2012/05/06

人生色々こぼれ話(16) 〜青春の門②


人生色々こぼれ話(16)
青春の門②
激動の時代体験は続く。衣食住の窮乏の中で、画期的な幸運が舞い込んだ。住む家もなく
仮住まいで高輪、辻堂を転々とする中で、母が抽選で都営住宅(賃貸)を引き当てた。


新大久保から徒歩10分、旧陸軍の学校や演習場跡地の一角に建坪僅か9坪ではあるが新居を確保した。住所は新宿戸山町43番地である。敷地だけは100坪を越す広大なものだった。ここで私たち兄弟の新しい歴史が始まる。今思えばセピアの色あせた映像であるが次々と思い出す出来事は懐かしく、おかしい。
この1948年新築の陋屋は、私が早大に入学し、卒業、就職、結婚の1955年まで7年間お世話になった棲家であり、正に青春の門第2編の舞台でもあった。


初めは母とも日々を送っていたが、間もなく亡父の親友の紹介で、単身赴任の重役、上級管理職の住むM社の寮長を懇望されこの家を出たので、私は弟の正雄と暮らすことになる。
学校が近くて、便利この上ないロケーションであった。我が家は友人達の格好のたまり場ともなった。



出来事は次々と勃発した。
福岡から上京した超貧乏学生のN君は住むに家なく、友達の家を転々と渡り歩いていた。実に几帳面にノートが整理されていて、私は試験になると彼のノートのお世話になっていた。とぼけた味のある人柄で、それにほだされた私は我が家の一隅を彼に提供することにした。長い付き合いの始まりである。


所持品は何もなく学用品、本のほかは洗面器一つで同居人となった。質草にもならない蓄音機と数枚のレコードだけがそれらしい持ち物であった。「チゴイネルワイゼン」のかすれた音色を今でも思い出す。
不精なので毛じらみも持ち込んできた。これが私や弟に忽ち伝播し日々対応に悩まされた。水銀軟膏をその部位に塗布するだけで痛い。


或る日朝食に炒飯を作ってくれたのだが、炒めた鍋は実は洗面器であった。鼠が同居し出没するが、鼠すら彼を敬遠し近づこうとしない。


寒い日に練炭コンロで暖をとったある夜、畳を焦がしそのまま丸い空洞をつくりコンロは床下に落下していた。危うく火事になるところであった。


大型台風が来るという。母が点検と防備のためやってきた。私は出掛けていてN君が一人在宅していた。「貴方は誰なの」「貴女こそ誰ですか」「英二や正雄の母です」「ひぇー・・・」
平蜘蛛の様にひれ伏すN君に「丁度いい。あんたそこに四つんばいになって!」母は彼を踏み台にして窓に釘を打ち出した。「じゃNさんとやら、しっかりと家を頼んだわよ!」と言い残して母は風と共に去ったという。
「あの夏、私は二つの台風に見舞われました!」母の一周忌でのこのパロディは皆に受けた。


この台風で窓は大破し、屋根はところどころが吹き飛んだ。おかげで雨の日は傘をさしてのご用足しとなった。♪雨よふれふれ悩みを流すまでどうせ涙に濡れつつ・・・・・♪
などと口ずさむブルースはもの悲しかった。


時々女性客?も訪れるので、そのうちに彼が邪魔になり私は一計を案じた。
裏隣のTさんの庭に空になった鶏小屋がある。そもそもは赤提灯のおでん屋を開業したのだが、客は我々貧乏学生と近所のお付き合い位で、そのうち自分が飲みつぶれて、店も閉業となった。
その後鶏小屋に転ずるものの卵より先に鶏を食べてしまい今は空き家である。私はTさん
に話してN君の別荘に提供してもらえないかと頼んだ。二つ返事で快諾され、彼は個室に転居となった。


その日はTさん、N君、その他友達、私、弟で盛大に転居祝いをした。
然し住環境は期待していたほど快適でなく、棚(寝床)から立ち上がる度に、出る釘に頭を刺し血まみれの凸凹状態となり彼は私のあてにするノートも取らなくなった。卵を産まなくなった鶏みたいなものである。


さてこのTさんは現在活躍する個性派女優「高岡早紀」の祖父である。彼女の父は今尚この地で高岡性を名乗り住んでいる。


私は再び救済に立ち上った。当時交際していたM家のK子さん(実はこの人は今の妻です)を通じてお母さんに実情を話した。母は涙を流して気の毒だと云い、彼を下宿人として迎え入れることに躊躇いはなかった。西武線井荻にあり、早稲田までも便利であった。奥の6畳の部屋が与えられN君は生き返ったように元気になった。


