2013/06/06

人生色々こぼれ話(28)  ~絵の迷い道④


人生色々こぼれ話(28)
 絵の迷い道④

旅スケッチの楽しみは、自然の中に身を置いて、雰囲気や空気を感じながら自分のセンスで風景をデザインする自由さ加減にあると思う。
日常のマンネリリズムからの解放感は心をリフレッシュし新しい可能性を引き出してくれる。


私はありのままを忠実に再現しようとする作画には共感を覚えない。向かい合っているひとつの完成された写実のシーンをどれだけ自分流にアレンジしデフォルメできるかの試みが楽しいのだと思う。写真とは違う絵の写実の面白さがそこにあるのだと思っている。



寸法のバランスがくずれると様にならない人物画デッサンと異なる自由な創造性こそが風景画の趣である。
然し、名画といわれる巨匠達の作品の70%は人物画である。風景画ではないのだ。そして絵の難易度から云えば圧倒的に人物画は難しい。私もその部類に違いないが、風景画の達人の人物画が同一作者ではないのではと思える事例は数限りない。
絵の基本は人物画であることは認めざるを得ない。何枚かのクロッキーでほぼ感覚をつかみ、デッサンに向かうと何故か改まってしまい、緊張感が走りスムースで柔らかな線を描けないのだ。何度も修正しながら傾きや、プロポーションを創ってゆく過程はアトリエでの制作そのものである。写生と制作の違いである。私は勉強のつもりで作品にならない人物画を月に一度だけ描いている。



ペン彩画は現場を線で再現しようとするあまり省略や誇張を好まない。ペン彩グループの人たちに出会うと、「そのように在るものを外したり、ないものを入れたりして良いのですか?」と疑問を投げかけられることがある。「そこにある景色は参考であり、ヒントです。自分のイメージで描くのが風景水彩画の楽しさだと思っています」と答えると「へー?私たちはありのままを描けと教わっています」と返ってくる。


マリリン・シマンドル(アメリカの女流水彩画家)は「何時間も探し歩いて完全な風景を求めてもそんなスポートに巡り合えるはずがない。疲れるし、無駄な時間が過ぎるだけ。一見とても絵になりそうもない皆が見過ごしてしまうようなところが最適なのだ」と示唆している。「何を外しどんな風景に創り変えるか。何枚かの小さなエスキース(下絵)を鉛筆描きして自分の構想、デザインを創ることから始めよう」と説く。



この、絵になりそうもないところを絵に創ると良いという発想を得て私自身自分の絵に対するスタンスが変わったし、画風にも少し変化が出てきたように思える。
絵葉書のような絵が面白くないというのは美しいけど整いすぎているし、あれもこれも取り込まれていて、なにがテーマなのだか分からないからであろう。


名画を観ていると画家は何を感じ取って何を描こうとしているのか。ある場合は動く心の様までが絵を通して映し出されている、と感じ取れることがある。
抽象画はexpressive(自己表現)だと思っているのであまり理解の必要はないが、例えば印象派の名匠達の名画は文字通りimpressive(印象的)で観る人に共感を与え、そこに誘ってくれるような衝動を覚えるのである。


あまり細かく説明すると絵はつまらなくなると云われる。観る人が感じとれる自由度を残しておけばその作品を共有しメッセージが伝わりやすいからであろう。


私たちアマチュアは時間の許す限り描く手を休めないで夢中に塗り込んでしまう傾向がある。少し離れ自分の絵を観たり、出来れば周辺の人の絵を観て歩くだけで、息抜きになるし気がつかなかったヒントを掴めると思う。描き足らない位のほうが反って良い出来栄えであることが多い。



私は展覧会の前になると、完成した(実は未完成なのだが)絵を展覧会用の額に収めて一週間ほど壁にかけて眺めることにしている。こうすると立場が客観的になりこれまで見えてなかったものが、見えてくる。これを小修正して再度額装するとまた別の問題が表れてくる。これを何度か繰り返してサインを入れ出展スタンバイとなる。このプロセスを予め
考えて余裕のある制作スケジュールを立てることが必要である。



