2013/08/01

人生色々こぼれ話(30) 〜十代目の快挙


人生色々こぼれ話(30)
十代目の快挙

2013年4月29日の朝刊を見ていて目が点になった。
春の叙勲で従兄(私の父の兄の長男)の羽佐間重彰が叙勲受賞したとの記事である。しかも旭日大綬章という最高の栄誉である。何度見ても間違えはない。


羽佐間重彰(84) 元産経新聞社会長
 早大院卒、フジテレビ社長、ニッポン放送社長などを歴任


他の受章者の顔ぶれは、羽田孜、池坊保子、久間章生、中野寛成、藤井裕久、前田勲男、与謝野馨などなど皆政治家、大臣クラスばかりである。


勲章は国家のため、社会のために尽くした功績に対して与えられものであり私企業の代表者の受章は稀である。報道文化の向上を通し大いに社会に貢献したことを叙しての受章である。調べてみると最近の民間受章は片田哲也(小松製作所)佐々木幹夫(三菱商事)樋口廣太郎(アサヒビール)位である。



ちなみに羽佐間重彰は四十七士『羽佐間重次郎光興』の直系十代目に当たる。祖父の羽佐間栄次郎(私の祖父でもある)は函館裁判所検事正で勲三等を受勲されているがこの法曹DNAは子孫達に全く引き継がれていない。報道、放送、テレビプロダクション系列が多い。法曹ではなく放送である。


親授式には受章者全員がフロックコートで正装して臨むのだそうだが、この着付けだけでホテルで2時間もかかり慣れない出で立ちでくたくたのところ年の功で天皇陛下への答礼の役割まで割り付けられ有難くも緊張の体験であったという。



さかのぼると彼と私は小学校(港区白金小学校)、早稲田大学の同窓である。彼は文学部芸術学科で映画演劇を専攻その後大学院文学研究科を修めて大映に入社、ニッポン放送へ進んだ。
後にドル箱番組となり今でも続く「オールナイトニッポン」は彼のプロデュースによる。
その時倉本聡はアシスタントであったという。




大学時代は学部が違い直接の交流はないが、学生運動を通じて彼からはいささか思想的な啓蒙を受けた。破防法をめぐる第二早大事件(19525月,警官500人の学園突入)を共に体験している。事件当日私は学内にいたが、政経学部の地下の密室に逃げ込み検挙の難をまぬかれた。



懐かしいのは高輪時代である。
1941年(、昭和16年)8月父の大牟田から東京への転勤で初めて彼と巡り会った。
当時本家の家は高輪南町にあり、炭鉱の社宅と比すべくもない洋館つきの豪邸であった。
父は近衛騎兵連隊に召集されたが、痔疾病のため即日不合格で帰還となる。退路を断ち、大いなる出征の餞別を受けて出てきた大牟田には死んでも帰れない。軍国の母は不甲斐なさを嘆き、祖母は強運を喜んだ。 歓送会、残念会が続き私は重彰さんにそそのかされてビールの味を覚えたようである。
父はそのまま三井鉱山本店の労務担当となった。一旦高輪を離れ(4年後にまた戻ることになるのだが)世田谷区奥沢の借り上げ社宅に転居した。


私たち三兄弟は彼の出身校である白金小学校に編入するが、あまりもの教科内容の差について行けない。彼はすでに名門麻布中学に進学していた。英語のリーダーを得意そうに読む彼は異質の存在であり、別世界の人のように見えた。
父の召集崩れの転勤さえなければ・・・・・・と悔やんだ。6ヵ月後に受験を控えた私は一人で大牟田へ帰り熊本中学か三池中学の受験に臨みたいと真剣に考えた。



62学期で編入し言葉や文化になじめぬうちに受験である。太平洋戦争はその年の12月に戦端を開いた。 翌年狙いの中学には入れなかったが、新設の東京市立多摩中学校(現都立青山高校)にもぐりこむことが出来た。
小学校、中学の連中とは今でも親交を続けている。


重彰さんは麻布中学をでると、旧制富山高校に進んだ。終戦の年であった。当時私たちは再び高輪に戻り空襲で家や家族を失った親族や、台湾、満州から帰還の親戚達と共同生活をしていた。この不思議な体験は現在の従兄弟達のまとまりに繋がっている。
敗戦という過酷な結着により日本は変転と激動の時代に入った。

富山高校から休暇で帰ってくる弊衣破帽の重彰さんは玄関でパンツ一枚にされ祖母からDDT(しらみ駆除薬)の白い粉の洗礼を受けての入室となる。
彼が富山に戻るときは、私たちが交々上野駅で席の確保に並んだ。2330分北陸線回り米原行きの列車は超満員で重そうにプラットホームを離れていった。
この列車は数年後私たちが夜行日帰りスキーに大いに利用したものである。
子供の頃からスキーを楽しんだという割に彼は下手で格好も悪かった。良く転んではスキーの板を折っていた。
然し捻挫した同行のデブ型女性をおんぶしてゲレンデから延々と宿まで帰るほどのやさしさと力も備えていた。



私のリコメンドもあり早稲田に編入し映画演劇の道を専攻し、ついにはフジサンケイグループ全企業の社長を勤めた稀有の人物である。


今回の受章を甘んじて受け入れようとしなかった姿勢は彼らしいし、組織的なお祝いの会も一切固辞したという。

身内だけの集い「重彰さんの叙勲受章を祝う会」は私も世話人として一役買ったが3代に亘り44名が喜びの席を共にした。2013年7月22日、目黒雅叙園でのイベントであった。
司会はプロの羽佐間道夫、乾杯の音頭は私がとり、〆はアナウンサーの羽佐間正雄が登壇した。
賑やかで屈託なく笑いに満ちた羽佐間家の空前絶後のお祭りであった。「羽佐間家の歴史とその人々」という小冊子が編纂されたが後世に伝える良き手引きとなるであろう。

母校白金小学校校歌(5人が同窓)を皆で斉唱して会はお開きとなった。
校歌は“人の中なる人たらん”という私の好きな詞で終わるが、正に重彰さんを象徴しているのではと思える。
夏の夜空を華やかに彩る花火にも似て大輪のごとく開き、どよめきの中でやがて元の静寂に戻った。                            以上

(今回でこの随筆も30号を迎えました。 従兄・羽佐間重彰の受章にめぐり合えて一つ のけじめになったような気がします。
 孫にそそのかされて起筆した「人生色々こぼれ話」ですがまあ良く書いたかなと思っています。最後はこぼれ話ではなくまともな史実となりました。 私自身の社会人としての波乱の人生に触れてはいませんが、これは後に譲ることとしここで筆を置きたいと思います。長い間のご愛読有難うございました。  私はこれからも好きな絵画人生を楽しみたいと思います)