数日後であった。彼は夜路で帰宅するK子さんに出くわす。用意してくれた新調の掛蒲団を担いで質屋に向かうところだった。
突然の誰何(すいか)に驚いたのであろう。
博多弁の彼は「K子さんは、えすかばい」・・・(怖いということ)と私に漏らした。


後日彼は就寝中あんかを蹴飛ばし、ぼや騒ぎを起こした。



彼はアルバイトで上落合にあるソーセージを作るT社の現場に勤めだした。なかなか真面目でよい人を紹介してもらったと感謝されたが、間もなく彼は首になった。
ウインナソーセージをズボンのポケットに詰め込んだものの、糸状に繋がったソーセージを引きずっていてあえなく現行犯である。


皆おなかが減っていた時代なので、私はその出来心にほろ苦い同情を覚えた。



さて話は変わってT君の登場である。小学校、中学と一緒の親友である。少しひ弱な感じの今で云う草食系の青年だった。(と思っていた)或る日我が御殿に飛び込んできた。父親といさかいを起こして家出をしてきたという。事情不詳のまま同居となった。然し前出のN君とは大違いで、清潔やで器用であった。汚れたものを皆きれいに洗い、棚をつり整理し、お勝手の土間の床を板張りにしてくれた。露天風トイレは雨天でも使えるようになった。窓も和紙で張り替えてくれた。快適生活である。母は時折きて家がきれいになったと喜んでいて“T君実家に戻りなさい”とは言わなかった。


地域に映画サークルが出来て、従兄S(当時早大文学部芸術学科)の紹介もあり、飯島正、新藤兼人、今井正らの有名人がきて講演会があった。近所の奥さん方もお出ましになる。
バレーボール大会がある。フォークダンスの集いもある。これも交流の場である。新興住宅が増え文化人や学者が住む町に変貌していた。戸山ハイツというネーミングも当時としては洒落た感覚であった。テーマを決めての勉強会もした。学生達と若奥さま方との自然の交流の場が生まれた。

T君も積極的にそうした場に顔を出した。

今思うと戸山ハイツでの文化行事は学校のカリキュラムの一貫のような感じだった。
友人達と企画して近くの早稲田のグランドを借りて大運動会を催したこともある。
平和な日々が続いていた或る日事件は起きた。             以上

(連休はいかがお過ごしでしたか。私はあまり遠出はせず、6月に出す二つの絵画展の制作に追われています。そろそろ時間なので第16話をお届けします。
時代は“青春のパラダイス”に入りましたが、暫くは今回のようなほろにがく、可笑しな場面が出てきます。
♪花摘みて胸に飾り歌声高く合わせ・・・・若き命嬉しきパラダイスふたりを結ぶよ♪、のようにいつも明るくはじけるような青春讃歌とは行きませんでした。
前号で書いたように激動する世相の中、あるときは権力に抵抗しながら、然し自由で、好奇心を抱いて、思い描いてやれることは何にでも挑戦していたように思います。
青春の門はまだ続きます。)


2012/04/04

人生色々こぼれ話(15) ~青春の門

人生色々こぼれ話(15)
青春の門

終戦から2年経った1948年(昭和23年3月)に私は都立青山中学(現青山高校)を卒業した。
振り返れば中学生活の大半は戦争体験であった。ペンを置き学徒動員に駆り立てられた日々も今の時代では決して味あうことのできない辛いけど、貴重な経験となった。

大空襲の戦火を浴びながらも、生と死の危機を免れ、軍隊にこそ属さなかったけど、衣食住の貧しさを考えると、それ以上の過酷な洗礼を受けたように思える。

終戦と共に少年飛行兵、海軍予科練、陸軍幼年学校、士官学校、海軍兵学校等に進んだ学友も生きて帰ってきたけど、故郷の中学に転じたものも少なくなかった。
学制が変わり旧制中学を5年で卒業するもの、と新制高校3年に進む者に別れた。選択性であった。

従兄のSは前年麻布中学を出て、旧制富山高校に進んでいた。
私は旧制5年で卒業し、1年間定職のアルバイトで学資の一部を蓄え、自力で受験勉強をしながら翌年大学受験の機を窺うという奇策を取った。つまり新制高校に進んだ連中と同時に大学に進学できることになる。同じ大学のキャンパスでの再会もありうる。

本家の叔父の紹介で日本橋のD産業という会社に臨時社員として働くことになった。月給6,000円位だったと思う。仕事は雑務同然ながら先輩社員が良く面倒を見てくれ愉しい社会体験が出来た。おかげで、そろばんの習得や実践簿記が身についた。
翌年に大学を受験するいわば腰掛社員であるが、周囲はそのことを好意的に受け止め苦学生をバックアップする優しさを感じた。よき時代の片鱗がうかがえる。

