2011/07/31

人生色々こぼれ話 (4)少年時代 ③

人生色々こぼれ話(4)
少年時代・・・③

うさぎ狩りという年中行事があった。朝5時に校庭に集まり幾つかの集団に分かれてそれぞれ野山に入る。

集団は網を張って獲物を待つ組と、うさぎを追い立てる勢子に分かれる。朝まだきの、うさぎが寝ぼけているところを急襲するのだが、ことごとく取り逃がしてしまい戦果なしのご帰還である。ところがお母さん達が作ったうさぎの炊き込みご飯が空腹の私たちを待っていた。何も捕れなかったのに?と不思議で仕方なかった。
まさに、うさぎ追いしあの山はいまいずこ。

蝉取りの失敗談は前にお話した通りだが、昆虫採集が好きで、父に標本箱を買ってもらい蝶々、トンボ、ヤンマ、蝉、甲虫類などに仕分けして観察していた。形を壊さないように捕獲しホルマリン注射をして、ピンで刺して留める。昆虫図鑑から正体を調べキャプションをつける。夏休みの宿題専科であった。 中にはめったに出会わない希少な珍種をゲットしてその夜は何度も虫籠を覗き見て興奮のあまり寝付けなかった。

切り傷は絶えなかったが、秋になるとはぜの木にかぶれ、真っ赤に腫れ上がった顔に生の油揚げを貼って、それを食べるとおまじないのように治った。


いたずらっ子の弟は、引込み線の線路に釘を並べ、矢じりを作り、それを竹の先に装着しその小槍で引き売りのリヤカーや女学生の自転車のタイヤを突っついていた。母は謝るのに忙しかったようだ。阿蘇へ家族旅行をした折に、弟は柵を乗り越え噴煙の火口まで降りるといって母を困らせていた。

町のあちこちにカンジン(物乞いのこと)がいて、皆あだ名がついている。あんしゃんカンジン、あねしゃんカンジン、ビスカンジン、湯のみカンジン、屁ふりカンジン、・・・

中でも「あんしゃんカンジン」はひげ面で哲学者のような風貌をしていて、今流に言うとインテリのホームレスだったのかもしれない。おなら名人の「屁ふりカンジン」には“そらそうたい、味噌こしゃ竹たい屁はガスたい“とからかっては一目散に逃げていた。


I君の家の前に配管が破れそこからお湯が噴き出している。一人のカンジンがやってきて唐津焼の湯のみ茶碗でおいしそうにお湯を飲んでいる。「湯のみカンジン」である。帰宅したI君のお姉さんはカンジンさんに一礼して自宅の門をくぐったという。何とも奥ゆかしい光景である。


担任のH先生は教育熱心で厳しかった。標準語を使う訓練もあった。「ぬしゃ、なんばしよっとや」→「君は何をしているの」、「どげんもこげんもしょんなかばい」→「どうにもこうにも仕方がないよ」、「もうし、とっぱいばはいよ」「こんにちは、豆腐をください」こんな調子である。呼び捨てではなく君付け運動も推奨された。


5年生の夏休みの或る日家庭訪問があった。濡れ縁での先生とのやり取りを今でも覚えている。 「勉強しているか」/「はい」  「中学は何処へ行きたいか」やや置いて「I君やN君と一緒に三池中学を目指します」 「駄目だ」/「・・・」 「君は東京の府立一中を受けるのだ。先生はどうしてもそうさせたい。そのためには家で一日5時間勉強するのだ」
熊本中、福岡中すら難関なのに先生は私に何を求めているのだろう。この日から私はやや無口になった。

それから33年後故人となられた恩師の墓前に跪き、私は溢れ出る涙を留めるすべもなく、先生の想いに至らなかったことを深くお詫びした。然し幸せな半生を送っていることも報告した。
今でも竹の筒で頭をこつんとやられたあの痛さを思い出す。

ジステンバーという強い感染症で愛犬の「ジン」が死んだ。まだ2歳のシェパードである。
或る日帰宅すると、息絶え絶えに横たわっているジンの傍らに獣医がついている。とっさに何が起きたのか理解できない。思いがけない光景に息を呑んでその場に佇むだけであった。「ジン頑張って!死んじゃ嫌だ。また遊ぼうよ、庭でかけっこだって、公園の散歩でも何でもしてあげるから・・・・」やがて彼は短かった命を閉じた。「さようなら、楽しかったこと忘れないから・・・・」
「愛犬ジンの死」という作文は最優秀賞を得て校内に掲示された。先生方からも名文として長く賞賛を得た。
犬は大好きだけど、再び犬と暮らすことはなかった。

父が万田坑(今では国の重要文化財として開放されている)から三池坑という炭坑に転勤になったので、社宅も荒尾町から大牟田市に移った。4kmほどしか離れていない隣町なのだが田舎から都会に越した感じである。家も大きく
なって子供部屋つきである。5年の2学期だったが近くに住んでいた親友のI君と楽しい大牟田⇔荒尾の一駅だけの汽車通学が始まった。

