2011/10/07

人生色々こぼれ話 (7)〜 東京へ

人生色々こぼれ話(7)
東京へ

九州での少年時代の思い出話はまだ尽きない。然し前6話でもう大牟田を発ち東京に向かったのでもっと書きたい想いを敢えて断ち切り、舞台を東京に移すこととする。

関門海峡(当時は未だ関門トンネルは開通していない)を連絡船で渡り、下関から特急「さくら」で20時間ほどの長旅を終えて、初めて降り立った東京第一歩の地は品川駅であった。これが大東京かと思えるほどの、そこには静かな落ち着いた雰囲気が漂っていた。

現在の品川駅はあまりにも変貌し当時と比べようもないが、市電①系統で浅草行きの始発駅でもあった。今の高輪プリンスの辺りは竹田宮や北白川宮のお屋敷が連なっていた。だらだら坂を上り、突き当りを左折して暫く行くと高輪南町の羽佐間本家(父の兄)の家がある。お隣は山下太郎(山下汽船〕,嶋田繁太郎(海軍大将)などの立派なお屋敷町といった佇まいである。


小さな田舎町の社宅から出てきた文字通りのおのぼりさん3兄弟は、ただびっくりするだけで声も出なかった。洋風の洒落た玄関を入ると、ホールがあり左は応接室右は食堂がある。借り猫のように小さくなって、テーブルと椅子での食卓につくのだが、堅苦しくてものが喉を通らない。


1歳年上の従兄のS(当時麻布中、後年はフジサンケイグループ代表)は3Fのロフトに自室を構えていた。世界文学全集がずらりと並び、クラシック音楽を聴ける蓄音機つきである。
電話も,水洗トイレもあり、ガスコンロのある大きな台所、家族が住めるような女中部屋
がついている。飛び交う言葉の種類も生活様式も何もかもが違う世界に迷い込んだ感じであるが私たちはここに暫く身を置くことになった。



早速考えられない異変が起こった。父は数日後に近衛師団(天皇と皇居を警備しまた儀仗部隊としての任に当たる)に入隊する手筈である。前日品川の「緑風荘」という料亭で盛大な壮行会があった。祖母はわが子の出征に涙していた。

翌日父は九段の部隊に出頭したが間もなく帰還してきた。痔疾患のため騎兵連隊では受け入れられずとの判定であった。何としたことだ。私たちは不甲斐ない思いであったが、祖母は望外の喜びであったようだ。入隊転じて父は結局、三井鉱山の本社に勤務することとなった。然し私たちは何のために住み慣れた故郷を捨てて、東京に出てきたのだろう。と子供ながらにそんな想いを噛締めていた。



間もなく6年の2学期を迎えるが、私たち3兄弟は、従兄Sが前年に卒業した白金小学校という有名校(明治9年創立で今でも越境・進学校として知名度が高い)に学区外から越境して転入することとなった。東京の白金、誠之、番町は三大名門小学校と呼ばれていた。間もなく世田谷の奥沢町に自宅(借家)を構え、目蒲線で奥沢⇔目黒と電車通学をすることになる。汽車通学に馴れていた私にその抵抗感はなかった。がたことと走る大都会の郊外電車の風物が楽しかった。


然し生活環境、学校の風土、学業の内容、友人関係、言葉遣いなど、過去との繋がりを断たれすべてが新らしい出発となり、戸惑い、不安は少なくなかった。当初は生まれ育った荒尾、大牟田が懐かしく子供心にも望郷の念に駆られ寝付けない夜が続いた。はだしで校舎内を走り回っていたのにここではきちんと上履きだし、身だしなみも違っていた。周囲では九州から三匹の山猿が来たとの噂であった。


小学校の校舎は蔦の這う美しいコンクリート造りの3階建で屋上に奉安殿があった。地下にはプールがあり、特別教室として音楽室、階段状の理科室、大工道具の揃った工作室、裁縫室などが備わり、冬の暖房は蒸気のラジエーターが機能する。お弁当はここで温める仕組みである。いかにも都会風の洗練された校内環境である。今でも白金小は改築を重ねながらも当時の面影を留めている。

私は1階建ての木造校舎を裸足で走り回っていた昨日までの環境が信じられなかった。
まるで異国の文化に触れたような想いであった。然し校庭はコンクリートで小さく、休み時間など密度が高過ぎお互いにぶつかり合うほどである。 田舎町の小学校は小高い丘に囲まれ、広大な野原のような校庭で風がそよぎ、自然の緑陰があった。


決定的だったのは、勉学の中身である。ことごとくレベルが高く、これまでとは異質であった。教科書に添ってではなく、特別な教材が用意されている。それでも学校に来るのが退屈だと言って憚らない憎らしい連中が少なくなかった。

私は各課目共に悪戦苦闘である。母は家庭教師を呼んだ。今までは経験のない復習が必須となった。音楽などはピアノの音を聴き和音を言い当てる教科があり、♪菜の花畑に入り日薄れ・・・♪ 狭霧消ゆる湊江の・・・・♪等と正しく歌えばすむといったものではない。クラシック音楽を鑑賞し、感想文を書く。もはや教養のジャンルである。
付いてゆけたのは書道、図画、作文などマイナーな課目だけであった。

上の弟は抜群の運動能力があり、投擲では校庭外に擬似手榴弾を飛ばしたり、競走ではごぼう抜きを演じ、そして廊下ではスカートめくりのいたずらも・・・。

女の子はすかした私服姿で、にきび顔でませていた。昨日まで見慣れたおかっぱで赤い頬のずんぐりの子はいない。小6なのにペアで三越に行き、噂話になるほどのませた輩もいた。

明らかに田舎者と見下げたような視線を感じるとむかむかし、ぶん殴りたい衝動を感じた。弟のスカートめくりに蔭ながら声援を送ったが、母は先生に呼び出されては厳重注意を受けていたようだ。



父は各地の炭鉱に出張することが多く家を空けていたが、日曜日は近くの多摩川園、九品仏、自由が丘、などに出かけた。子供のくせに、昔恋しい銀座の柳♪の銀ブラが好きで、友達と内緒で出かけることもあった。

日曜日の朝、光を浴びながら「おーブルースカイ!! 大きな猫がわしの○○タマ持ってった!」とわけの分からぬ言葉を発していた。面白く懐かしい。朝食も生卵と納豆からハムエッグとトーストに変わった。
平和な時代の、普通の家庭の営みがあり、私たちも少しずつ東京での生活に溶け込んでいった。新しい友達も何人かできて標準語での会話にも親しんできた。父は転勤と度重なる出張の疲れからか、年末頃から体調を崩した。   以上

(とうとうまだ見ぬ東京にやってきました。懐かしい大牟田は遠く去り、望郷の果てに霞んで消え入りそうです。戦争という過酷な現実が直ぐそこに迫り私たちは激動の坩堝に引き込まれて行きます。)