「蛍雪時代」という受験雑誌を愛読し、旺文社の受験参考書で勉強した。前にも触れたが「豆単」の愛称で知られる単語帳は擦り切れるまで活用し丸暗記した。英語の構文、文法は力を入れた。1年間は瞬く間に過ぎた。

狙いは早稲田(文系)であるが、憧れがあって公立の東京高等農林(後の東大農学部に移行)もターゲットに加えた。結果は20倍の関門を突破の上、早稲田の政経学部に合格し高等農林は落ちた。農林省、水産省の安泰を目指すより、将来はサラリーマンとして当たり前の社会人となって自分の力量を試すのが生甲斐と考えるようになっていた。
D産業の先輩達が盛大に宴を開き私の門出を祝ってくれた。堅物のSさん、朗らかなKさん、優しかったTさん・・・・・皆覚えている。どうしておられるだろうか。

しっかりやれと言って、学資はT伯父(母の弟)が出し後押しをしてくれた。戦争で家族を失ったこともあり、私たち兄弟をわが子のように思い、世話をしてくれたのだと思う。
後年この伯父の仲人で結婚した。

歌舞伎役者のような美形の顔立ちであったが、惜しむらくは短足であった。伯父の仲間たちは「でっちゃん」と呼んでいた。確かにお尻も大きかった。
そして私たち兄弟が“あれは脱腸だね”と訝るほど、狸のような大きいものをぶら下げていた。
座り姿が良かったので長唄を詠じていた。

東京鉄道局(現JR東日本)を辞め新橋で焼きとり屋「串助」を開いた人である。多くの文化人、芸能人が集っていた名店となった。(前に紹介) この伯父は後に神田須田町に「立花亭」という寄席を開業し、演劇学校に行っていた末弟の道夫が入場券売り場でアルバイトをしていた。名のある落語家と接する機会も多く、後の声優としての基礎を学ぶのに大いに役に立ったと云う。

“同じネタでも前座では笑えないのに真打では大うけ。違いは間だという。ふっと置いた1拍で聞き手の呼吸を止め、自分の間に引き込む。勢い良くワッとしゃべった後に間を入れて、お客の力を抜く。そうやってみな自分の呼吸に乗せてしまう。”(道夫談)
そういえば彼のナレーションを聞いていると、間に引き込んでゆくような語り口がうまいと思える。

私も次男の弟・正雄もしばしば「立花亭」に通い落語に親しんだ(顔パスで)。この弟は後にNHKのアナウンサーとして大成するのだが、これまた名人達の話芸が体にしみこんでいたのかもしれない。

大学に入ってからの4年間(1948年~52年)はまさに激動の時代であった。事件と呼ばれる
出来事が相次いだ。帝銀事件、下山事件、松川事件、三鷹事件、血のメーデー事件、桜木町事件などが今でも鮮明に蘇る。朝鮮動乱も勃発した。

1952年5月8日には世に云う早大事件が起きた。学内に潜伏し調査していた神楽坂署の私服警官が学生達により軟禁されたが、これを取り戻すために、500人に及ぶ武装警官が大挙して学園に突入し、学生との間に凄惨な死闘が繰り広げられた。
私はその日キャンパスにいたが学部の地下室の奥に潜り込み、乱闘の数時間をやり過ごし難を逃れた。

遡る1週間前メーデー事件(52年5月1日)の日も日比谷から新宿まで警察の張り巡らした網の目をくぐって逃げ帰った。警官隊はピストル、警棒、ガス銃でデモ隊に襲いかかり、皇居前広場は血の修羅場となった大事変である。
大型ピストルの連射で即死した或る都職員のポケットからは「平和が欲しい。独立が欲しい。新しい人間像が欲しい」というメモが出てきたという。また他の一人は死に際に「こうして強くなるんだ。日本が良くなるんだ」と呟いたと伝えられた。
平和呆けの現代からは考えられないが、その時代の世相が浮かび上がる一つの象徴的なシーンである。

読みふけった日本文学に太宰治「人間失格」、林芙美子「浮雲」、木下順次「夕鶴」、大岡昇平「武蔵野夫人」、吉川英治「新平家物語」などを思い出す。「聞けわだつみの声」は本が擦り切れるほどに再読した。

読んで面白くない小説は小説にあらずと云い、その小説を書くのが嫌になったとし情死を選んだ無頼派の太宰治には私自身ある時期傾倒していた。
ニヒルなダンディズムというか孤独でありながら女性たちに構われる美貌の青年作家の翳に惹かれた。
昨秋、津軽の「斜陽館」を訪れ、太宰文学に漬かっていたあの頃の自分を思い出しみじみとした感慨、郷愁を味わった。もっとそこにいてわが青春も回顧したいので必ず再度訪れて今度は「グッドバイ」をしてきたいと思っている。