荒尾駅から学校まで2kmほどの道のりだが、その年の春に女学校をでたT先生とH先生との同道で楽しかった。途中北小学校の正門前を通ると悪がきに冷やかされ石を投げられた。「北のパチ」という頭にメンコ(パチという)大の禿がある恐ろしく足の速いのがいて、逃げ足鋭く手におえない。ある時、地域全体の競技会があり、小学校対抗リレーで弟が北校を抜き去りのろまの私は溜飲を下げた。弟は超快速のランナーであった。彼はその足を生かし中学、大学と野球の道を選んだ。


話は戻るが、私たち三兄弟には長兄がいた。私は次男なので英二である。私の生まれる半年前に4歳で疫痢で亡くなっているので、知るすべもない。母から斌(あきら)は聡明で優しい子だったと聴かされていた。もし生きていても軍国の母は必ずや兄を海軍兵学校か陸軍幼年学校に進ませたに違いないと思っている。多分護国の華と散ったであろう。私は決してリベラリストではなかったが、自ら軍人になるのを肯んじなかった。                         
                                以上
(夏休みのため、次号は9月1日頃の掲載となります。引き続きご愛読を)

2011/07/21

なでしこは日本を変えた

なでしこは日本を変えた

今この時に、神風が吹いたような戦いぶりとその爽やかな笑顔に日本中が沸きかえっている。日本は沈没の淵から再起できるかもしれない。なでしこは河原や野に咲く可憐な花だけど、踏まれても蹴られても挫けない信念の花だということが分かった。
「諦めない」「負ける気がしなかった」平然と言って憚らない彼女達の強い心と高い技術に感動し、感涙した。

正直に言って延長前半の終盤に、あのワンバックという名手の桁外れのゴールで今回も終戦だと思った。25回も戦って勝てないアメリカの高く厚い壁を感じた。ところが崖っぷちで沢の右アウトサイドでネットを揺らしたあの瞬間、私は何事が起きたのか俄かに判じ得なかった。遂に運命のPKである。
PK戦は持病の心臓に良くないので、大試合では見ないことにしている。今回もトイレに入り、うんがつくようにとただひたすらに祈っていた。

さてどうか・・・と怖いものを観るような気持ちで、スイッチオン!なんと3-1で優勝した瞬間であった。劇的に勝ち進んできた日本に又も奇跡が起きた。あまりにも強烈な信じ難い事実にただ興奮し、声を上げ拍手した。妻がふと、原爆のお返しだと呟いた。
日本中を夜明けの感動が走った。

新聞を読みまくり、TVを観ているうちに、何故勝てたのか、そして日頃の彼女達の素顔が見えてきた。チームの団結や監督との一体感が原動力となって、「いつも楽しく戦ってる」という言葉の真実性を理解できた。監督は日本人でなければダメという教訓も大きい。なでしこはドイツの地で伝説となった。「人間、欲が出るので五輪のメダルも欲しい」と言い切る沢の言葉は重い

女子サッカーはこれから花形としてクロ-ズアップされるであろう。
色々な物心の波及効果で、日本は明るさを取り戻せるのではないかと思う。

貧困な政治家諸君よ!国民は貴方達をきっぱりと見捨てたということを銘記すべきである。
                                   以上

2011/07/13

人生色々こぼれ話(3)少年時代②

人生色々こぼれ話(3)
少年時代・・・②

九州の夏はとにかく暑い。海水浴が楽しく、前出の宮本馬車で母に連れられよく出かけた。ところが有明海は干満の差が激しく、引き潮とになったと思うと瞬く間に干潟となり、海水浴から潮干狩りに場面転換である。

海辺は小魚や貝のお祭りである。ムツゴロウ、しゃこ、はぜ、かに、アサリ、赤貝、蛤・・・・採りたい放題で、この方が泳ぎよりよほど面白い。そして海の家でカキ氷を食べ夏休みの一日が終わる。

真っ黒に日焼けして新学期を迎えるや否や、猛烈な台風がやってくる。急な大雨で学校で借りた番傘は忽ち暴風にあおられてお猪口となって、空に舞い上がる。ずぶぬれの黒いどぶ鼠のような姿でほうほうの体で我が家に辿り着く。ランドセルの中身を乾かすのが大変だった。

♪今日来たねいやは、いいねいや。雨の降る日に傘さして、まあお可愛いと言いながら私を抱いてくれました。♪ こんな詩情豊かな楽しい雨の日もあった。

「町立荒尾第三小学校」までは1km足らずの距離だが、朝は地域ごとに集団登校した。今のように身の安全を守るのではなく、組織体としての秩序ある行動をとるためであった。もう一つ「私立万田小学校」というお坊ちゃん学校があったが“尻つまんだ校”と言って軽視していたようである。