この6月は3つの旅スケッチを重ねた。CCヨコハマの一泊写生会は上越六日町で八海山を描きに出掛け、二日置いてみずき会で二泊写生会の同じく上越湯沢高原に谷川連峰を、そしてまた二日置いてのラストシリーズはいつもの蔵王へと新緑を追っての忙しい行程であった。
大自然を求めての三つの旅はいずれも天候に恵まれ快適なスケッチツアーとなった。
ややハードなスケジュールの中で勝子もすべて同行できたのは一つの記録とも云える。
上越湯沢の「シェラリゾート湯沢」というホテルは、パノラミックな雄大な眺望が見事で、ホテルも過ごしやすくお勧めのスポットである。


東京→越後湯沢1時間30分の便利さであるが、学生時代に定員オーバーの夜行列車の通路や網棚に寝て5時間ほどかかってスキーに通った往年の難行苦行とは比すべくもない。
0年ぶりに訪れた青春のメッカ上越は快適で贅沢な時を提供してくれた。



自称英国病の私はラストジャーニイとも云えるイギリス行きのプランつくりに入った。妻をはじめ周囲はいささか呆れ顔のようであるが当人はそろそろピリオドと思いつつ本気である。この英国病が治まった時は、私自身が病気になったとの証左かもしれない。つまり英国病に取り付かれている限り、私は尚健康で絵を描く意欲を留めていることになる。


この自己正当こそが実は私の情熱と意欲の根源であると思っている。「あなたはその年で何故そんなにエネルギッシュに動き回れるのか?」最近頻度を増しているQである。
その答えはいつも「自然の中で自由に好きな絵を描いているからでしょう」となる。そしてこの10年間「みずき会」で水彩画教室を続けているのもかけがえのない自己啓発につながっていると思っている。


ところで、稀代の画家たちは長寿の方が多いのも事実である。作家は短命、画家は長命と云われるが調べてみるとその通りである。
小倉遊亀は105歳までも描いていた。片岡球子は103歳。横山大観は90歳、梅原龍三郎98歳、中川一政98歳、熊谷守一97歳と枚挙に暇がない。
世界の巨匠も負けてはいない。ピカソ92歳、シャガール90歳、ミロ90歳、ダリ86歳、モネ86歳、マチス85歳などなどである。


作家は芥川龍之介35歳、太宰治39歳、三島由紀夫45歳、有島武郎45歳のごとく虚無主義で自らの命を絶つ者が少なくない。
画家は概してストレスがなく、免疫体質が備わっていて自己治癒力が高いのではないだろうか。そして昼間に制作し夜は寝ているはずである。
作家は夜中でも書き綴り、悩み多く酒をあおる。書いているうちに私小説は破綻する。


私は学生時代に太宰文学に陶酔し小説家になろうと出来心を抱いたことがあった。小説はいくつか書いたがあまり面白くなくお金にならないので、ラブレター代行業に転じた話は以前の投稿の通りである。三文作家にならなくて良かったと思っている。仮になっていたら今は生存していないはずである。
そして絵は大好きであったが、絵描きになろうと思ったことがなかったのも幸いした。



世界の旅をしていてその都市や町在る美術館に立ち寄り著名な作品をゆったりと鑑賞できる贅沢は何ものにも変えがたい。心に響く名画を立ち止まって鑑賞できるのは海外の美術館だけである。
日本ではモネの「睡蓮」の一作、フェルメールの「真珠の耳飾りの少女」ゴッホの「ひまわり」などが特別展で展示されると、長蛇のごとく並びわずか10秒ほどの出会いの時に胸を焦がすことになる。
原則として海を渡ってくる名画展には行かないが、外国ではわずかな時間を割いてでも美術館に立ち寄ることにしている。



話題は転じてニューヨーク、ロンドンでは本場のミュージカルが手軽に楽しめるが、ある年にブロードウエイで三晩続けて(three nights in a row)ミュージカル通いをしたことがある。長女曰く、これにはさすがのニューヨーカー達も脱帽となるらしい。
もう遠いメモリーになりつつあるが、劇場の帰り道にこれも三晩続けて立ち寄ったショットバーでの“マンハッタン”の味わいと香りは忘れがたい。
“マンハッタン”の発音を教えてくれたバーテンダーのナイス スマイルは今いずこ。


「絵の迷い道」はこれからも私の人生とともに辿る、行きて尽きせぬ道ですが、後戻りをすることは考えていません。
以上

(旅が重なり投稿が遅れました。611日からCCの絵画展が始まります。JR東神奈川  駅直結のかなっくホール16日まで開催しています。
 幹事長としては最後の勤めとなるでしょう。
 会のホームページも大幅に更新しましたのでご覧ください。 チャーチル会ヨコハマ で検索 して下さい。)