愛読誌「キネマ旬報」でハリウッド女優に憧れて映画を観まくり、ロシヤ民謡の叙情旋律に感動し自らもロシヤ語で歌う専門合唱団で活動する傍ら、ヤンキーゴーホーム!民族独立を唱え学生運動にもしばし加担した。
そして大学の絵画クラブでクロッキーにも夢中になっていた。今でもその古い画帳が残っていて古いコンテの匂いを感じることがある。

貧乏暇なし、若い時は二度とない。なんでもありの学生生活であったが、今顧みるとそれが人生の可能性を広げてくれたのではないかと思う。

「青春の門」ともいえる多感で激動の時代体験であった。  
      
以上


(後記:実は私の主宰する「みずき会」の水彩画展が昨日4月3日に終わりました。嵐の中の劇的なフィナーレでした。みずき会は今の私の生甲斐となっています。「青春の門」を開き色々な道をたどり行き着いた最終章のテーマだと思っています。いつまでか私にも分かりません。
青春時代のような可能性への挑戦はありませんが、いつも絵を描く時には或るときめきを
覚えます。このドキドキ感があるうちは絵と暮らすことになるでしょう)

2012/02/29

人生色々こぼれ話(14) 〜戦後の闇市文化

人生色々こぼれ話(14)戦後の闇市文化

戦後の貧困と飢餓の裏側に闇市の跋扈(ばっこ)があった。戦争に負けても人々の食べる為の生存競争は熾烈を極めた。名ばかりの配給品は遅配、欠配でとても飢えを凌げるわけがない。住む家を失い衣食住共に極度の窮乏状態にあった。

そこに駅前広場や盛り場に闇市が出現し、一種の戦後風物となった。
横流し、盗品、密造品,進駐軍の残飯などの食料品を始め鍋、釜の日用品までところ狭しと立ち並び、日々賑わった。

空襲による焼け跡や建物疎開の空地が闇市により次々と不法占拠された。農家からの穀類野菜、イモ。豆などを始め、北海道のするめ、どぶろく、カストリ焼酎、進駐軍の残飯シチューなどを露天で売るのだが、そのうち的屋(てきや)が現れ、地割などを仕切るようになった。青空市場と言うよりまるで小規模なバラック商店街の様相である。

闇市なので値段は高いのだが、配給物資はほぼ底をついていたので人々は生き延びるために闇市に頼らざるを得なかった。当時の都市部のエンゲル係数(生活費に占める飲食費の割合)は70%であった。

街角に立つ復員傷病兵の物乞い、ガード下の孤児達の靴磨き、そして夜の街角に佇む女達(通称パンパンガール)など敗戦国日本の闇は深かった。

戦災浮浪児は12万人に達したとの記録が残るが、住宅街で靴をかっぱらい闇市に走り、モク拾いで小銭を稼ぐ浮浪児の姿や「♪こんな女に誰がした」と歌われた闇の女達は哀れではあったが、それがその時代の生き様であり、居直りの姿でもあった。

夕暮れともなると日比谷のGHQ本部(今の第一生命ビル)の傍には高級士官を待つ一級のパンパン嬢がたむろしていた。
私はその姿に敗戦日本の屈辱感を噛締めていた。

立川基地でパンパンをやっていた自分の過去を知られたくないので殺人を犯すというストーリーで、松本清張の「ゼロの焦点」が出たが、この時代背景の中でのテーマ性が高く、その後映画、TVでも相次いで上映されている。

折りしも流れてきた「リンゴの唄」(前出)の爽やかで明るいメロデーに人々はどれほどの励ましと勇気を貰ったか計り知れない。

私は今でもこのメロデーを口ずさむと「♪リンゴ可愛いや、可愛いやリンゴ」の のどかな津軽風景ではなく、戦後の荒廃した新橋や新宿の闇市のモノクロ映像が重なって見えてくるのだ。


そんな極限の時代に喘ぎ苦しみながら、なぜか人々には笑顔があり、身を堕とし誇りを捨てながらも明日への希望の灯をともし続けていたように思う。

新宿西口一帯にテキ屋安田組が仕切る闇市があった。アルバイトで稼いではこの一角で芋饅頭を頬張り、進駐軍の残飯シチューで空腹を満たした。トマト味のスープにコンビーフ、鳥の骨、魚の頭、じやがいも、キャベツの芯、にんじん、パセリ、パンの耳、などのごった煮に一杯10円でありつける。すっぱい匂いがして乙なものではないが、家で食べるすいとんより味があり栄養価も高い。ステーキの食べ残しが入っていようものなら大当たりとなる。

ただし中から色々な付録が出てくる。英字新聞、ビールの金冠、タバコの空き箱、チュウインガムのかす、などであるが、或る日友人N君のどんぶりからコンドームが出てきたのにはさすがにたじろいだ。

