2009/12/17

第九を歌い終えて

歳末の風物詩とも呼ばれる第九も終わった。

601人の大合唱が県民ホールを揺るがし、歌い終えて鳴り止まぬ拍手を浴びながら、私は1954年12月15日、日比谷公会堂で歌ったあの日の感動をかみしめていた。

その年の年末には奇しくも、現鳩山首相の祖父である鳩山一郎内閣が誕生したのであるが、洞爺丸事件が起きた年である。自衛隊が発足したのもこの年であった。

うたごえ運動が津波のように全国に広がる中、私も「合唱団白樺」というセミプロコーラスにいてロシヤ民謡の魅力に取り付かれ青春の炎を燃やしていた。

翌55年3月に結婚するも新婚時代の甘美な想いは更に無く、公演や会の運営に狂奔していた。ショスタコビッチの「森の歌」や第九といった大曲に取り組んだのもその頃であった。

最後のフロイド シェネル ゲーテルフンケン(歓喜よ、美しい神々の火花よ!)と歌い終えると ブラボー!の掛け声とオベイションに会場は割れんばかりの賛美と感動に包まれる。

時は流れても、あの日も今日もその熱気は同じであった。

そして今年は孫とのコラボで同じ舞台に立つことができた。お互いに良い思い出になることだろう。孫の駿之介はこのブログにも時折登場しているが現在早大の3年生。私の薦めもあり早稲田大学合唱団という混声合唱団に所属している。今年の第九の前日はその54回定期演奏会(杉並公会堂)であった。4部構成のプログラムであったが、洗練された歌声はよく響き、夫々の曲想も心に伝わってきた。
彼は夜遅くまで新宿でのコンパに参加し、朝早くからのゲネプロに駆けつけてきた。就活の忙しい中、私の誘いに応じ参加してくれたことに感謝している。

このブログを発信する彼の母の美知は11月23日に同じ会場で丸紅の60周年記念演奏会に参加している。この数週間私達は歌ったり聴いたりで合唱三昧に明け暮れた。今は心地よい疲れを感じている。

明日私は所属する絵画クラブ・チャーチル会ヨコハマのチャリテイ絵画展を閉幕し今年のスケジュールをほぼ締めくくることとなる。   英二

2009/12/08

水彩画の似合うイギリスの田舎町

「コッツウオルズ」礼賛

ヨーロッパを訪れると古い町並みや緑滴る田園風景に魅せられて思わずスケッチブックを取り出してしまう。

運河沿いに連なるブルージュの中世の建物、色とりどりの木造建築物が立ち並ぶ港町ベルゲン、木組み模様の建物が軒を連ねるストラスブールなどは絵心をそそる素材に溢れ、もう一度行ってみたい所である。

ロンドンから西北に200kmほど離れた所に田園の詩情流れるコッツウオルズ地方が広がる。なだらかな起伏が何処までも続く緑の丘陵を、区切るように点在する小さな村々を地図を頼りに気の向くまま訪れる。せせらぎや丘を渡る風の音に耳を傾け絵筆をとっていると、まるで世紀末にタイムスリップしたような錯覚にとらわれる。

イギリスの田園やライムストーンの質朴な建物を描くとなるとやはり水彩画が良く似合うような気がする。油彩ではぎらついて透明感が損なわれるからであろう。

安野光雅画伯は好んでイギリスの村を描いているが、その自然のやさしさに惹かれて必ずコッツウオルズ地方を訪れるという。

「夜が明けた。白い光が窓から射し込んでいた。鳥の声に囲まれているらしいことがわかったので飛び起きて窓の外を見た。うっすらと朝霧が立ち込めていた。庭の右手には清冽な川が流れている。川面には落ち葉を浮かべ、川底には増すが遊んでいたのだった」これはバイブリーという村での安野さんの描写である。そこには安野絵画の世界があの淡い彩色そのままに広がっていたに違いない。

ハニーゴールドやグレイの、光線によって微妙にその色合いを変える建物の表情は息を呑むように美しい。かつてイギリスの貴族や上流階級の人々の生活の場がカントリーハウス(田舎の館)であったように、現代の忙しい都会暮らしのイギリス人が田舎町にウィークエンドホームを持ち、庭仕事を楽しむのも頷ける。私はコッツウオルズの村々ウを訪ね歩きながら都会暮らしにあっても心はいつも田舎に向けられているイギリス人の、住まいに対する考え方を少し理解できたように思う。

ローマ人が都市文明をつくり、イギリス人が田園文化を作ったと言われるが、正にその原風景ともいえるコッツウオルズはいつ訪れても心の安らぎと貴族のエレガンスを感じさせてくれるところである。


