2012/10/05

人生色々こぼれ話(21) 〜青春の門③


人生色々こぼれ話(21)
青春の門③
17話から横道にそれて回遊していたが、また元に戻ることとする。
16話の 「平和な日々が続いていた或る日事件は起きた」の続編を以下に綴る。



小学校、中学を通しての親友であり、或る日父とのいさかいで家出をして我が陋屋(新宿・戸山町)の同居人となった所 通夫君が前触れもなく身の回りのものを持って姿を消した。
残した書簡も見当たらない。
数日待ったが全く音沙汰がない。東中野の母上と連絡するが心当たりがないという。
一時は失踪騒ぎとなる。


時を同じくして地域の「映画サークル」の仲間であった近くに住むK子さんが行方不明であることが分かり、これで話が結びついた。世に言う駆け落ちである。
話は広がり想像の世界でストーリーが出来た。Kさんは才色を備えたマドンナ的存在で我々の間ではアンタッチャブルの黙契があった。彼女のもの静かな話し方と明るい笑顔の魅力は周りの学生や青年達の心を揺さぶり、誰もが或る種の憧憬を抱いていた。しかも独身で年上の姉さんながら可能性はある。チャーミングな女性は他にもいたが皆奥様でダンスのお相手が精一杯である。



所君はさして目立つ存在でもなく全くノーマークであった。やや頼りない孤独でニヒルな雰囲気の漂う文学青年であった。我々の間でのあだ名は「ところくん」変じて「ところてん」である。柔らかく変化自在な人柄を言い当てている。

彼は父との不仲で温かい家庭の団欒とも程遠く大学への進学すら認めてくれなかったのだ。父上はスパルタ教育で息子に都立一中(現日比谷高校)を受けさせたのだがこれは実らなかった。この辺りが亀裂の始まりとも思える。私のクラスから一中を受験したのは4人いたが、合格者はただの一人であり、落ちて当たり前なのだが父の思い入れはそれを許さなかったのだろう。


その境遇への同情、と共感(彼女も父母と別居であった)から二人の間は急接近したのだが所詮どこか他の土地で同棲の道を選択せざるを得なかったのであろう。



彼が京都でひそやかに暮らし、新日鉄の子会社に就職していることが分かったのはその3年後のことであった。 その後私たち夫婦で京都を訪ね神社仏閣を巡りながら旧交を温めたのを良く覚えている。愉しい思い出の一こまである。
然しやがて彼はK子さんと別れ東京に単身で転勤してきた。間もなく再婚し女子をもうけた。

やがて私は中学の級友たちも交え昔通りのお付き合いを取り戻した。何故K子さんと破局したのかは定かではない。お互いにそこには触れようとしなかった。
仲間との掟を破ってまで恋の逃避行を敢行した激しい情熱のその終末も劇的であった。



その後20年ほど経ちK子さんから私の自宅に会ってお話したいとの伝言(電話)があったが、何故か私はその気持ちになれず連絡を取らなかった。予感するリスクを避けたのだと思うが彼女からも二度とコンタクトはなかった。
今振り返ると遣る瀬ないものがある。



1992年・平成410月彼は61歳の若さで病を得て帰らぬ人となった。後日友人と二人で弔問し仏壇に手を合わせたが、微笑む遺影に重ねながら、往時を偲び溢れくる涙を抑えることは出来なかった。


「主人は、最後までK子さんの面影を追っていたようです」と呟くような奥様の一言が今でも耳に残っている。




16話で詳しく紹介したこれも我が家にある日やって来た珍客N君は、私たち兄弟や家内の家族の間で今でも有名人である。ここで西島 博文君と実名を明かし追記してみたい。私の娘などは子供の頃からこの名前と彼にまつわる色々なエピソードを刷り込まれ、記憶の人名録に登録されているようである。こんなに面白くもの悲しい男に未だ出会ったことはない。


ある日大学の教室の隣席に座ったことがきっかけでの親交は半世紀以上に及ぶ。超貧乏な苦学生を何とかしなければと持ち前のボランティア心を駆り立てられ、我が家に招き入れた第1期生(前述所君は第2期)である。


「君は何処から来たの」「博多から」「それは僕にも懐かしい今は何処に?」「住所不定でその日暮らしです」「今日は何処に?」「貴君のところでどうでしょうか」「・・・・・」「家はどこですか」「学校の近くの戸山ハイツだ」「一夜をお願いします」
一夜どころかそれから我が陋屋、隣の高岡さん(早紀の実家)の鶏小屋、今は妻となった勝子の実家、そしてその後転々と移り変わり住民票が繋がらないほどの遍歴となる。


「戸山ハイツ」と聞いてこれは稀有の幸運!然し来てみてびっくり!彼はビバリーヒルズのようなイメージを描いていたのに来てみれば想像を超えるあばら家で忽ち夢去りぬ」と・・・母の法事の席上での語り口で周りは哄笑の渦となる。
当時代々木に「ワシントンハイツ」市ヶ谷に「パーシングハイツ」などの米軍住宅があったが確かに「戸山ハイツ」のネーミングはかなり飛んでいたように思う。



お金が落ちていないかな・・・と早稲田通りあたりを歩いていたら丸められた紙が落ちていた。開いてみると何と本当の500円札である。狐に化かされたのではと思い、元の白紙に戻らぬうちにと紙幣を握り締めそのまま明治通りを2kmほど疾走し新宿2丁目の赤線に突撃したという信じがたい武勇伝もある。


ジャーナリスト気取りで「プラステイック往来」という訳の分からぬ業界新聞を発刊するものの定説通り3号で廃刊した。

私にならい恋文代行を真似するがいささかデリカシーに欠け成功率低くものにならず
次は替え歌つくりに転ずるも表現が下品すぎて普及しない。

ハム屋のアルバイトでは失敬したウインナソーセージがポケットからはみ出し御用となる。

南京豆売りでは、自分で食べて赤字操業。

質屋通いで質草は払底し学帽、制服まで質入れの有様。

下宿した家内勝子の実家(前島家)から布団を持ち出し、勝子にとがめられ御用。

前島家のコタツでの彼の靴下たるや、「くさや」の腐ったような臭気で周りのうら若き乙女達は気絶寸前。

巻紙風のノート(これは秀逸で私はしばしばお世話になった)は七輪の傍に置き全焼しおかげで財政学は単位がとれず。

とにかく話題に事欠かぬ地方出身の愉快な苦学生であった。



卒業後は凸版印刷に入社し、マーケティング分野の仕事をしていたが、各企業の社史つくりは他の追随を許さないほどの卓越した才能を発揮した。



私は1966年に自動車免許を取りポンコツの黒塗り「セドリック」に乗りドライブ気取りで
家族で出かけていたが、車がトラブル多発で手こずりあっさりと西島君に譲った。
彼は喜んで引き取ってくれたが、浦和から自宅の狭山の向かう途中でルンルン気分のまま電信柱に激突しそのまま乗リ捨ててしまった。
1968年に三億円事件が起きた後だったので、警察は車検証から私の名前をチェックし、呼び出し調査を受けた。 善意の過失とはいえとんだとばっちりであった。
その後彼は車に乗ることはなかった。 
                                     以上

(私の友人達には天才肌のものは見当たりません。然し人情味溢れ、「青春の門」並みの個性豊かな情熱家が多かったように思います。人の一生は波乱に満ちていて語り尽くせませんが、良き友との出会いこそが、人生の価値を左右すると思えるのです)