思えば進駐軍の残飯シチューのおかげで、生き延びていたような気がする。文句なく闇市文化のナンバーワンに推したい。
今でも「思い出横丁」の名前で往時の姿を偲ばせる一角が残っている。
ここでは本物の特製ブイヤベースが味わえるのかも知れない。

新宿東口の闇市はスケールが大きかった。テキ屋、クレン隊、博徒が入り乱れまるでギャング街の様相で近寄りがたかった。悲惨にもメチールアルコールの入った密造酒で失明したり、命を落とした事例も少なくないと聞く。

空いているのは腹と米びつ、空いていないのは乗り物と住宅といわれた時代である。

新橋駅裏の闇市は本邦第一号である。終戦の日からわずか5日後には何処からともなく人々が集まり闇物資を持ち込み露店で営業を始めたといわれる。やがて何でも手に入る百貨市の様相を呈した。食べ物だけではなく鍋、釜、電熱コンロ、布団、靴、洋服、下着など日用品も手に入る。米は統制品なので摘発されたようだが、銀シャリは加工品なのでパスである。

スルメは日持ちが良いので大量に持ち込まれ、貨幣の役割すら果たしていた。つまりお酒
一合がスルメ一枚で買えるといった具合である。

以前にも触れたが、食料品の買出しは命がけであった。鈴なりの列車で千葉や茨城の農家を訪ね穀類や野菜を仕入れる。お金がないので着物、帯などとの物々交換も常套手段であった。世に言うタケノコ生活(竹の子の皮のように一枚一枚身をはいでゆく)である。

私も時に母から荷役に刈りだされた。常磐線柏駅から4~5kmの農家であった。お米やサツマイモ、南京豆(母はこれを転売していたと思う)などを背嚢に一杯詰め込み、肩には振り分け荷物、両手は手提げ袋、殆ど身動きの取れない状態であったが、これが家族の命をつなぐとの使命感から、火事場の馬鹿力で運び帰った。客車の天井に這いつくばって、汽車の煙で煤にまみれながらの帰還もあった。

3時間近くの長旅(帰路は荷物で重いためか汽車ものろい)で上野駅に着くと警察の摘発が網を張って待っている。人数は買い出し部隊のほうが圧倒的に多いものの、荷物ごと持ってそのまま逃げると捕捉されやすいので、一箇所に荷物をまとめ、母がこれを見張りし、私が物陰に一つづつを運び尺取虫のように移動してゆく。

狙われたら必ず捕まるので、警官の目に留まらないようにまるで忍者の早業のように隠れ忍んでは、隙を突いて飛び出す。学校でバレーボールの練習で鍛えていたフッとワーク、筋力がタテヨコの動きを敏捷にしてくれたのだろう。毎回違法ながら、命のお米を運び続けた。

「腹を空かせ、病に苦しむ子供たちを救おう」と食料品、医薬品、日用品などの救援物資
が「ララ物資」として海外のNGOの手により届けられた。クリスマスに間に合うようにと、終戦の翌年昭和21年11月30日横浜港に第1船が入港の記録(ウィキペディア)がある。

当初は南北アメリカ大陸の日系人が寄付の中心であったようだが、週に一度の昼食を抜いてそのお金を日本の子供達への募金に回すという運動はアメリカや各国のボランティア活動として広がり、「ゴール・1000万ドル 日本難民救済」というキャンペーンになり、アメリカでは全米放送を通じて全国民に呼びかけたとなっている。

この生活物資の救済は昭和26年(1951)まで続けられその総額は当時の価値で400億円に達したと記されている。

昭和47年頃少年3人の我が家にもララ物資として小麦粉とコンビーフの缶詰が届いた。真っ白な小麦粉で作ったホットケーキにコンビーフを挟んで食べた即席サンドウイッチの美味しさを今でも忘れない。
♪ララのみなさんありがとう♪という歌があった。
以上

(再び戦争直後の話に戻りましたが、進駐軍の「残飯シチュー」はどうしても書き残したくていつかはと思っていました。戦後の惨憺たる食糧事情は今想起してもなかなか実感がわきません。ただやたらにおなかが空いていました。食べ盛りの男の子3人を抱えて母の苦労は如何ばかりであったかと思います。

私はよく子供達に好き嫌いを諭したり、食べ残しをとがめたりしましたが、どこかに自身の戦後体験があり、残飯を食べていた私にとってはなんでもつい“勿体ない”という言葉が口をついて出てしまいます。

「すいとん」を食べさせても美味しいし、「残飯シチュー」も模しても特製おじやが出来上がるので子供達への戦後疑似体験は出来ませんでした。)