イギリスの鉄道
ロンドンには8つの鉄道の始発駅があってここを基点に網の目のように鉄路が張り巡らされている。

さすが鉄道発祥の地だけあって何処に出かけるのも便利でローカル線を殆ど目的地の近くまでアプローチできる。ヨーロッパ全域をまとめたトーマスクックの時刻表は日本でも入手できるが、田舎町への旅は夫々のターミナル駅で手に入るそのエリアごとの時刻表が便利である。

厄介なのは曜日によりタイムテーブルが変わり、その日によって発着のプラットホームが異なることである。ターミナル駅での旅行者は構内にある大きなデジタルボードを見上げてプラッホームのナンバーが表示されると一斉に自分の乗る列車をめざして走り出す。

改札チェックはないのだが列車に行先表示がないのはなれない旅行者には不便である。

私も違う列車に飛び乗ってとんでもない方向に向かったことがある。それに列車は日本のように正確に走っていないので特に途中駅で乗る場合は気を配る必要がある。

鉄道の料金はリーゾナブルといえる。ローカル線を走るコンパートメントは旅情を感じさせてくれる。

乗り降りは手動の開きドアである。外国からの旅行者のみの優待パス(ブリットレイルパス)は長い旅でうまく使うとかなり割安である。シニア向きの割引もあってこれを持っていると検札の時敬意を表してくれる。

現在イギリスは分割民営化され国内だけで20社の鉄道会社があり年々そのサービスの質も良くなっている。鉄道王国の異名を取るイギリスを手作りのプランで鉄道旅行をするのも楽しい。

ロンドンからのワンデイトリップの日記
「パディントン発4時50分」・・・これはアガサ クリスティの小説のタイトルであるが、物語は、大きなスーツケースを持った老婦人が改札からプラットホームを右往左往する描写から始まっている。

然し今ではロンドンを代表するこのパディントン駅は改札と反対方向からタクシーや乗用車がプラットホームまで乗り入れが出来て便利この上ない。

この日は鉄道のストライキで長距離列車は運行停止だが9時のオクスフォード行きは幸いにして定刻通りに運行すると聞いてホッとする。

オックスフォードまでは1時間程度の行程だがオープンサロン風の快適な車内で本を読んだり、ものを書いたりしているカレッジの学生が多く静かで走る書斎といった感じである。

メイドンヘッドという駅でローカル線に乗り換える。緩やかに蛇行するテムズ川に沿ってなだらかな起伏の連なる美しい田園風景が車窓を流れる。

司馬遼太郎は「車窓が切り取って行くどの瞬間もよく構成された絵画というほかない。ただ一種類
なのだが見飽きることが無いのは秩序が持つ魅力としか言いようが無い」と車窓からの風景を言い表している。

なだらかに広がる牧草地でのどかに草を食む牛や羊達の群れが途切れると、遠く霞む丘の中腹に白い領主の館(マナーハウス)や中世の美しい教会の尖塔が見え隠れし、どこを取っても車窓を額縁とした絵画の構図と思えてくる。

やがてテムズ川が車窓の左右に大きく曲がって執着のマーローに到着する。ここはイギリスに
詳しいエッセイスト・林 望の推奨する田舎町の一つである。

白とレンガ色のコントラストの美しいハイストリートをしばらく進むとテムズ川にかかるビクトリア時代調の白い吊橋がありその向こうに350年前に建てられた「コンプリート アングラー」という優雅なホテルが現れる。

橋望は友人と二人でここで「イングリッシュ トラディショナルティー」を楽しむのだが、そのメニュー
は4種類のサンドイッチ、甘くないシュークリーム、いちごのタルト、クリーム ジャムつきのスコーン、それにポットに入ったティーといったものである。イギリスでは通常アフターヌーンティーと称するものはこのようなメニューなので、小食の日本人にはかなり重い。

私達夫婦は川岸に張り出したガーデンテラスでのどかなティーだけの時間を過ごす。7月も
半ばなのに川面を渡る風は冷たくセーターが欲しいくらいである。長いつり橋の向こうに赤い屋根のマーブルチャ-チが川面に影を落としているあたりを細い挺身のボートが差簡易行き交っている。

このマーローから一日一便だけ上流の「ヘンリー オン テムズ」という町まで船便がある。ここの船の旅が今日のハイライトで夏の風物詩とも言えるのどかなクルージングである。

しばらくは岸の左右に品格のある館が見え隠れしハウスボートが繋留されている別荘地が続く。

つい眠くなるような昼下がりの深い静寂の中を船は進む。ピクニックを楽しむ老夫婦、釣り糸を垂れている少年、木陰のチェアーで本を読んでいる婦人などさまざまな風景が流れるうちに、やがて遠くに羊達の牧草地が広がるだけの単調な景色に入れ替わる。

