2012/01/30

人生色々こぼれ話(13) ジャズ、シネマ、ラッキー・ストライク

人生色々こぼれ話(13)
ジャズ、シネマ、ラッキー・ストライク

ある雑誌に投稿した一文(1997年)がある。前編と重なる部分があるが、いわば青春のプレイバックとしてその一節を復刻してみる。

『荒れ果てた東京にアメリカはガムやコーラと共にエキサイティングな文化を次々と持ち込んできた。私はラッキー・ストライクにむせ返り、ハリウッド女優のポートレート集めにうつつを抜かしていた。

洋画のカルチャーショツクは強烈であった。何しろそれまでの軍国の教条主義映画から一気に夢のミュージカル、スペクタクル、ロマンスが外国語と共にスクリーンから飛び込んでくるのだから、気を鎮めてというほうが無理である。大学に進んでからは、新宿の映画館をはしごで観て回り、酎ハイで評論に花を咲かせた。

今再び Shall we dance  なのだそうだが、私も当時はスタンダード・ジャズの生バンドでトロットやジルバーのステップに大いに興じた。それに飽き足らず会場とバンドを確保しダンスパーテイーを企画した。

サークルでのクロッキーが現在の風景水彩画に。黒人霊歌やロシヤ民謡のコーラスがカラオケに、山スキーの上り下りが渓流釣りに、そしてアメリカ人の家庭でのアルバイトが海外への旅マニアへと、あの頃の新鮮な体験や動機付けが現在の趣味に繋がっているように思える。

「青春とは年齢ではなく心の持ち方である」といった先人がいるが若者だけに与えられる奔放な特権をもう取り戻すことは出来ないのだから、せめて新しいことに興味を持ち何かに熱中することで心の青春を保ちたいものである。


さて当時の原資はアルバイトに尽きる。大学に進んでからは街頭でのピーナッツ売り、ライターの石の交換、スピード籤売りなど手当たり次第に試みた。

スピード籤はその場で三角形の籤を開くとタバコ等の当たりが分かるのだが、出来の粗末な籤が混入していて、糊の剥れた隙間から覗くとチラッと印が判別できる。いんちき極まりないがこれで賞品ゲットとなる。

高温・粉塵の中、新子安あたりにあった鋳物工場の肉体労働はさすがにきつかった。

弟は築地で火の用心!!の夜回りをしていたが、居眠りの間に出火となり、直ぐ首になった。

彼は米軍基地の浴場の三助もやるが黒人の巨大なものを洗わされて自ら辞めた。

1948年頃始めたラブレター書きます!の代書屋は繁盛した、当時のコミュニケーションの手段は手紙が普通である。シュチエーションを聴き取り、相手の心に囁き、時に揺るがすような名文(原稿用紙3~4枚)を書き綴り、当人はそれを自筆しラブレターとなる。 成功率80%を誇る出来栄えであった。おかげさまでのサンクスレターも来た。

平均1通200円の報酬だがハガキ50銭の時代なので今の価値にすれば2万円相当の破格のものであった。お客を捕まえてくるいわばポン引き(失礼)には20円の手数料を払う仕組みである。昼食2回分くらいである。

自分は現実にはもてないのに、美文家の友人がいたが、それぞれ手の内は見せなかった。ヒントやボキャブラリーは大学ノートいっぱいになった。 今も文章つくりは嫌いではないが、その素養はラブレター書きに発するのではとも思える。

1950年頃渋谷に「恋文横丁」というのがあって“英語の恋文引き受けます”の代書屋が並んでいた。本国に帰った米兵に、日本の女性からの手紙を代行して書く仕事である。追いかけていって結婚した女性も少なくないし、残された子供を一人で育てた実話も尽きない。後に丹羽文雄が「恋文」という小説を書いたそのバックグランドである。田中絹代主演の映画にもなった。 時代を反映した何処となく哀愁の漂う世相を感じる。後に出た森村誠一の「人間の証明」にどこか通じるものが読み取れる。

それにしても恋文代行業のはしりは、私&仲間達であったのではと思えてくる。

話は再び終戦直後に戻るが、暗く貧しい呆然自失の戦後に希望の歌声が沸きあがりラジオに合わせて人々が口ずさんだのが“赤いリンゴに唇よせて・・・“で始まる「リンゴの唄」だった。終戦の年の10月に早くも封切られた映画「そよかぜ」の挿入歌であった。明るい曲調と飾り気のない爽やかな歌詞は日本中を文字通りそよ風のように吹き抜けていった。

翌年有楽町の日劇に当の歌手並木路子がきた。映画『そよかぜ』と実演に夢中になり何度も通った。入れ替え制であったが、トイレに隠れ次の回もすんなりと客席に戻った。この手立ては常用し、友人、弟たちと日劇に出かけていっては、いち早く新曲を覚えて仲間に広げた。手つくりの歌集も作った。好きな灰田勝彦の歌は完璧にマスターした。今となると何となく歌声喫茶のはしりであったような気がする。

日劇の舞台に必ず登場するダンシングチーム(NDT)の華やかなラインダンスを観るのも楽しみであった。谷桃子、松山樹子、根岸明美、北原三枝等が所属していた。


戦後の日本ジャズ界を代表するミュージシャン渡辺弘が率いる「スターダスターズ」やハワイアンバンドの「灰田晴彦とニューモアナ」の演奏会には好んで出かけた。



私は当時旧制中学5年(現都立青山高校)である。神宮球場の向かいに学校が位置していて憧れの早慶戦ともなると気もそぞろで、友人達と午後の授業は放棄し観戦に出かけた。戦後の自由主義のお陰か、こんなエスケープも大目に見てくれ学校から特にお咎めもなかった。自らも何か運動をということで、終戦で学校に帰ると直ぐに好きなバレーボール部に入り、放課後は遅くまで練習を重ねた。そのお陰で急に身長が伸び筋肉質の体になった。

当時私達家族は母の知人の家を間借りして辻堂に住んでいた。鈴なりの満員列車での通学は死のもの狂いの様相であった。バレーボールの練習の後、空腹の長距離帰宅は辛かった。

弟は或る日デッキからはみ出し、鉄橋に足を掬われあわや振り落とされるところであったが手すりにぶら下がり藤沢駅のホームに滑り込んで一命を取り留めた。野球部で鍛えていた腕力のお陰である。重傷で、市内の外科に担ぎ込まれたが、マーキロとメンソレターム程度の薬しかなく、
膿が広がり、入院を余儀なくされた。今でも彼の足の甲には名誉の傷あとが残っている。
以上

(戦後を行ったり来たりの話しになりましたが、連想的に場面が出てくるのでそこはお許し下さい。このこぼれ話を綴る日は殆ど何の構想もなくパソコンの前に座ります。やがて20分から30分位瞑想していると、頭の中にランダムにテーマや映像が出てきます。最初の書き出しが難しいですが後はだんだん調子が出てきて饒舌になります。時系列に整理された順序ではないので、テンス(時制)がでたらめなのですが、こぼれ話だからいいや!と自分で妥協しています。
今回もそんなことで回想したものですが、読み返してみるとやはりモノクロの世界だなと思います。)