2012/01/30

人生色々こぼれ話(13) ジャズ、シネマ、ラッキー・ストライク

人生色々こぼれ話(13)
ジャズ、シネマ、ラッキー・ストライク

ある雑誌に投稿した一文(1997年)がある。前編と重なる部分があるが、いわば青春のプレイバックとしてその一節を復刻してみる。

『荒れ果てた東京にアメリカはガムやコーラと共にエキサイティングな文化を次々と持ち込んできた。私はラッキー・ストライクにむせ返り、ハリウッド女優のポートレート集めにうつつを抜かしていた。

洋画のカルチャーショツクは強烈であった。何しろそれまでの軍国の教条主義映画から一気に夢のミュージカル、スペクタクル、ロマンスが外国語と共にスクリーンから飛び込んでくるのだから、気を鎮めてというほうが無理である。大学に進んでからは、新宿の映画館をはしごで観て回り、酎ハイで評論に花を咲かせた。

今再び Shall we dance  なのだそうだが、私も当時はスタンダード・ジャズの生バンドでトロットやジルバーのステップに大いに興じた。それに飽き足らず会場とバンドを確保しダンスパーテイーを企画した。

サークルでのクロッキーが現在の風景水彩画に。黒人霊歌やロシヤ民謡のコーラスがカラオケに、山スキーの上り下りが渓流釣りに、そしてアメリカ人の家庭でのアルバイトが海外への旅マニアへと、あの頃の新鮮な体験や動機付けが現在の趣味に繋がっているように思える。

「青春とは年齢ではなく心の持ち方である」といった先人がいるが若者だけに与えられる奔放な特権をもう取り戻すことは出来ないのだから、せめて新しいことに興味を持ち何かに熱中することで心の青春を保ちたいものである。


さて当時の原資はアルバイトに尽きる。大学に進んでからは街頭でのピーナッツ売り、ライターの石の交換、スピード籤売りなど手当たり次第に試みた。

スピード籤はその場で三角形の籤を開くとタバコ等の当たりが分かるのだが、出来の粗末な籤が混入していて、糊の剥れた隙間から覗くとチラッと印が判別できる。いんちき極まりないがこれで賞品ゲットとなる。

高温・粉塵の中、新子安あたりにあった鋳物工場の肉体労働はさすがにきつかった。

弟は築地で火の用心!!の夜回りをしていたが、居眠りの間に出火となり、直ぐ首になった。

彼は米軍基地の浴場の三助もやるが黒人の巨大なものを洗わされて自ら辞めた。

1948年頃始めたラブレター書きます!の代書屋は繁盛した、当時のコミュニケーションの手段は手紙が普通である。シュチエーションを聴き取り、相手の心に囁き、時に揺るがすような名文(原稿用紙3~4枚)を書き綴り、当人はそれを自筆しラブレターとなる。 成功率80%を誇る出来栄えであった。おかげさまでのサンクスレターも来た。

平均1通200円の報酬だがハガキ50銭の時代なので今の価値にすれば2万円相当の破格のものであった。お客を捕まえてくるいわばポン引き(失礼)には20円の手数料を払う仕組みである。昼食2回分くらいである。

自分は現実にはもてないのに、美文家の友人がいたが、それぞれ手の内は見せなかった。ヒントやボキャブラリーは大学ノートいっぱいになった。 今も文章つくりは嫌いではないが、その素養はラブレター書きに発するのではとも思える。

1950年頃渋谷に「恋文横丁」というのがあって“英語の恋文引き受けます”の代書屋が並んでいた。本国に帰った米兵に、日本の女性からの手紙を代行して書く仕事である。追いかけていって結婚した女性も少なくないし、残された子供を一人で育てた実話も尽きない。後に丹羽文雄が「恋文」という小説を書いたそのバックグランドである。田中絹代主演の映画にもなった。 時代を反映した何処となく哀愁の漂う世相を感じる。後に出た森村誠一の「人間の証明」にどこか通じるものが読み取れる。

それにしても恋文代行業のはしりは、私&仲間達であったのではと思えてくる。

話は再び終戦直後に戻るが、暗く貧しい呆然自失の戦後に希望の歌声が沸きあがりラジオに合わせて人々が口ずさんだのが“赤いリンゴに唇よせて・・・“で始まる「リンゴの唄」だった。終戦の年の10月に早くも封切られた映画「そよかぜ」の挿入歌であった。明るい曲調と飾り気のない爽やかな歌詞は日本中を文字通りそよ風のように吹き抜けていった。

翌年有楽町の日劇に当の歌手並木路子がきた。映画『そよかぜ』と実演に夢中になり何度も通った。入れ替え制であったが、トイレに隠れ次の回もすんなりと客席に戻った。この手立ては常用し、友人、弟たちと日劇に出かけていっては、いち早く新曲を覚えて仲間に広げた。手つくりの歌集も作った。好きな灰田勝彦の歌は完璧にマスターした。今となると何となく歌声喫茶のはしりであったような気がする。