あでやかな緑のじゅうたんに野薔薇が咲き乱れ、小鳥達の声の他に何もない静けさを突然破るように、鱒釣りに興ずる人の笑い声がして誘われるようにこちらも手を振ってしまう。
狭くなった川幅が再び広がると明るく洒落た雰囲気のヘンリーの街並みが見えてきて2時間余りの船旅は終わった。

 毎年7月上旬に「ロイアル レガッタ レース」が催されてこの期間にこの町は上流社会の社交場になるという。賑わいの去った町はまたもとの表情を取り戻していた。テムズ川沿いの散歩道を辿る道すがらふと立ち寄ったテラスバーで200年もの伝統のある地ビールで乾杯し私達の少旅行はフィナーレを迎える。

今日は流れてゆくそれこそ絵のような風景に心を奪われてスケッチをする間も無かったようである。

いつの日か、あのコンプリー トアングラーに滞在してガーデンテラスからテムズの朝もやに煙る優美な教会の佇まいを描いてみたいと思っている。

2009/11/06

芙容グループ40周年記念演奏会によせて

芙蓉グループ合唱祭の成功おめでとう。久しぶりに、本格的な合唱を楽しみました。

ハーモニーも美しく、声も良く出ていて日ごろの練習の成果が充分発揮されていた。

何処の混成合唱団もアルトに数で圧されて、特にテナーが貧弱になるが、そんなアンバランスもなく調和が取れていた。

男声は精鋭揃いで高音、低音ともに卓越した響きを聴かせてくれた。

親しみやすい世界の歌から・・・では「黒い瞳」が情感にあふれ、「箱根八里」は切れ味の良い歌声が心地よかった。

やはり圧巻はシンフォニーオーケストラつきの「土の歌」とラストの「アイーダ」よりの合唱曲。量感とダイナミズムに溢れ、時にしみじみとしたリリシズムも伝わり、激しく、美しく、万感迫り来て感動的だった。

スタンディングオベーションを送りたかったが、日本人は慎ましいというか、感動すら表現するのをたじろぐのか、誰もそうしようとしないので私もその習性に従った。そして余韻を味わった。

「土の歌」を聴きながら、昔朝日の合唱祭で歌った合唱組曲「蔵王」を思い出していた。そして勝子は美知の歳で歌ったショスタコビッチの「森の歌」を彷彿としたという。

私は、又12月の第九への情熱が燃えたぎってきたようだ。英二

2009/08/15

思い出遥かに

思い出遥かに    

                                   羽佐間 英二        


多感な少年時代を戦争体験の中で生きてきた私たちにとって、多摩中学は心のふるさととしていつも懐かしく思い出される。 当時をともに学び、ともに遊んだ学友たちと今でもクラス会、旅行、文通などを通してふれ合い、往時を偲んで語り合える連帯はあの激動の時代背景があったからとも思える。そして生まれ出て僅か4年で消えた母校への懐古集団だからかもしれない。

昭和17年4月、同じ庭に立った80名の少年たちは、60年を経た今でも45名の所在が確認され(他に物故者2009年8月15日現在20名)、しかも毎年1~2名がクラス会名簿に加わっている。この年代にしてこの補足は見事であり、きめ細かく仲間達の動静を追ってくれている柴本君によるところが大きい。

私は父の突然の転勤で友人たちとの別れを交わす間もなく、生まれ育った三池炭鉱のある大牟田を後にして慌しく上京した。昭和16年8月であつた。言葉遣い、生活環境、友人関係、教科内容など、すっかり変質し戸惑いと混乱の中で時局は開戦をむかえた。間もなく中学入試に直面し悪戦苦闘のなかで、入学できたのが、わが多摩中であった。小学校(港区白金小)の同級生だった高原君、吉川君、所君と入学式で再会し、君もか!と声を掛け合い何かホッとしたものだった。その3人とも今では鬼籍に入り寂しい限りである。

全寮制での特別教育に <多分そこには軍国少年づくりのスパルタがまっていたにせよ> 心は躍り希望に燃えてあの渋商での入学式を母同伴で迎えた日の熱い胸の高鳴りは、今でもジーンと蘇ってくるものがある。
翌5月私たちは、新設校舎の予定地である聖蹟桜ヶ丘の高台に立ち、限りない希望に胸を膨らませたものだった。それが時をまたずして幻と消える夢物語になろうとは誰もが思ってもみなかったことだろう。
それでも“欲しがりません。勝つまでは!”と思いを繋げつつ後年、渋商から上原小跡へと自前の校舎に移り住むこととなった。ボロでも我が家ともなると住み心地は悪くなかった。

