2012/12/27

人生色々こぼれ話(23) 〜言葉の遊び


人生色々こぼれ話(23)
言葉の遊び
日本語は乱れに乱れて、何気なく耳に入ってくる若者の会話はどこか外国にいるようなサウンドである。時折車中で礼儀正しい女子中学生に出くわすと、ちゃんとした言葉使いに接して捨てたものではないと思うが、やがて彼女たちも言語汚染されて情緒豊かで奥深い日本語から遠ざかってゆく。


長年日本に住む「外国人から見た変な日本語」というエッセイを読んだ。彼女に言わせると「結構です」という否定か肯定か分からない言い回しは“Wonderful, No problem  ,No thank you ,Quiteの四つの語彙があるという。
もともと「結構です」に否定の意味はなかったのに、否定的な「結構です」は必ず相手からの提案に対してのもの、つまり「提案」に対して「遠慮」しているから否定になるのだと言う。


私も「結構!」というと妻が「Yes or No?」と切り返してくる。「状況から判断しろ!」などというと喧嘩の糸口にすらなる。
「結構毛だらけ、猫灰だらけ」の「結構」はどのパターンなのだろう?



私が会社時代に良く使った曖昧言葉を思い出すとこれはいずれもYes,Noか分からない表現であるが、相手を傷つけない配慮を含めて今でもお役所言葉として乱用されている
「可及的速やかに」「鋭意努力します」「寝耳に水です」「粛々と進めます」「最大公約数的な意見」など典型である。最近は有名になった「近いうちに」が加わった。
「可及的速やかに」にと「近いうちに」はどちらが期間的に短いのだろう。議論するだけばかばかしい。

余談ながら以前に社長がこんな有様では会社が潰れると云い、5w(who,when,where,what,why1H(how)による報告書、意見発表を求めるようになり、言語は事実に基づくデータに限られることになった。これでM&Aでどんな社風の会社と一緒になっても統一された企業文化として定着したように思う。



「とか」「みたいな」「~的には」のような語尾不明瞭なぼかし言葉は日本語の曖昧さ加減とは種別が違うような気がするのだ。

「馬鹿じゃないみたい、ねーそうとか思わない」・・・・・結局自分が馬鹿だということ
「新宿とか行って、映画とか観て、お茶とか飲んで、電車とか乗って、家とか帰って、ゲームとかして」・・・・・寝るとかしないのか

「僕的には気持ち的には貴社とかに入れたら」・・・・・・すぐ落ちるね。


丁寧語、謙譲語の「いただきます」も乱発されていていただけない。
「このチケットを買っていただき(け)ますか。」「折角ですから買わさ(さは不要)せていただけ(き
ます」
2割引きで如何でしょうか」「今支払わせていただきます」「お釣りがないので結構です」
「ではそうさせていただきます」・・・・  結局いつ払うのか、ただなのか

「可及的速やかに検討させていただき、国民の皆様のご理解をいただき、選挙でその信をいた
きたいと思います」・・・・これではいただけないのだ(野田)。



「お」「ご」の敬語の使い分けで前出の著者は「お」は主として「お祝い」「お悔やみ」のように和語につき、「ご」はご挨拶、ご出席のように漢語につくと云う。


一応のルールだと思うが、おビール、お酒、お味噌汁、お魚、お肉、ごはんなど例外も多い。飯は「めし」であって「おめし」とは言わない。

丁寧語の「お」がつくと意味が分からなくなるものもある。「奈良漬け」→「お奈良漬け」は臭くて食べられないが、「ちんちん電車」に「お」をつけるとどんな電車なのか乗ってみたくなる。何故わざわざ「おトイレ」と云うのだろう。「おねしょ」は何故「ねしょ」ではないのだろう。寝所でするものだからかもしれない。


スーパーなどに行くとマニユアルが如何におかしいかと気付く。
「ポイントカード大丈夫ですか」・・・・まだ壊れていないが
「一回払いで大丈夫でしょうか」・・・・500円なのに大丈夫ではないと云ってみたくなる
1万円からでよろしいでしょうか?」・・・・ ダメといったらどうするのだろう
「お箸は何膳お付けしますか」・・・・  一人前の寿司なのに
「外では雨が降っていらっしゃるので雨の日ポイントをお付けします」・・・・ また雨の降っていらっしゃる日に来いということか


