2012/06/29

人生色々こぼれ話(18) ~再び少年時代に(2)


人生色々こぼれ話(18)
再び少年時代に(2)
山下洋輔さんのドファララ門(サンデー毎日連載のコラム)に誘われて私のこぼれ話も前回から再び少年時代に舞い戻っている。
山下家と羽佐間家の不思議な物語が、菊代おばさん(洋輔さんの母上)の出産記や私たち兄弟の思い出話がよりどころとなり6回に亘り「サンデー毎日」の誌上に紹介された。
624日号で終結したように思われるが、まだ余韻が漂っている。
面白く懐かしいのでこれを繰り返し読んでいるうちに、私自身が再び少年時代に呼び戻されてしまったようである。


菊代おばさんは、とても洒脱でユニークは人であった。ご夫君を「ゲーリー クーパー」にそっくりだといい、私の父を「上原 謙」に似ているとからかっていた。何処がそうなのか、私は「愛染かつら」を何度見てもぴんと来なかった。
私の弟に“貴方は(声がいいから)上野(音楽学校)に行きなさい!”とサジェストしたのも傑作だが、私に「白玉」というあだ名をつけたのも菊代おばさんであった。顔が白くて坊主頭が丸いのでまさに白玉のようにつるつるしていたのであろう。おかげで私は九州の少年時代は「白玉」で通っていた。この「白玉」がバレー部の猛練習で「黒玉」に日焼けしたことは以前お話した。



一番下の弟・道夫が洋輔さんの姉上・美紗子さんと乳母車で仲良く同床(サンデー毎日)というのは光景として私も覚えている。私は美紗子さんが2歳の頃7歳なので、私の場合は容量オーバーで相乗りは無理である。

このしとしとぴっちゃん型乳母車は実は幼児を乗せて、万田炭坑の傍の購買組合売店(ばいかんばと呼んでいた)に買い物に行き、帰りは食料品や日用品と一緒に積んで帰るというのが当たり前であった。私もねいやに買い物に連れて行かれ、帰りは大根や南瓜と一緒だったことが記憶に残っている。

この乳母車を卒業すると三輪車が買い与えられ、やがて小学校に進む頃、側輪付の自転車へと進化するのだ。
私も自転車を買ってもらった頃は急に偉くなったような気になり、暗くなるまで上級生に連れられミニサイクリングに出かけたり、「宮本馬車」の後を追いかけたりした。
弟の正雄は大牟田にやってきた三浦環さん(父の従姉)から三輪車をプレゼントしてもらったという。



私が5年生の頃父が映写機を買ってくれた。「のらくろ」「たんたんたんくろう」の漫画や日本ニュース(ドキュメンタリー)を壁に映して楽しんでいた。
大牟田のこの社宅は集会所のようにお客さんがひっきりなしに見えていた。或る時映写機がショートしフィルムに火がつき、ぼや騒ぎになった。
忽ち押入れの中まで火が広がりお客様総出で消火作業である。日ごろのバケツリレーの防火訓練が役に立ちやがて鎮火となった。

この事件以来我が家での映写は禁止となり私は親友の今村君を誘って繁華街の映画館に通うことになる。禍を転じて福と為すとはこのことに違いない。



とうとうあの「宮本馬車」の写真が出てきた。記憶の形はほぼ正しかったようでまさに幌馬車である。
そして前輪が小さく後輪が大きい。窓はなく吹きさらしである。子供なので大きく感じていたが実際は大人4人で満席となるほどの小型馬車であった。


母が残した当時の写真や手紙が蔵王の別荘から数多く出てきた。不思議なことに長期出張時に父から母に宛てた手紙は残っているが母が父に書いたものは何もない。父の手紙は激務にありながら家族思いの心情溢れるものが多い。筆跡は私に似ている。今となると昼夜を分かたぬきつい仕事が45歳という短命を誘ったのであろう。まさに殉職と言えなくもない。


この大牟田、万田時代の写真は貴重なので、サンデー毎日の大場さんに託して山下家にも
届けてもうことにした。この写真を見ているとドファララ門に菊代おばさんの手記として紹介された光景がありありと炙り出されてくる。