昭和18年になると戦況は日増しに悪化を辿り、私たちは学業もさることながら訓練、修練により心身の鍛練に励むこととなる。
“飯食終わりて新力満ちたり、勇気前に倍しこと為すに耐えん”箱根での禊の折、食事のあとにこれを唱えるのだが、お粥に梅干では力がみなぎるどころか、身を切る水の冷たさに勇気も前に半ばする思いであった。三友君の偉大なものも、蓑虫の如くに萎えたのを覚えている。

戸澤先生にブザマとからかわれながらも、英語の授業は好きだった。
“Early to bed early to rise makes a man healthy wealthy and wise” などと暗誦するのが得意で家に帰ってはリ-ダーを読んでいた。 今思えばこんなところに動機がひそんでいて、社会に出てから海外関係の仕事に携わることになったのかもしれない。

18年の春 国語の授業で短歌を詠んだことがある。時にアッツ島の玉砕があり、これを主題に、もう一つは課外での鎌倉研究の折のものである。
“北海の寒気厳しきアッツ島2千の将士花と散らるる”
“朝まだき鎌倉山に来てみれば蝉の鳴く音のかしましきかな”
なんと即物的であることか。


私は“国の大事に殉ずるは我ら学徒の面目”…….とわきまえないではなかったが、直ちに学業を離れて軍人の道に転ずるのにいささかのためらいがあった。3年生になる頃には幼年学校や少年飛行学校に巣立って行く友人もいて、その壮たる志と凛とした勇姿は羨望の的ともなっていた。

長嶋君や坂口君が交々に私の家(駒込)にやってきて真新しい軍服姿で直立不動のまま敬礼し「では行ってまいります。」「しっかり銃後を頼みます」と挨拶するのだが、軍国の母は眩しそうに彼等を見送り、我が家は3人も男の子がいて1人もお国の役にたちそうもないと言っていた。

この年の春、二つ年下の弟は軍人志望の少年の育成に当たる牛込の成城中学に進むが、明治18年創立の伝統校で、母はやっと幼年学校への道が開けるかと喜んでいた。受験の日 木戸君と小川君がそれぞれ弟の保護者として付いて来ていて、そうだったのかとお互いにびっくりしたのを覚えている。結果3人共に合格できて喜びを分かち合ったものだ。

前年の昭和18年3月、父は病を得て早世した。食べ盛りの3人の男の子をかかえて母はたけのこ生活を始めた。翌年私たちは住み慣れた駒込の家を離れて雑司が谷の小さな家に移ったが、間もなくB29の烈しい洗礼を浴び、命からがら従兄の住む高輪の家に転がり込んだ。そのお陰で動員先の電気試験所には徒歩で通っていた。 昭和20年の2月頃だったと記憶している。

試験所で総務らしい仕事をしていた迎君が旅行証明書を作ってくれ、親戚の疎開先を訪ねるべく切符を求めに八重洲口の窓口に並んでいた時だった。いきなりの空襲警報と同時に爆弾投下があり、周りが人も物も吹っ飛ぶ中で、私は奇跡的に九死に一生を得たことがある。よくここまで生き長らえているのもあの日あの時の強運のお陰だと思っている。

20年5月の大空襲で試験所も廃墟と化し、間もなく私たちは陸軍の福生飛行場に再動員された。そこでの艦載機の機銃掃射も怖かったが連夜にわたり来襲する南京虫の波状攻撃に耐える方がもっと辛かった。

そして暑い終戦の日が来た。

私の戦後も荒廃した人々の心をとらえたあの明るい「リンゴの歌」で始まった。終戦後二ヶ月にして公開された「そよかぜ」という青春映画を幾たび観に行ったことか。当時は映画と実演の組み合わせで入れ替え制の興行が多かった。そこで休憩時間中にトイレにもぐりこみ、次の回もちゃっかり再入場という裏技もありだった。

歌の好きな保科君、金生君等と当時の日劇に出かけては、つぎつぎと新しいメロディーを覚え歌集もつくった。下の弟も加わりその輪は広がった。高橋礼三君などは、私たちを作曲家集団と勘違いしていたようだ。
進駐軍が持ってきた「ラッキーストライク」を私に無理やりに吸わせて不良を気取っていた所君はもういない。卒業後も三友君、神作君等とともに長く交流を続けた懐かしい友の一人だった。

昭和21年4月、多摩中は都立十五中との併合で僅か4年の歴史とともにその幕を閉じ都立青山中(現都立青山高)に名を変えた。私は旧制中学最後の卒業生として中学5年を終え目指す早大に進んだ。
離合集散はあっても、あの時代をともに過ごした旧友たちとの友情は今に続いている。そして命ある限りこれからもそうでありたいと願っている。

 ちなみに孫の駿之介(長女の息子)は半世紀以上を超えた今、同じ早稲田で学んでいるが、スマートで勉強が出来て、あの頃のばんからな早稲田魂の名残はさらさらない。