「大丈夫」というのは広辞林によると「堅固なさま、危なげないさま」が主意であるが、最近はそれ
でよろしいでしょうか」の曖昧な意味になり、問いかけにイエスかノーかとっさに返答に窮すること
がある。
「ご注文の方は大丈夫でしょうか?」「まあね、とりあえず」とこちらも呆けた返事になる。


「ら」抜きは完全に常態化した。見られる。食べられる。来られる。受けられる。止められる。
などすべてできるという意味合いであるが「ら」を抜くので日本語の文法的な表現が不可解となる。
わざわざTVの字幕で正しい言い回しに修正しているのは意味を取り違えるからである。


Gの優勝パレードで「ここからならAが見れますよ。向こうもこっちを見れてます。見ていますよ」・・・一体どうなっているのか。


パソコンの転換ミスは我ながら傑作に出くわすことがある。
・根気良く待った甲斐があった →婚期良く待った甲斐があった
・これからはゆっくりと休息して下さい→これからはゆっくりと急速して下さい。
・私は描く仕事が一番です→私は隠し事が一番です。
・今日も写生に行きました→今日も射精に行きました
・からすのおかげでゴミが散乱しています→カラスのおかげでゴミが産卵しています。
・珍しく今夜は空いています→珍しく今夜は相手います。
・今度の絵画はひどい→今度の怪我はひどい
・羽佐間英二→狭間英痔  (狭い間に立派な痔が・・・・)


山中教授の「ノーベル賞は過去のことです」の名句に感動した。即妙のコメントとは言えいつも未来を見据えている偉大な研究者の姿を見た。
あのデブちゃんの「・・・だぜー」が何故流行語大賞なのか、評者の感度を疑うぜー。


子供の頃母が教えてくれた一節がありそれを覚えている
「お廊下のおタバコお盆におけつまずき遊ばすなと申すにおけつまずき遊ばす。それほどおけつまづき遊ばしたければおけつまづき遊ばしたいほどおけつまづき遊ばせ」
大奥ではこんな丁寧語でわけの分からぬやり取りがあったのだろうか。
ちなみに「廊下の灰皿につまづくなと言っているのにまたつまづいた。いい加減にしろ!」と怒られている様であろう。


「でんけんこんけんこんこられんけんこられられんけんこん」子供の頃諳んじたわらべ歌の一節である。単語は「けん」「こん」「れん」だけである。「そっちに行きたいのに事情があって行けません」 全く意味不詳でパソコンのワードはアンダーラインだらけである。



7月にイギリスへ10回目の旅をした。然しこれが最後とは思いたくない。
あれが最後の旅だったと振り返るときはあるだろうが。
もう2012年も終幕を迎え、マヤの暦も塗り変えられるが、地球上の不安は残る。
私的には主宰する水彩画の「みずき会」が10周年を迎えるが大丈夫と考えている。 


                         
今年も急ぎ足で暮れる。
「いたずらに過ごす月日の多けれど 道を求むる時ぞ少なき」
正に実感である。本当に取り組むべき時間をもう一度見つめ直してみたい。


二人の弟が言葉のプロなので、私も話し言葉や、文章つくりに興味があります。共通のDNAがあるようです。二人とも日本語の乱れを嘆いています。NHKでも正しい日本語を話せるアナウンサーやキャスターがいなくなりつつあるそうです。
 もともとミステリアスな日本語は進化ではなく退化して行くのでしょうか。
 俳優、俳人、エッセイスト、の小沢昭一が亡くなりました。早稲田時代に落研を創設し大隈講堂の地下の小劇場で噺を聴かせてもらいました。言葉の達人でもありました。
少し笑いのある「言葉の遊び」という副題で今年を明るく締めくくります。)

2012/12/03

人生色々こぼれ話(22) 〜合唱の日々


人生色々こぼれ話(22)
合唱の日々
私の青春は合唱活動の日々であったともいえる。
大学の時所属していた合唱団は退屈で飽き足らなかった。


たまたま友人が誘ってくれた「ロシヤ民謡の夕べ」で演奏された美しい旋律と詩情豊かな響きは私の心を揺さぶり、この合唱団で歌ってみたいとの衝動に駆られた。
ロシヤ民謡の専門合唱団「合唱団白樺」である。