日劇の舞台に必ず登場するダンシングチーム(NDT)の華やかなラインダンスを観るのも楽しみであった。谷桃子、松山樹子、根岸明美、北原三枝等が所属していた。


戦後の日本ジャズ界を代表するミュージシャン渡辺弘が率いる「スターダスターズ」やハワイアンバンドの「灰田晴彦とニューモアナ」の演奏会には好んで出かけた。



私は当時旧制中学5年(現都立青山高校)である。神宮球場の向かいに学校が位置していて憧れの早慶戦ともなると気もそぞろで、友人達と午後の授業は放棄し観戦に出かけた。戦後の自由主義のお陰か、こんなエスケープも大目に見てくれ学校から特にお咎めもなかった。自らも何か運動をということで、終戦で学校に帰ると直ぐに好きなバレーボール部に入り、放課後は遅くまで練習を重ねた。そのお陰で急に身長が伸び筋肉質の体になった。

当時私達家族は母の知人の家を間借りして辻堂に住んでいた。鈴なりの満員列車での通学は死のもの狂いの様相であった。バレーボールの練習の後、空腹の長距離帰宅は辛かった。

弟は或る日デッキからはみ出し、鉄橋に足を掬われあわや振り落とされるところであったが手すりにぶら下がり藤沢駅のホームに滑り込んで一命を取り留めた。野球部で鍛えていた腕力のお陰である。重傷で、市内の外科に担ぎ込まれたが、マーキロとメンソレターム程度の薬しかなく、
膿が広がり、入院を余儀なくされた。今でも彼の足の甲には名誉の傷あとが残っている。
以上

(戦後を行ったり来たりの話しになりましたが、連想的に場面が出てくるのでそこはお許し下さい。このこぼれ話を綴る日は殆ど何の構想もなくパソコンの前に座ります。やがて20分から30分位瞑想していると、頭の中にランダムにテーマや映像が出てきます。最初の書き出しが難しいですが後はだんだん調子が出てきて饒舌になります。時系列に整理された順序ではないので、テンス(時制)がでたらめなのですが、こぼれ話だからいいや!と自分で妥協しています。
今回もそんなことで回想したものですが、読み返してみるとやはりモノクロの世界だなと思います。)

2012/01/06

人生色々こぼれ話(12) ~進駐軍がやってきた

人生色々こぼれ話(12)
進駐軍がやってきた

1945年(昭和20年)8月、日本はポツダム宣言により連合国に軍事占領されることとなった。主として米軍による占領組織として進駐軍と呼ばれるおびただしい数の軍隊がやってきた。 連合国最高司令部総司令官(GHQ)の指示命令を受けて日本政府が日本の政治機構をそのままに利用し占領政策を実施するのである。

昨日まで鬼畜米英として♪いざ来いニミッツ、マッカーサー出て来りゃ地獄へ逆落とし♪などと敵愾心丸出しで名指ししていたその本人が総司令官としてパイプを加えて厚木基地に降り立ったのは8月30日であった。
日本人の命運はこの日から彼の統率に委ねられることとなった。
国敗れてマッカーサーありの歴史的な転換であった。

街のあちこちに「マッカーサーの命令により立ち入りを禁ず」との立札すら目立った。彼が引き連れてきた軍隊は「米軍騎兵第1師団」であるがレイテ島、ルソン島、マニラと歴戦を重ねたいわば筋金入りの精鋭部隊であった。

これが日本軍の野暮ったい出で立ちと違い、背が高くて格好が良い。洒落たデザインのキャップを斜めにかぶり、粋なジャンパーには騎兵の腕章を輝かせて我がもの顔で町なかを闊歩する。4駆のジープに乗り疾走する。
チョコレートやチュウインガムをばら撒く。子供は群がり、大人はしけもく(タバコの吸殻)拾いに夢中である。「ギミーチョコレッツ」子供達が発するこの言葉が、英会話第一声だったのではと思う。

「日米会話手帳」なるぺらぺらのパクリ本(9cm×12cm・32ページ)が終戦の翌月に世に出て忽ちベストセラーになった。表紙に「Anglo・japanese Conversatoin Manual」とあるのは笑ってしまう。
その後、同種の本は雨後の竹の子のように出版されるのだが、この会話手帳の発案者は
敗戦のその日にひらめいて即実行という早業で驚くばかり。

皆が等しく悲嘆と鎮魂の淵に沈んでいる時に、頭を切り替え商魂たくましくばね仕掛けで動き出し、3日で初稿を完成したという。初版の定価は八十銭、闇値も付き年内に360万部を発行したと伝えられているがそのうち紙くずとなり現存しているものは何処にもないという。
実は当時私も連られて入手したものの、中身のお粗末さ加減に呆れてその場限りで以降読んだこともない。これも先見のなさで、もし持っていたらどんなお宝になっていたやら。

