2012/05/06

人生色々こぼれ話(16) 〜青春の門②


人生色々こぼれ話(16)
青春の門②
激動の時代体験は続く。衣食住の窮乏の中で、画期的な幸運が舞い込んだ。住む家もなく
仮住まいで高輪、辻堂を転々とする中で、母が抽選で都営住宅(賃貸)を引き当てた。


新大久保から徒歩10分、旧陸軍の学校や演習場跡地の一角に建坪僅か9坪ではあるが新居を確保した。住所は新宿戸山町43番地である。敷地だけは100坪を越す広大なものだった。ここで私たち兄弟の新しい歴史が始まる。今思えばセピアの色あせた映像であるが次々と思い出す出来事は懐かしく、おかしい。
この1948年新築の陋屋は、私が早大に入学し、卒業、就職、結婚の1955年まで7年間お世話になった棲家であり、正に青春の門第2編の舞台でもあった。


初めは母とも日々を送っていたが、間もなく亡父の親友の紹介で、単身赴任の重役、上級管理職の住むM社の寮長を懇望されこの家を出たので、私は弟の正雄と暮らすことになる。
学校が近くて、便利この上ないロケーションであった。我が家は友人達の格好のたまり場ともなった。



出来事は次々と勃発した。
福岡から上京した超貧乏学生のN君は住むに家なく、友達の家を転々と渡り歩いていた。実に几帳面にノートが整理されていて、私は試験になると彼のノートのお世話になっていた。とぼけた味のある人柄で、それにほだされた私は我が家の一隅を彼に提供することにした。長い付き合いの始まりである。


所持品は何もなく学用品、本のほかは洗面器一つで同居人となった。質草にもならない蓄音機と数枚のレコードだけがそれらしい持ち物であった。「チゴイネルワイゼン」のかすれた音色を今でも思い出す。
不精なので毛じらみも持ち込んできた。これが私や弟に忽ち伝播し日々対応に悩まされた。水銀軟膏をその部位に塗布するだけで痛い。


或る日朝食に炒飯を作ってくれたのだが、炒めた鍋は実は洗面器であった。鼠が同居し出没するが、鼠すら彼を敬遠し近づこうとしない。


寒い日に練炭コンロで暖をとったある夜、畳を焦がしそのまま丸い空洞をつくりコンロは床下に落下していた。危うく火事になるところであった。


大型台風が来るという。母が点検と防備のためやってきた。私は出掛けていてN君が一人在宅していた。「貴方は誰なの」「貴女こそ誰ですか」「英二や正雄の母です」「ひぇー・・・」
平蜘蛛の様にひれ伏すN君に「丁度いい。あんたそこに四つんばいになって!」母は彼を踏み台にして窓に釘を打ち出した。「じゃNさんとやら、しっかりと家を頼んだわよ!」と言い残して母は風と共に去ったという。
「あの夏、私は二つの台風に見舞われました!」母の一周忌でのこのパロディは皆に受けた。


この台風で窓は大破し、屋根はところどころが吹き飛んだ。おかげで雨の日は傘をさしてのご用足しとなった。♪雨よふれふれ悩みを流すまでどうせ涙に濡れつつ・・・・・♪
などと口ずさむブルースはもの悲しかった。


時々女性客?も訪れるので、そのうちに彼が邪魔になり私は一計を案じた。
裏隣のTさんの庭に空になった鶏小屋がある。そもそもは赤提灯のおでん屋を開業したのだが、客は我々貧乏学生と近所のお付き合い位で、そのうち自分が飲みつぶれて、店も閉業となった。
その後鶏小屋に転ずるものの卵より先に鶏を食べてしまい今は空き家である。私はTさん
に話してN君の別荘に提供してもらえないかと頼んだ。二つ返事で快諾され、彼は個室に転居となった。


その日はTさん、N君、その他友達、私、弟で盛大に転居祝いをした。
然し住環境は期待していたほど快適でなく、棚(寝床)から立ち上がる度に、出る釘に頭を刺し血まみれの凸凹状態となり彼は私のあてにするノートも取らなくなった。卵を産まなくなった鶏みたいなものである。


さてこのTさんは現在活躍する個性派女優「高岡早紀」の祖父である。彼女の父は今尚この地で高岡性を名乗り住んでいる。


私は再び救済に立ち上った。当時交際していたM家のK子さん(実はこの人は今の妻です)を通じてお母さんに実情を話した。母は涙を流して気の毒だと云い、彼を下宿人として迎え入れることに躊躇いはなかった。西武線井荻にあり、早稲田までも便利であった。奥の6畳の部屋が与えられN君は生き返ったように元気になった。


数日後であった。彼は夜路で帰宅するK子さんに出くわす。用意してくれた新調の掛蒲団を担いで質屋に向かうところだった。
突然の誰何(すいか)に驚いたのであろう。
博多弁の彼は「K子さんは、えすかばい」・・・(怖いということ)と私に漏らした。


後日彼は就寝中あんかを蹴飛ばし、ぼや騒ぎを起こした。



彼はアルバイトで上落合にあるソーセージを作るT社の現場に勤めだした。なかなか真面目でよい人を紹介してもらったと感謝されたが、間もなく彼は首になった。
ウインナソーセージをズボンのポケットに詰め込んだものの、糸状に繋がったソーセージを引きずっていてあえなく現行犯である。


皆おなかが減っていた時代なので、私はその出来心にほろ苦い同情を覚えた。



さて話は変わってT君の登場である。小学校、中学と一緒の親友である。少しひ弱な感じの今で云う草食系の青年だった。(と思っていた)或る日我が御殿に飛び込んできた。父親といさかいを起こして家出をしてきたという。事情不詳のまま同居となった。然し前出のN君とは大違いで、清潔やで器用であった。汚れたものを皆きれいに洗い、棚をつり整理し、お勝手の土間の床を板張りにしてくれた。露天風トイレは雨天でも使えるようになった。窓も和紙で張り替えてくれた。快適生活である。母は時折きて家がきれいになったと喜んでいて“T君実家に戻りなさい”とは言わなかった。


地域に映画サークルが出来て、従兄S(当時早大文学部芸術学科)の紹介もあり、飯島正、新藤兼人、今井正らの有名人がきて講演会があった。近所の奥さん方もお出ましになる。
バレーボール大会がある。フォークダンスの集いもある。これも交流の場である。新興住宅が増え文化人や学者が住む町に変貌していた。戸山ハイツというネーミングも当時としては洒落た感覚であった。テーマを決めての勉強会もした。学生達と若奥さま方との自然の交流の場が生まれた。

T君も積極的にそうした場に顔を出した。

今思うと戸山ハイツでの文化行事は学校のカリキュラムの一貫のような感じだった。
友人達と企画して近くの早稲田のグランドを借りて大運動会を催したこともある。
平和な日々が続いていた或る日事件は起きた。             以上

(連休はいかがお過ごしでしたか。私はあまり遠出はせず、6月に出す二つの絵画展の制作に追われています。そろそろ時間なので第16話をお届けします。
時代は“青春のパラダイス”に入りましたが、暫くは今回のようなほろにがく、可笑しな場面が出てきます。
♪花摘みて胸に飾り歌声高く合わせ・・・・若き命嬉しきパラダイスふたりを結ぶよ♪、のようにいつも明るくはじけるような青春讃歌とは行きませんでした。
前号で書いたように激動する世相の中、あるときは権力に抵抗しながら、然し自由で、好奇心を抱いて、思い描いてやれることは何にでも挑戦していたように思います。
青春の門はまだ続きます。)