1953年(昭和2812月、大学卒業の年)に虎ノ門 共済会館で第二回の発表会が行われるのでメンバーを公募していた。私は形なりのオーディションを受けて入団した。
これが私の人生の一時期を画する大きな出来事に結びつくとは夢にも思わなかった。



体が保たないと思うほどの猛練習の日々が続いた。しかも曲によってはロシヤ語で歌うことになり、ロシヤ語の譜面を暗譜しなければならない。これが得意な人(合唱団白樺訳のロシヤ民謡が主流であった)も多く、先輩達に特訓を受けた。
私はトップテナーとして15曲をマスターしたが、その時に歌った「果てもなき広野原」とウクライナ民謡の「広きドニエプルの嵐」は今でも口ずさんでいる。
発表会は大成功であった。当初35名程度の団員は80名に増えていて合唱団は年毎に
レベルが上がっていった。


常任指揮者は声楽家の北川 剛、客員指揮として芥川 也寸志(作曲家)、井上 頼豊(チェリスト)の各氏が当たった。
ロシヤ民謡の広がりもあり、レコードの吹き込み、地方公演などの仕事が次々と舞い込んできた。


多忙を極める中、54年には有志参加により日比谷公会堂で東京フィルハーモニーの演奏で第九を歌った。500人で歌う喜びに心はときめいた。
指揮は前田 幸市郎、ソリストは柴田 喜代子(ソプラノ)川崎 静江(アルト)柴田 睦陸(テナー)伊藤 宣行(バス)の錚々たる布陣であった。



19585月の「新緑のコーラスの夕べ」というサンケイホールでの演奏会はプロの「東京混声合唱団」一時身を置いた学生コーラスの雄「早稲田大学グリークラブ」に伍して「合唱団白樺」も出演した。


創立10周年の第8回定期演奏会は文京公会堂で3日間の興行であった。当時白樺の翻訳曲は既に400曲を積み上げていた。


ショスタコビッチの難曲・オラトリオ「森の歌」(白樺共訳)にとり組んだのもその頃であった。激しく厳しい練習の日々が続いた。指揮は芥川 也寸志であった。
ソビェト時代の歌曲なので今では歌われることもないが、第一楽章の♪いくさは終わり告げ 喜びの春来ぬ たのし勝利の日よ 歌は地に満ちて 花火空を飾る・・・で始まるバス独唱の歌いだし約90小節は壮大で、美しい旋律である。
ずっと後年1981年に、芥川 也寸志に惹かれ奇しくも妻の勝子がこの大曲に取り組んでいる。


当時私は会社の帰り殆ど練習か、討論に明け暮れていた。団の運営も私の仕事となり、選挙で責任者に推される事となった。どうもその頃からグループのリーダーに納まる癖が抜けず今でも日曜画家集団「チャーチル会ヨコハマ」の幹事長役から離れられないでいる。


私は団の強化(財政的にも)のため、友人、知人を多く勧誘した。類は友を呼びその数は延べ15人程を数える。現在の妻、その妹まで一時は引き入れた。
日曜日が定期レッスン日である。声が枯れるまでしごかれた後は渋谷の「珉珉」という中華で餃子と白乾(パイカル)が定例で、そこでも合唱団の運営はもとより、主義、主張に及ぶ熱い議論を重ねた。北川先生もお酒好きで席を同じくした。


団員同士の結婚も一種の流行りとなり1955年には4組のカップルの集団結婚祝いが盛大に
行われた。私達夫婦もそれに加わった。一番の若手であった。57年前の画面が昨日のことのように浮かび上がってくる。山田、内田、都築、羽佐間の4組である。内田さん、都築さんはもういない。内田さんには個人的には親交が深かったし、都築さんは麹町の大きな薬局を経営していて皆、子供達を連れて何度も遊びに伺った。私の中学同窓の弟さんが彼の実弟だったのも奇縁である。



団友の中里礼一郎は白金小の一年上の先輩であるが無二の親友であった。学生時代に洗足のお宅に良く泊まりがけで伺っては母上のお世話になった。彼は文才にすぐれ同人雑誌などを出していた。
弁の立つ自由人で「白樺」の中でも異色の存在だった。“よい歌ならロシヤ民謡に限らずド演歌でも良いではないか”と言って憚らなかった。


