2012/01/06

人生色々こぼれ話(12) ~進駐軍がやってきた

人生色々こぼれ話(12)
進駐軍がやってきた

1945年(昭和20年)8月、日本はポツダム宣言により連合国に軍事占領されることとなった。主として米軍による占領組織として進駐軍と呼ばれるおびただしい数の軍隊がやってきた。 連合国最高司令部総司令官(GHQ)の指示命令を受けて日本政府が日本の政治機構をそのままに利用し占領政策を実施するのである。

昨日まで鬼畜米英として♪いざ来いニミッツ、マッカーサー出て来りゃ地獄へ逆落とし♪などと敵愾心丸出しで名指ししていたその本人が総司令官としてパイプを加えて厚木基地に降り立ったのは8月30日であった。
日本人の命運はこの日から彼の統率に委ねられることとなった。
国敗れてマッカーサーありの歴史的な転換であった。

街のあちこちに「マッカーサーの命令により立ち入りを禁ず」との立札すら目立った。彼が引き連れてきた軍隊は「米軍騎兵第1師団」であるがレイテ島、ルソン島、マニラと歴戦を重ねたいわば筋金入りの精鋭部隊であった。

これが日本軍の野暮ったい出で立ちと違い、背が高くて格好が良い。洒落たデザインのキャップを斜めにかぶり、粋なジャンパーには騎兵の腕章を輝かせて我がもの顔で町なかを闊歩する。4駆のジープに乗り疾走する。
チョコレートやチュウインガムをばら撒く。子供は群がり、大人はしけもく(タバコの吸殻)拾いに夢中である。「ギミーチョコレッツ」子供達が発するこの言葉が、英会話第一声だったのではと思う。

「日米会話手帳」なるぺらぺらのパクリ本(9cm×12cm・32ページ)が終戦の翌月に世に出て忽ちベストセラーになった。表紙に「Anglo・japanese Conversatoin Manual」とあるのは笑ってしまう。
その後、同種の本は雨後の竹の子のように出版されるのだが、この会話手帳の発案者は
敗戦のその日にひらめいて即実行という早業で驚くばかり。

皆が等しく悲嘆と鎮魂の淵に沈んでいる時に、頭を切り替え商魂たくましくばね仕掛けで動き出し、3日で初稿を完成したという。初版の定価は八十銭、闇値も付き年内に360万部を発行したと伝えられているがそのうち紙くずとなり現存しているものは何処にもないという。
実は当時私も連られて入手したものの、中身のお粗末さ加減に呆れてその場限りで以降読んだこともない。これも先見のなさで、もし持っていたらどんなお宝になっていたやら。

明くる1946年2月にはNHKラジオを平川唯一という人の「英会話教室」が放送開始となった。毎週月~金の午後6時から15分の番組であった。
テーマソングは今でも覚えている。

♪Come come everybody How do you do and how are you?
W’ont you have some candy One and two and three four five
Let’s all sing a happy song Sing tra-la la la la♪

これがあの「証城寺の狸囃子」のメロディに乗せてテーマソングとして軽快に流れてくるので、自然に引き込まれてしまう感じである。

ついでに英語の話であるが、翌年私は旺文社の赤尾好夫編「英語基本単語集」と「英語の総合的研究」を超猛勉して早稲田に入った。これは受験用の名著であった。
寝ても醒めても愛読書のように手放さなかった。

当時豆単といって多くの学生が愛用していたものだが、豆単は2冊目を今でも保存している。青春の名残を覚える懐かしい蔵書である。

進学して比較的割の良い進駐軍のハウスでのアルバイト(当時のはやりことば)もこなした。
国際軍事裁判所(市ケ谷)の住宅のベルボーイにはじまり、ワシントンハイツ(代々木)のハウスボーイなどである。ワシントンハイツでは、メイドさんが休んだので奥さんが私に女性の下着を洗濯させた。私は契約違反と怒って即座に辞めた。奥さんは驚いて我が家を訪問し詫びたが母が応対しあくまで辞退した。軍国の母は強かった。

弟の正雄が米兵をぶん殴りMP(米軍の警察)に御用となり、留置場に連行された事件があったが、これも母が交渉に行き無事連れ戻した。 粋なジャンパーのアメリカ兵がずたずたになった小気味良い話である。然し前科となった弟は二度と米兵といさかいを起こしたことはない。

進駐軍の駐屯基地のある芝浦方面に出かけるのはちょっと勇気が要った。品川から真っ暗い長いトンネルを抜けるのだが米兵の黒い塊と時折すれ違う。顔も黒いから目玉だけが光る。壁際に身を寄せてやり過ごすしかない。大声で汚い言葉を吐きながら通り過ぎる。
屈辱感が身に溢れ出た。

1947年頃だと思う、接収された新橋の第1ホテルで進駐軍のダンスパーテイに侍る機会が何度かあった。
演奏する「ブルーコーツ」という楽団のトランペッターのHさん(母の知人)がバンドボーイとして私と弟を招き入れてくれた。

流れる甘いジャズの音色に心が融けるほど酔いしれた。こんな美味しい飲み物があるのか
とコカコーラをげっぷがでるほどに頂いた。
当時のジャズは歌詞も単純でわかり易く、心に響いた。

このとき、ひらめいたのは、自分で確保したホールにジャズバンドを呼んできて、ダンスパーテイを企画することだった。
翌年友人達と相談し手分けして事に当たった。場所の確保、スイング、タンゴ、ハワイアンなどのバンドと歌手を探しての契約、チケットを作る、売りさばく、当日を運営するなど一通りの興行のお膳立が必要だった。契約の前金はN君が何処からか工面してきた。私は主としてチケットの販売に当たった。早稲田の学生という立場が身分証明となり、女子大のキャンパスに通うと忽ち売れた。

戦後の混乱もやや落ちついた頃社交ダンスは流行の兆しにあった。何度企画してもチケットは完売である。勿論税務所には届けて自ら納税済みの捺印をするのだが、枚数は自己申告だった。

そのうち、自分自身がダンスにはまり、本格的に教習所通いが始まった。
「タキシード ジャンクション」「ビギン ザ ビギン」「スターダスト」「ペイパームーン」
「スローボート ツー チャイナ」・・・など懐かしのレパートリーは100を超えるであろう。 

戦後のジャズブームも、進駐軍と共にやってきたように思う。
                                  以上


(皆さんお正月気分は如何ですか。私は友人達8名で日本橋界隈の七福神巡りをしてきました。もっと良い絵がたくさん描けるようにと神頼みもしました。

こぼれ話を再開します。進駐軍は良くも悪くも戦後の象徴の一つでした。こんな馬鹿でかい奴とよくも戦争をしていたものだと思いました。
家の女中さん(前回紹介したCHYOBUSUさん)が町で花束を抱えていたら 気の毒な花売りおばさんと間違えられてGIに How much? と問いかけられる。
彼女はTAMACHIと聞いて 親切心で身振り手振りで田町駅方面を指差す。米兵はきょとん顔  ????
今でも我が家に伝わる微笑ましいエピソードです)