帰りはばらばら帰宅であるが、寄り道ばかりでずっこけていた。我が家に級友を何人も連れて帰ると、母は喜んで迎え入れお風呂をたいて、サツマイモをたらふく食べさせた。職員社宅ではなく当時「納屋」と呼んでいた炭鉱夫の家の子供達である。

多分母の気持ちの中には、あの子達のお父さんが数千尺の地底で命を張って働いてくれているから、炭鉱が動いているのだとの感謝の気持ちがあったからに違いない。後年も誰かれとなく人様の世話をする母の人情を、私はその時感じ入っていた。

2001年4月私たち3兄弟夫婦は、私の親友I君(故人となった彼のことはいずれ触れます)共々母校と少年時代を過ごした家を訪ねた。校庭の桜は満開であの頃を彷彿とさせてくれた。校門から校舎のあたりも変わらぬ姿を留めていて懐かしかった。職員室を訪ね往年の写真を見るにつけ感無量であった。

住んでいた家はどうだろう。やはり何もない。廃墟と化した玄関の辺りに佇み私は心の中で「ただ今」と呟いた。「こんなに狭い道だったのか」と弟が云う。♪幾とせ故郷来てみれば 咲く花鳴く鳥そよぐ風 門辺の小川のささやきもなれにし昔に変わらねど 荒れたる我が家や住む人絶えてなく♪

日頃畏怖する先生方が或る日大挙して我が家を訪れ宴会となった。父が日頃の謝恩会と言う意味でお招きしたらしい。飲めや,歌えの大饗宴である。物珍しげに、弟とふすまの陰から覗き見をする。人格とはこんなに変貌するものか。ただの酔っ払いのおとっちゃんと化した我が師の姿にびっくり仰天しているうちに、教頭の「いもちゃ」(禿げちゃびんのI先生のあだ名)が父の好きな広沢虎三のレコードアルバムをしたたか踏みつけ粉々にしてしまった。一言「ごめん!!」その慌てぶりを今でもはっきりと覚えている。

父は労務担当なので、仕事柄お酒の付き合いが多かった。日頃は母子家庭のようなものである。夜寝静まった頃、炭鉱労組の強面の親分が一升壜を片手に自宅に乗り込んでくる。大きな声で談じこんでいる。子供ながらに異常を感じていた。S兵衛さんというくりから紋々のひげ面がいきなり畳に短刀を突き立てる。父は動ずることなく応じている。

数日後またやってきた。「坊っつあん、こん間は勘弁ですたい」50銭玉をおもむろに差出し私の顔を見る。その目の鋭さに射抜かれたように小さくなって俯いているだけだった。

子供の頃から集会慣れしていて、休日には父の先輩、後輩の持ちまわりの集まりに付いていった。勿論子供たち同士が番外で会えるのが楽しみだからである。子供映画のフィルムを燃やしてぼや騒ぎを起こしたこともあった。当時「サクラビール」というブランドがあり、栓の裏側に張ってあるコルクをはがしサクラのマークが現れると当たりで、小さなおもちゃと替えられる。ビールの栓を抜くのは子供の特権とばかりにその機をうかがっていた。

♪おどんがこんちょかときゃビルビンに屁ふりこんで開けちゃかずみかずみ臭かったノーイノーイ♪(小さい頃ビールの空瓶におならを詰めて栓をして、開けて臭いをかいでみた。臭い臭い)

万田公園という桜の名所があったが、三井の所有で、グラウンド、講堂、青年学校、プール、ボートの浮かぶ池、クラブなどが揃っていて住民の憩いの場であった。春爛漫、花咲き乱れる光景は見事であった。ぼんぼりの揺れる桜祭りに浴衣で夕涼みに出かけ屋台でべっこう飴を割るのが楽しみだった。うまく型どおりに割れると、もっと大きなものへとステッアップし最後はお面のような大きなものをゲットできる。

父がこの講堂での戦記ものの映写会に学校のクラス全員を招いていわば課外授業をしてくれるも楽しみだった。「5人の斥候兵」という映画を見て感動で震えた。

昭和13年に、日独同盟強化の一環としてこの公園のグランドに突然「ヒットラー ユーゲント」(ナチス党の青年組織で10歳から18歳で構成)がやってきて、私たちは盛大に迎えた。規律正しく凛々しいその行進に少年の心は火と燃えた。私は今でもあの昭和18年10月の学徒出陣、雨中の壮行会の映像を見ると、なぜかユーゲントの姿がダブってくる。それほど鮮烈に映ったのだろう。父は陸軍少尉で在郷軍人分会長、母は婦人会の世話役で、もんぺ姿で年中バケツリレーの訓練をしていた。日中戦争はエスカレートし、国家総動員法が制定された。

♪パーマネントに火がついて みるみる中にはげ頭 はげた頭に毛が三本 ああ恥ずかしや恥ずかしや パーマネントはやめましょう。♪ この程度ならユーモラスだがそのうち、贅沢は敵だ! 欲しがりません勝つまでは! の戦時体制にひた走るのだ。                 以上