彼は重子さんという美人にアプローチし早業で射止めた。周囲を憚らずお酒の席で押し倒してキスをした。公開手法である。周りは二人を美女と野獣だと囃し立てた。


慶応を出てある広告企業に就職したが、飽き足らず「ラジオ福島」というローカル放送局に転じた。私の従兄の重彰(彼とは小学校の級友)の紹介であった。


お互いに新婚時代の頃、妻の勝子と福島に訪れ「野地温泉」に一泊した。脱衣所は男女別だが入ったら、湯船は混浴で文字通り裸の付き合いとなった。
もう10年以上も会っていないが、リタイアーの後は仙台で文房具屋を営み傍ら絵を教えたりしていた。 最近消息が掴めていない。



神田 耕吉は早稲田の2年後輩であるが、先に紹介した抱腹絶倒男・西島 博文とも僚友
であった。
白樺では私と同じくテナーで活躍した。温厚で優しい人柄で周りの信頼が厚かった。
勝手気ままな中里とは対照的である。私の母もお気に入りの好青年であった。たまたま中学では演劇部で弟の羽佐間 道夫と出会っている。
私たちはスキーの仲間としても上越や蔵王によく出かけた。

父親の家業である代々木のクリーニング店の跡を継ぎ、事業を大きくしたがいつも働き通しだった。


20087月に弟の羽佐間 正雄が著書「勝者の流儀 トツプアスリートの知られざる原点」の出版記念会を開催したがここにも来てくれた。

忠臣蔵にちなんだ47人の発起人の一人に「山下洋輔」の名があった。神田がその熱烈なファンだとは知らなかったが、会場で出会えて彼は大喜びであった。洋輔とのツーショットは彼の宝物となった。


その2年後に彼は天に召された。遺影は喜びの笑顔がいっぱいだった。あの時のお気に入りのショットから編集されたものだと奥様から聞かされた。洋輔さんに逢えていて良かったと思っている。



蓜島 時雄という名物男を忘れるわけにはいかない。 199年頃私はアルバイト全盛時代であった。

街頭でのピーナッツ、ライターの石売り・スピード籤売り・ラブレター代行・ダンスパーテイの興行主・米軍将校のハウスボーイ・ハムソーセージ組合の事務局・男女ホルモン剤の横流し等などである。

忙しいので助手が欲しい。弟の正雄が格好の男がいるので会ってみないか。と云ってきた都立新宿高校の夜間部に通う脚の超短い小柄ではあるが真面目そうでユーモラスな感じの青年であった。


“何をするんですか?”“特定できない。オートバイの免許を取りなさい。その間は家に来て掃除、洗濯を頼む” “・・・・・” “嫌なら他に”“いや何でもやります”これが
出会いの面接である。それから60年ほど交流が続いている。


戸山ハイツの陋屋は学生達のアジトさながらであったが、とにかく不潔なのでこれのクリーンアップを頼んだ。ねずみの糞がバケツにいっぱい出てきた。トイレの肥えたごを汲み
これを裏の高岡さん(例の女優早紀の実家)の畑に撒く。鶏小屋の名物男・西島のものはねずみも食べないし、撒くとはっぱが枯れるとの伝説が生まれた。
収穫の秋に頂く野菜は、洗っても洗っても芳香が漂っていたように思う。



ハム・ソーセージに貼付する検査合格シールの束や包装のセロハン紙や綿糸をオートバイで運搬するのは蓜島君のメイン業務だった。彼は瞬く間にお客筋の人気者となり売上げは伸びた。私はこの仕事で一定の収入を得た。

自宅への郵送を憚り、日本橋の会社に勤務する勝子へのレターを届けてくれたのも彼であった。


学生達の討論の場にオブザーブしながら、彼は精神的にブラッシュアップされていった。
1952年のメーデー事件のあと“公安が調査にきても絶対に口を割るな!”と言った時、これはいよいよ革命前夜だと思ったそうである。


彼は低音で音量のある声をしていた。“白樺という専門合唱団があるけど入ってみないか”と誘ったのは勿論私である。凝り性の彼は練習、研鑽を重ねやがてバスのリーダーになっていた。演奏会で私とデュエットをした思い出も残る。


現在の妻明子さん(当時団員)との純愛物語も第二の美女と野獣事件かと思われたが、彼の誠意が実った形で結ばれた。明子さんの両親は家柄もあり反対されていたようであるが彼は意思を貫き通した。明子さんの自宅の周りでロシヤ民謡を歌いながら想いを告げたという。


