人生色々こぼれ話(25)
絵の迷い道①
この2月の総会で私は所属するチャ-チル会ヨコハマの幹事長(チャーチル会では会長ではなく幹事長と呼称する)をまた1年続投することになった。
もう4年目である。ここは運営の幹事を離れてじっくりと絵を描きたいというひそかな願望はあえなくも潰えてしまった。
私がチャーチル会に入会したのは2002年である。弟の道夫の紹介であるがそのいきさつが面白い。当時通関、海外輸送関係の仕事をしていた後澤さん(現会員)が道夫の娘婿の海外転勤の仕事で訪れた折のことである。
TVで聞き慣れた道夫の声が後ろから聞こえ「貴方様はもしや羽佐間道夫さんでは?」となった。
「はい、そうですが・・・」
「私は貴方の声をテレビで聴いています」の出会いから始まり、飾ってあった中川一政の絵画数点に目を留めた後澤さんがすかさず「絵がご趣味でしょうか」と問う。
「いえ鑑賞は好きですが自分は描きません。兄は水彩を描いています」
「それではお兄さんを是非私の入っているチャーチル会へお誘いできないでしょうか」
「分かりました。伝えておきます」
これが私のチャーチル会入会のきっかけである。
チャーチル会は入会時にゲスト会員という名の半年ほどの見習い期間がある。そして入会
時には2名の保証人が必要となる。その一人が後澤さんであることは言うまでもない。
彼とは今でも親交が深い。
チャーチル会が発足したのは1949年(昭和24年)である。当時銀座の焼け跡にあった
「蟻屋」という喫茶店に各界で活躍中の多彩な人々が集まり、賑やかに談笑していた。
或る日「おい、絵でも描くか、油絵というやつを」という声が起こり「チャ-チル会」という名前をつけ(杉浦幸雄命名と伝えられている)日曜画家の集団が誕生した。
創立会員は石川滋彦、宇野重吉、高峰秀子、長門美保、藤浦洸。森雅之、横山隆一、杉浦
幸雄の諸氏となっている。これに梅原龍三郎、安井曽太郎など画伯が加わり、早田雄二カメラスタジオで裸婦のデッサン会が始まった。映画、演劇、文壇、画壇をメインに我も我もと輪が広がり戦後のにわか文化の象徴の様であった。毎週土曜日の午後、早田スタジオは大入りの盛況であったという。
アマチュア ペインターズのクラブにチャーチルの名前を冠することにチャーチル卿自身が「余はアマチユアにあらず」とすぐには承諾しなかったという。林謙一、石川欣一両氏の重ねての努力で数年後に英本国から外務省を通じて認知の知らせがあったといわれる。
皆欣喜雀躍したという。
東京を長姉とし現在全国に姉妹会の数は50に達するが、1950年に発足したNO,2のチャーチル会が大都市ではなく、人口8万の山口県防府市であったのも面白い。そしてそこは
弟正雄のNHK入局の最初の赴任地であったことも何かの縁を感じるのだ。正雄はチャーチル会の人たちともお付き合いがあり、今でも私はCC防府の方々との交流を続けている。
当時防府放送局の西内部長はチャーチル会とも付き合いが深く、自宅に人を招くのが好きで酒宴が絶えなかったという。
或るとき正雄もお呼ばれしたのだが、西内さんのお嬢さんのお気に入りのミルク飲み人形にお酒をしたたか飲ませて泣かせてしまい、母上はあわてて正雄にお酢のお燗を出したという逸話が残っている。(西内さんのお嬢さんから聞いた実話)
『気晴らしに絵ほどいいものはない。まだやったことがなければ是非一度試してご覧。私を嘲笑する前に。そしてしくじったところで大した損害でもなかろう。絵を描き出せば上手も下手もない。第一頭の中に何事もなくなる。やってご覧是非一度 死なないうちに』
チャーチルのユーモラスな名言である。
こんなチャーチルの台詞を取り入れてチャーチル会には絵に対しての上手い、下手の評価基準はない。気分良く楽しく描けていれば、それに勝るものなしとしている。
全国のチャーチル会に共通する基本ルールがあるがユニークなのでその一部を紹介する。
・ 分派行動をしてはいけない(誰とでも仲良く交流せよ)
・ 会内既婚者の恋愛を禁ずる(仲良くしても良いが不倫はダメ)
・ 会員相集まった時の会計は割り勘とする(年中あるので便利なルール)
・ 自分の利益のため会を利用してはいけない(政治的な意味で、ありうるか?)