華やかな黒ダイヤの町大牟田も、次第に戦時色が濃くなり、父は在郷軍人(位は少尉、職務は警備隊小隊長)母は国防婦人会の班長として活躍していた。皆おそろいのもんぺ姿で
防火訓練に明け暮れる日々であった。


昭和13年(1938年)にはオリンピック東京大会が延期、1939年ノモンハン事件(日ソ
衝突、英仏が独に宣戦布告、(事実上の第2次世界大戦勃発)、1940年日独伊三国同盟締結
と続き、1941年には米国の対日石油輸出全面禁止、そして戦時体制として東条英機内閣が
成立した。



19418月に突然父に召集が来た。私たちは父とともに住み慣れた大牟田を離れ上京することになる。

実は最近、この召集令状が見つかった。父の招集先は第一師団、東部第3部隊とある。そして職務は第73兵站警備隊小隊長である。
秘密文書であり、冒頭に“秘密保持ノ為本内達承知後ハ直チニ焼却セラレタシ”となっている。
母はこの掟を破り我が家の重要記録として永久保存をしていたことになる。
黄ばんだ一片の紙片であるが、歴史の重みをひしひしと感じ、とても焼却する気にはならない。もう時効なのでそれをお許し願いたい。



1941128日に日本は太平洋戦争に突入した。
大本営陸海軍部発表・・・“帝国陸海軍は今8日未明、西太平洋において、米英軍と戦闘状態に入れリ”これがニュースの主文である。
歴史は大きく右旋回し、否応なく国民皆兵の戦時に入った。

私の平和で夢多き少年時代も終焉し、これより耐え難き困苦の道をたどることとなる。  以上

(洋輔さんのドファララ門に招かれ、遠い日の少年時代を再び彷徨いましたが、思い出すことはほぼ書き尽くしたように思います。ドファララ門のおかげです。
そして、サンデー毎日の大場さんにはこの間すっかりお世話になりました。
今回母の遺品から歴史的文書を見つけ、これが大きなピリオドとなりました。)

2012/06/02

人生色々こぼれ話 (17)〜再び少年時代に


人生色々こぼれ話(17)
再び少年時代に
ジャズピアニストでエッセイスト の山下洋輔さんの連載コラム「ドファララ門」(サンデー毎日に掲載中)を毎週読んだり、記事中に私たち兄弟がこもごも登場するのに触発されて、ここで再び少年時代の続編を書く気持ちになった。



山下家とのお付き合いは昭和8年(1933年)に洋輔さんのご両親の山下啓輔、菊代夫妻が
結婚後三井三池鉱業所(大牟田)に赴任されたときに始まる。偶然ながら菊代夫人が母と同門の東京女学館卒であったことが両家の交流のきっかけとなったことは容易に頷ける。


当時母は33歳、菊代おばさんは21歳だったので、妹のように可愛がり先輩として何かと口を出し、面倒を見たに違いない。とにかく母のお世話好きは生まれながらのものだった。当時の菊代おばさんの日記(出産記)に何度も母が登場するのも良く判る。


その頃私は4歳である。母に手を引かれ、大牟田の山下さんのお宅(白金社宅といい少し小高い所にあった閑静な住宅地)に何度もお邪魔したことを覚えている。茶の間に長火鉢がありそこで対座して母たちは面白おかしくお喋りをしていた。時折母が教訓じみた口調であったように覚えている。私はお菓子を与えられじっと我慢して時の過ぎるのを待っていたのであろう。ふと幼な心に、菊代おばさんはベティさんのように可愛いい顔をした人だなと思った。



よい機会なのでここで私の両親達のことをご紹介しておく。
父昌(まさし)は1899年生まれで、1921年に慶応大学を出て、三井鉱山に入社した。
父の父(私の祖父)は栄次郎といい函館地方裁判所の検事正だったが1911年に46歳で早世している。父が12歳の頃である。栄次郎は柴田家というところから羽佐間に婿入りした養子である。羽佐間は忠臣蔵四十七士の「間 重次郎 光興」の末裔ということは以前に紹介した通りである。
栄次郎の兄 猛甫(弁護士)がプリマドンナ三浦環の父なので、父と環はいとこ同士となる。