明くる1946年2月にはNHKラジオを平川唯一という人の「英会話教室」が放送開始となった。毎週月~金の午後6時から15分の番組であった。
テーマソングは今でも覚えている。

♪Come come everybody How do you do and how are you?
W’ont you have some candy One and two and three four five
Let’s all sing a happy song Sing tra-la la la la♪

これがあの「証城寺の狸囃子」のメロディに乗せてテーマソングとして軽快に流れてくるので、自然に引き込まれてしまう感じである。

ついでに英語の話であるが、翌年私は旺文社の赤尾好夫編「英語基本単語集」と「英語の総合的研究」を超猛勉して早稲田に入った。これは受験用の名著であった。
寝ても醒めても愛読書のように手放さなかった。

当時豆単といって多くの学生が愛用していたものだが、豆単は2冊目を今でも保存している。青春の名残を覚える懐かしい蔵書である。

進学して比較的割の良い進駐軍のハウスでのアルバイト(当時のはやりことば)もこなした。
国際軍事裁判所(市ケ谷)の住宅のベルボーイにはじまり、ワシントンハイツ(代々木)のハウスボーイなどである。ワシントンハイツでは、メイドさんが休んだので奥さんが私に女性の下着を洗濯させた。私は契約違反と怒って即座に辞めた。奥さんは驚いて我が家を訪問し詫びたが母が応対しあくまで辞退した。軍国の母は強かった。

弟の正雄が米兵をぶん殴りMP(米軍の警察)に御用となり、留置場に連行された事件があったが、これも母が交渉に行き無事連れ戻した。 粋なジャンパーのアメリカ兵がずたずたになった小気味良い話である。然し前科となった弟は二度と米兵といさかいを起こしたことはない。

進駐軍の駐屯基地のある芝浦方面に出かけるのはちょっと勇気が要った。品川から真っ暗い長いトンネルを抜けるのだが米兵の黒い塊と時折すれ違う。顔も黒いから目玉だけが光る。壁際に身を寄せてやり過ごすしかない。大声で汚い言葉を吐きながら通り過ぎる。
屈辱感が身に溢れ出た。

1947年頃だと思う、接収された新橋の第1ホテルで進駐軍のダンスパーテイに侍る機会が何度かあった。
演奏する「ブルーコーツ」という楽団のトランペッターのHさん(母の知人)がバンドボーイとして私と弟を招き入れてくれた。

流れる甘いジャズの音色に心が融けるほど酔いしれた。こんな美味しい飲み物があるのか
とコカコーラをげっぷがでるほどに頂いた。
当時のジャズは歌詞も単純でわかり易く、心に響いた。

このとき、ひらめいたのは、自分で確保したホールにジャズバンドを呼んできて、ダンスパーテイを企画することだった。
翌年友人達と相談し手分けして事に当たった。場所の確保、スイング、タンゴ、ハワイアンなどのバンドと歌手を探しての契約、チケットを作る、売りさばく、当日を運営するなど一通りの興行のお膳立が必要だった。契約の前金はN君が何処からか工面してきた。私は主としてチケットの販売に当たった。早稲田の学生という立場が身分証明となり、女子大のキャンパスに通うと忽ち売れた。

戦後の混乱もやや落ちついた頃社交ダンスは流行の兆しにあった。何度企画してもチケットは完売である。勿論税務所には届けて自ら納税済みの捺印をするのだが、枚数は自己申告だった。

そのうち、自分自身がダンスにはまり、本格的に教習所通いが始まった。
「タキシード ジャンクション」「ビギン ザ ビギン」「スターダスト」「ペイパームーン」
「スローボート ツー チャイナ」・・・など懐かしのレパートリーは100を超えるであろう。 

戦後のジャズブームも、進駐軍と共にやってきたように思う。
                                  以上


(皆さんお正月気分は如何ですか。私は友人達8名で日本橋界隈の七福神巡りをしてきました。もっと良い絵がたくさん描けるようにと神頼みもしました。

こぼれ話を再開します。進駐軍は良くも悪くも戦後の象徴の一つでした。こんな馬鹿でかい奴とよくも戦争をしていたものだと思いました。
家の女中さん(前回紹介したCHYOBUSUさん)が町で花束を抱えていたら 気の毒な花売りおばさんと間違えられてGIに How much? と問いかけられる。
彼女はTAMACHIと聞いて 親切心で身振り手振りで田町駅方面を指差す。米兵はきょとん顔  ????
今でも我が家に伝わる微笑ましいエピソードです)