彼に水彩画を手ほどきしたのも私だし、海外のスケッチ旅に誘い出したのも私である。
今ではセミプロ級で数々の公募展で入選、受賞を重ねている。
その努力には脱帽である。


「工学研究社」という技術系の企業教育機関を設立し成功に導いている。


私達の世代はあの貧乏学生時代の苦難を乗り越えて今日があるのだが、悲嘆に暮れたり、明日を見失うことはなかった。お互いに分かち合い、励まし合いながら時代を生き抜いて来た。


1962年に私は10年在籍した白樺を離れた。会社での仕事が忙しく心身ともに合唱団での活動との両立が難しくなったので慙愧の思いを残しつつ静かに去った。
歌った曲は300を超えたであろう。今にも破れそうな古い色あせた譜面を眺めているとその向こうにセピアの風景と群像が浮かんでくる。そして熱かった青春の自画像が。
以上

(今年はチャーチル会の20周年で多忙を極めました。もう師走となってしまいました。
1年の短さを身にしみて感じます。これまで過ごした時間の蓄積が多いほど現在の時間が
早く通り過ぎるのだそうです。一度0にリセット出来ないものでしょうか。
どうぞ良いお年を。)



2012/10/05

人生色々こぼれ話(21) 〜青春の門③


人生色々こぼれ話(21)
青春の門③
17話から横道にそれて回遊していたが、また元に戻ることとする。
16話の 「平和な日々が続いていた或る日事件は起きた」の続編を以下に綴る。



小学校、中学を通しての親友であり、或る日父とのいさかいで家出をして我が陋屋(新宿・戸山町)の同居人となった所 通夫君が前触れもなく身の回りのものを持って姿を消した。
残した書簡も見当たらない。
数日待ったが全く音沙汰がない。東中野の母上と連絡するが心当たりがないという。
一時は失踪騒ぎとなる。


時を同じくして地域の「映画サークル」の仲間であった近くに住むK子さんが行方不明であることが分かり、これで話が結びついた。世に言う駆け落ちである。
話は広がり想像の世界でストーリーが出来た。Kさんは才色を備えたマドンナ的存在で我々の間ではアンタッチャブルの黙契があった。彼女のもの静かな話し方と明るい笑顔の魅力は周りの学生や青年達の心を揺さぶり、誰もが或る種の憧憬を抱いていた。しかも独身で年上の姉さんながら可能性はある。チャーミングな女性は他にもいたが皆奥様でダンスのお相手が精一杯である。



所君はさして目立つ存在でもなく全くノーマークであった。やや頼りない孤独でニヒルな雰囲気の漂う文学青年であった。我々の間でのあだ名は「ところくん」変じて「ところてん」である。柔らかく変化自在な人柄を言い当てている。

彼は父との不仲で温かい家庭の団欒とも程遠く大学への進学すら認めてくれなかったのだ。父上はスパルタ教育で息子に都立一中(現日比谷高校)を受けさせたのだがこれは実らなかった。この辺りが亀裂の始まりとも思える。私のクラスから一中を受験したのは4人いたが、合格者はただの一人であり、落ちて当たり前なのだが父の思い入れはそれを許さなかったのだろう。


その境遇への同情、と共感(彼女も父母と別居であった)から二人の間は急接近したのだが所詮どこか他の土地で同棲の道を選択せざるを得なかったのであろう。



彼が京都でひそやかに暮らし、新日鉄の子会社に就職していることが分かったのはその3年後のことであった。 その後私たち夫婦で京都を訪ね神社仏閣を巡りながら旧交を温めたのを良く覚えている。愉しい思い出の一こまである。
然しやがて彼はK子さんと別れ東京に単身で転勤してきた。間もなく再婚し女子をもうけた。

やがて私は中学の級友たちも交え昔通りのお付き合いを取り戻した。何故K子さんと破局したのかは定かではない。お互いにそこには触れようとしなかった。
仲間との掟を破ってまで恋の逃避行を敢行した激しい情熱のその終末も劇的であった。



その後20年ほど経ちK子さんから私の自宅に会ってお話したいとの伝言(電話)があったが、何故か私はその気持ちになれず連絡を取らなかった。予感するリスクを避けたのだと思うが彼女からも二度とコンタクトはなかった。
今振り返ると遣る瀬ないものがある。



