2011/06/13

人生色々こぼれ話 (1) ~社会人一年生

人生色々こぼれ話(1)
「社会人1年生」

娘や孫に促されて、越し方を振り返りこぼれ話を綴ることにした。もうそろそろ思いつくことを書き留めておかないと、記憶が霞んでは間に合わないとの思惑かもしれない。

然し確かに後世に残す大事な作業の一つかなと思うようになった。出てくる話は僅か半世紀強の時系でしかないのに、そこには激動の時代背景が重なり、今の世の中からは想像の出来ない自由闊達で、情緒的、貧乏でも温かく人情に満ちた人間の営みがあったように
思い返される。


先日孫のshunが始めてのお給料(本人はお給金と称している)を頂いたので妻共々夕食
をとのお招きを受けた。嬉しい話なので喜んでその饗応を受けることとなった。

昨日までの学生気分は拭い去られ、社会人としての自覚満々で希望に満ちた明日を約束する彼の言動に驚きを禁じえなかった。彼が入社したO社は業界では名門、そして人間尊重の経営を貫いているクラシックな会社だけど、12,000人のエントリーから選ばれた12人のエリートの一人らしく、その誇りある語り口にしばし耳を傾けた。


私はひそかに60年前の私を想起していた。花の28年組と騒がれていたけど、失業者は町に溢れ企業倒産続出の大不況の最中にあった。吉田茂の「バカヤロー」解散の年である。
会社は今の「三井金属鉱業」、父の勤めた「三井鉱山」の非鉄部門ともいえる財閥系の会社
に身を置くこととなり、その時の母の喜びようは今でも忘れない。亡父の仏壇に日々報告をしていたようだった。何しろ会社と言えば三井しか頭になかった母の思いを充たしたのだから私も無形の親孝行をしたことになる。

本当は新聞、報道関係に入りたくてトライしたのだが、朝日新聞、NHKとも願いは叶わず、三井という傘のもと、堅実、質朴の明日に向かって1歩を踏み出した。


初めての職場は北区王子に在った(今は埼玉県上尾市)圧延工場の製品出荷の倉庫係だった。銅の板や真鍮の棒を、日立や東芝などの需要家と問屋在庫用に送り出すための伝票書きの仕事である。出荷が終わると、日計表の作成、明日の出荷予定表の作成など繰り返しの日々で、たちまち5月病に罹患してしまった。そろばんは苦手で残業が当たり前、体もくたくたで工場内の診療所でザルブロという静脈注射を打つ毎日だった。看護婦のKさんがやけに親切だったことだけを覚えている。

学生の時から所属していたS合唱団の活動も盛んで日曜日は殆ど三軒茶屋に出かけ練習に明け暮れていた。第九を暗譜する作業もあり音楽も闘いに似ていた。


当時私は新宿区戸山町のぼろ小屋に居を構え(このあたりの話は後日に)早稲田から王子の神谷町まで都電で通勤していた。32系統で早稲田―面影橋―学習院下を経て雑司が谷-巣鴨―飛鳥山―王子まで、そこで27系統の赤羽行きに乗り換え工場のある神谷町まで1時間近くを掛けてのんびりの電車通勤だけがゆとりの時間だった。

早稲田から大塚辺りまで乗るOGが気になっていたのだがある日からぱったりと会わなくなった。父の転勤でどこかへ、もしやお嫁になどと想像を巡らせていた。

今でも最後の都電として早稲田から三ノ輪橋までこの区間だけが運行しているのは懐かしく、ワンデイトリップに出かけてみたいと思う。


間もなく、私には事務労働は不向きと思われたのか、人事的なローテーションのためか
年明けを待たず、経理課に転ずることとなった。質の違う忙しさが待っていたが、仕事は
面白くなった。ネガティブからポジティブへの転換を感じた。先輩諸氏も親切に指導してくれた。私も本を買って実務的な勉強をした。

俄かに文化人になったような気分で、先輩との飲み会にも加わった。近くの小便臭い喫茶店で話に興ずる日々も少なくなかった。このメンバーに後に娘の名付け親となる自由人のTさんがいて、長い交流が始まった。絵を描くことを教えてくれたのも彼だった。「山の友よ」という山男の歌は彼の作詞、作曲でダークダックスのレパートリーとなった。

Nさんは釣り狂で、誘い合って山に岩魚、ヤマメ釣りに出かけた。鉄橋で電車に出くわしたり、引掛かつた糸を外そうと登った木から川に落ちたり、熊の足跡を見つけたり、武勇伝は少なくない。後年家庭を顧みず釣りに熱狂したためか、妻は娘を連れて私の実家に家出をする始末であった。


冬のスキーは良く出かけた。上野初23時50分上越回り米原行きの夜行に飛び乗り、早朝石打に着き,仮眠をして、1日滑りまた夜行で帰る等の今では考えられない荒業が良く続いたものだと思う。妻とのロマンスはリフトのロマンスシートで芽生えたとの美談が伝えられている。


初任給8,000円(孫の4%弱)は殆ど飲代と野外の行楽で消えた。然しこうしたお付き合いで次第に人脈は厚くなった。仕事だけの虫にならないで、この、時代を超えて良く遊んだことは私の人生の糧になったように思っている。文武両道とはいかないまでも、忙中閑ありの構えが備わったのは経理課の自由で風通しの良い雰囲気のおかげと感謝している。恵まれた社会人としてのスタートであったが、約1年後に結婚する時、貯金ゼロ、で家賃4000円の負担は大きく共働き生活が始まるのは止むを得ぬとしても、家計のバランスから月300円の10畳一間の木賃宿以下の家族寮に移り住むことになった。台所もトイレも共用でスイートホームとは程遠いものであった。

電気洗濯機を買って、我が家が特権階級のように見られたあの頃が懐かしい。
家族寮入居者は、その実績で1年後優先的に新築の集合社宅(浦和)に移れることとなった。 
                                 以上