・ 会員は会の体面を重んじ友情に厚いこと(相手の気持ちを尊重せよ)
など先人達の体験と知恵が詰まった戒めである。60年以上も続いているので憲法並みに価値がある。
創設の頃高峰秀子は人気女優の故に週刊誌、グラフ雑誌、映画雑誌に追い回され会員の皆さんに迷惑をかけるのが辛く、二年足らずで泣く泣く退会してしまったという。
仕事を離れて利害なしで屈託なく愉しんでいた絵を描く場を失った彼女の心境は察するに
余りある。彼女が世に残した絵は少ない。宮田重雄が「現ナマに手を出せ」とメモした当時5万円入りの小箱を彼女の結婚式(1955年3月26日の筈・・・・なぜならその日は
私たちの結婚式でもあったので)にお祝いとしてくれた話は彼女の自著に記されている。
藤山愛一郎が絹のハンカチと言われながらも、絵にならない絵をチャーチル会で20年以上も黙々と描き続け、その腕前とセンスを磨きあげ作品の売れる画家となった話しと対照的な逸話である。
戸田豊鉄(長女美知の名付け親)は私の会社時代の2年先輩である。作詞、作曲、絵画、陶芸、サックス演奏などをたしなむマルチな自由人であったが、後にチャーチル会東京の五代目の幹事長(1983年~92年)を長く勤め、大きな功績を残した。戸田さんとは入社当時から公私にわたるお付き合いで、良く飲み、良く遊んだ。山登りも好きで成蹊大の谷川岳の寮に連れて行ってもらい彼の作詞、作曲による『山の友に』という歌を合唱した。この歌は後にダークダックにより世に広まった。
♪薪割り、飯炊き、小屋掃除 みんなでみんなでやったっけ 雪解け水が冷たくて苦労したことあったっけ 今では遠くみんな去り 友を偲んで仰ぐ雲♪
*下にYoutubeよりの画像あり
*下にYoutubeよりの画像あり
戸田さんの成蹊大山岳部僚友の河盛好昭さんは現在東京チャーチル会でお元気に活躍されているが、彼の入社初任地が防府であったことから弟正雄とも交流が続いている。
私に絵を描くことを熱心に勧めてくれたのは彼だし、水彩の手ほどきらしいものも教えてくれた。私は小さなスケッチブックを持って出張の合間に鉛筆を走らせるようになった。
「是非近い将来にチャーチル会に入りたまえ」と言い残して彼は69歳で早逝した。
彼とチャーチル会生活を共に出来なかったのは残念でならない。
病院に家人とお見舞いに伺った折、廊下が画廊もどきで彼の絵が飾り付けてあったのを今でも感動的に思い出す。
「羽佐間君!4年位の幹事長で音を上げてはダメだ。会の発展に奉仕するのが会員の第一の務めだから」と戸田さんに諭されそうである。
著名人たちの文化クラブのように発足したチャーチル会であるが、今は当たり前の人たちが集い、絵を描いて交流を深めているアマチュアの集団である。
ただ当初から伝統的に行われている名物行事が全国大会である。各地持ち回りで開催されるのだが、絵のコンクール、趣向を凝らしてのパーティ、アトラクション、エクスカーションなどが繰り広げられ既に61回の大会を重ねている。
2007年10月はヨコハマ大会の実行委員長を仰せつかりその準備期間を含め2年間ほど絵をのんびり描いている時間がなかったほどである。「ハイカラからハイテクまで」をキャッチフレーズに展開したヨコハマ大会は340名が集まったが、今でも思い出に残る名大会としてチャーチル会史を飾っている。
この年、大会のお手伝い要員として妻勝子も私の推薦で(当たり前)入会することとなった。今では熱心に活動に参加し、名実ともに腕前を上げてきたように思う。
語るに尽きぬチャーチル会物語であるが、『気晴らしに絵ほど良いものはない』それだけで
絵を描く意味があるのだからと自問しつつプロ作家気取りで昨今何か「絵の迷い道」に差し掛かっている自分を感じている。
思い上がりであるに違いない。 以上
(水彩画を描いて25年くらいになります。数百点の作品を数日に亘り松、竹、梅に仕分けしてみたら松は10パーセント程度で愕然としました。その後で、それは他家の所蔵になっているからだとつじつま合わせをしています。次回も絵の話しをします)