1992年・平成410月彼は61歳の若さで病を得て帰らぬ人となった。後日友人と二人で弔問し仏壇に手を合わせたが、微笑む遺影に重ねながら、往時を偲び溢れくる涙を抑えることは出来なかった。


「主人は、最後までK子さんの面影を追っていたようです」と呟くような奥様の一言が今でも耳に残っている。




16話で詳しく紹介したこれも我が家にある日やって来た珍客N君は、私たち兄弟や家内の家族の間で今でも有名人である。ここで西島 博文君と実名を明かし追記してみたい。私の娘などは子供の頃からこの名前と彼にまつわる色々なエピソードを刷り込まれ、記憶の人名録に登録されているようである。こんなに面白くもの悲しい男に未だ出会ったことはない。


ある日大学の教室の隣席に座ったことがきっかけでの親交は半世紀以上に及ぶ。超貧乏な苦学生を何とかしなければと持ち前のボランティア心を駆り立てられ、我が家に招き入れた第1期生(前述所君は第2期)である。


「君は何処から来たの」「博多から」「それは僕にも懐かしい今は何処に?」「住所不定でその日暮らしです」「今日は何処に?」「貴君のところでどうでしょうか」「・・・・・」「家はどこですか」「学校の近くの戸山ハイツだ」「一夜をお願いします」
一夜どころかそれから我が陋屋、隣の高岡さん(早紀の実家)の鶏小屋、今は妻となった勝子の実家、そしてその後転々と移り変わり住民票が繋がらないほどの遍歴となる。


「戸山ハイツ」と聞いてこれは稀有の幸運!然し来てみてびっくり!彼はビバリーヒルズのようなイメージを描いていたのに来てみれば想像を超えるあばら家で忽ち夢去りぬ」と・・・母の法事の席上での語り口で周りは哄笑の渦となる。
当時代々木に「ワシントンハイツ」市ヶ谷に「パーシングハイツ」などの米軍住宅があったが確かに「戸山ハイツ」のネーミングはかなり飛んでいたように思う。



お金が落ちていないかな・・・と早稲田通りあたりを歩いていたら丸められた紙が落ちていた。開いてみると何と本当の500円札である。狐に化かされたのではと思い、元の白紙に戻らぬうちにと紙幣を握り締めそのまま明治通りを2kmほど疾走し新宿2丁目の赤線に突撃したという信じがたい武勇伝もある。


ジャーナリスト気取りで「プラステイック往来」という訳の分からぬ業界新聞を発刊するものの定説通り3号で廃刊した。

私にならい恋文代行を真似するがいささかデリカシーに欠け成功率低くものにならず
次は替え歌つくりに転ずるも表現が下品すぎて普及しない。

ハム屋のアルバイトでは失敬したウインナソーセージがポケットからはみ出し御用となる。

南京豆売りでは、自分で食べて赤字操業。

質屋通いで質草は払底し学帽、制服まで質入れの有様。

下宿した家内勝子の実家(前島家)から布団を持ち出し、勝子にとがめられ御用。

前島家のコタツでの彼の靴下たるや、「くさや」の腐ったような臭気で周りのうら若き乙女達は気絶寸前。

巻紙風のノート(これは秀逸で私はしばしばお世話になった)は七輪の傍に置き全焼しおかげで財政学は単位がとれず。

とにかく話題に事欠かぬ地方出身の愉快な苦学生であった。



卒業後は凸版印刷に入社し、マーケティング分野の仕事をしていたが、各企業の社史つくりは他の追随を許さないほどの卓越した才能を発揮した。



私は1966年に自動車免許を取りポンコツの黒塗り「セドリック」に乗りドライブ気取りで
家族で出かけていたが、車がトラブル多発で手こずりあっさりと西島君に譲った。
彼は喜んで引き取ってくれたが、浦和から自宅の狭山の向かう途中でルンルン気分のまま電信柱に激突しそのまま乗リ捨ててしまった。
1968年に三億円事件が起きた後だったので、警察は車検証から私の名前をチェックし、呼び出し調査を受けた。 善意の過失とはいえとんだとばっちりであった。
その後彼は車に乗ることはなかった。 
                                     以上

(私の友人達には天才肌のものは見当たりません。然し人情味溢れ、「青春の門」並みの個性豊かな情熱家が多かったように思います。人の一生は波乱に満ちていて語り尽くせませんが、良き友との出会いこそが、人生の価値を左右すると思えるのです)