買えるといった具合である。

以前にも触れたが、食料品の買出しは命がけであった。鈴なりの列車で千葉や茨城の農家を訪ね穀類や野菜を仕入れる。お金がないので着物、帯などとの物々交換も常套手段であった。世に言うタケノコ生活(竹の子の皮のように一枚一枚身をはいでゆく)である。

私も時に母から荷役に刈りだされた。常磐線柏駅から4~5kmの農家であった。お米やサツマイモ、南京豆(母はこれを転売していたと思う)などを背嚢に一杯詰め込み、肩には振り分け荷物、両手は手提げ袋、殆ど身動きの取れない状態であったが、これが家族の命をつなぐとの使命感から、火事場の馬鹿力で運び帰った。客車の天井に這いつくばって、汽車の煙で煤にまみれながらの帰還もあった。

3時間近くの長旅(帰路は荷物で重いためか汽車ものろい)で上野駅に着くと警察の摘発が網を張って待っている。人数は買い出し部隊のほうが圧倒的に多いものの、荷物ごと持ってそのまま逃げると捕捉されやすいので、一箇所に荷物をまとめ、母がこれを見張りし、私が物陰に一つづつを運び尺取虫のように移動してゆく。

狙われたら必ず捕まるので、警官の目に留まらないようにまるで忍者の早業のように隠れ忍んでは、隙を突いて飛び出す。学校でバレーボールの練習で鍛えていたフッとワーク、筋力がタテヨコの動きを敏捷にしてくれたのだろう。毎回違法ながら、命のお米を運び続けた。

「腹を空かせ、病に苦しむ子供たちを救おう」と食料品、医薬品、日用品などの救援物資
が「ララ物資」として海外のNGOの手により届けられた。クリスマスに間に合うようにと、終戦の翌年昭和21年11月30日横浜港に第1船が入港の記録(ウィキペディア)がある。

当初は南北アメリカ大陸の日系人が寄付の中心であったようだが、週に一度の昼食を抜いてそのお金を日本の子供達への募金に回すという運動はアメリカや各国のボランティア活動として広がり、「ゴール・1000万ドル 日本難民救済」というキャンペーンになり、アメリカでは全米放送を通じて全国民に呼びかけたとなっている。

この生活物資の救済は昭和26年(1951)まで続けられその総額は当時の価値で400億円に達したと記されている。

昭和47年頃少年3人の我が家にもララ物資として小麦粉とコンビーフの缶詰が届いた。真っ白な小麦粉で作ったホットケーキにコンビーフを挟んで食べた即席サンドウイッチの美味しさを今でも忘れない。
♪ララのみなさんありがとう♪という歌があった。
以上

(再び戦争直後の話に戻りましたが、進駐軍の「残飯シチュー」はどうしても書き残したくていつかはと思っていました。戦後の惨憺たる食糧事情は今想起してもなかなか実感がわきません。ただやたらにおなかが空いていました。食べ盛りの男の子3人を抱えて母の苦労は如何ばかりであったかと思います。

私はよく子供達に好き嫌いを諭したり、食べ残しをとがめたりしましたが、どこかに自身の戦後体験があり、残飯を食べていた私にとってはなんでもつい“勿体ない”という言葉が口をついて出てしまいます。

「すいとん」を食べさせても美味しいし、「残飯シチュー」も模しても特製おじやが出来上がるので子供達への戦後疑似体験は出来ませんでした。)