母たか子(旧姓小古井)1901年生まれで1919年に東京女学館を出て習い事(琴、三味線、長唄、華道など)に励むなど裕福な暮らし向きだったと聞く。


両家は当時の芝区汐留でご近所付き合いがあったようである。二人の間にどんな交際があったか定かではないものの、母のほうが積極的に近づいたに違いない。
1926年に結婚し、やがて福岡県の田舎の炭鉱・勝立坑に赴任となった。そこを基点に
万田坑、三川坑と転籍し1941年まで15年ほど炭鉱町での暮らしが続いた。


1941年東京に転勤したが、父は1943年に病を得て45歳で他界した。私は13歳であった。まるで祖父、父そして私の境遇が似ていて運命じみたものを感じざるを得ない。



さて山下洋輔さんは1942年生まれなので、サンデー毎日の記事はいわば身に覚えのないことばかりで、「自分が生まれる直前の時間をこのように克明に知ることになろうとは、ドファララ門は俺をどこに連れて行くのか」といっている。


その中の一つが姉の美紗子さんの堤防滑落事件である。当時山下家は私達の住む万田から4kmほど離れた四山というところにあった。有明海を臨む高台である。
或る日私は山下家のばあやの息子いさおさん(私より3歳くらい年上)、美紗子さんと三人で海の堤防を散歩していた。私は8歳、美紗子さんは3歳くらいだったと思う。


ふとした弾みで、美紗子さんが堤防の斜面を滑り落ちた。一瞬の出来事である。私はただ息を呑んで拳を握り締めているだけだった。そのときとっさにいさおさんが後を追って滑り降り美紗子さんを助けて事なきを得た。


この話は美紗子さんの母の菊代おばさんにも告げることはなく70年も記憶の底に沈めていた。 秘話とも言える。


これがこの度ドファララ門で公開となった。果たして美紗子さんはどの程度覚えているか
サプライズとなるかどうか興味深々であった。


ところがこちらがサプライズである。彼女は鮮明に覚えていてあの時は私と二人だけだったと確信をもって言う。滑り落ちた後泣きじゃくりながら堤防下の道を歩いていた。私の「大丈夫か美紗子ちゃん!」という心細い声が聞こえてきたという。


こうなれば滑り落ちた本人の証言に従わざるを得まい。二人だけのランデブーであったとしておこう。
美紗子さん良く覚えていてくれて有難う。


 
もっと怖かった話が幾つかある。



深夜に「助けて下さい。追われています!」と男の声で雨戸を叩く音がする。父は出張で不在である。私は布団に包まり震えていた。母は雨戸を開けて男をかくまう。やがて追ってきた男が短刀をかざして家に入り込んできた。母はあわてることなく迎えいれ「落ち着いてそこに座りなさい。私の主人は労務、組合担当です。事情を聞きましょう」といって目の前に二人を座らせ最後は喧嘩両成敗で和解させたという。肝の据わったすごい話だなと思う。母がたじろいだら事態は治まっていなかったであろう。


「よかおなご死んでしまえ」と石を投げられ泣いていた赴任当初とはまるで違う母をここに見る思いである。


或る古ぼけた家の屋根の上に夕暮れ時に最近火の玉が出るらしい。そんな馬鹿な・・・と思いつつ怖いもの見たさに友達と二人で草茫々の空き家の裏に潜んで待つこと1時間くらいたったであろうか。出た!!薄紅色の細長いものが可なりの速さで音もなく天空をよぎった。二人は無言で手を握り合っていた。二人が見たのだからこれは実話である。
然し母に話したら全く取り合ってくれなかった。



小学校の女子トイレに便器の中から物差しが出てくるという噂である。女子児童の証言が複数ある。誰かが「ものさし幽霊」と命名した。こればかりは興味はあれども検証が出来ない。作られた話か、悪戯なのか不明のままそのうち立ち消えとなった。トイレの神様
に聞いてみないと真相は分からない。



倉掛という商店の立並ぶ界隈に「一丸館」という映画館があった。入り口に斜め前に張り出した板張りのボードがありここに今週と次週の上映案内が広告される。この看板を見るだけでも心が躍りその近くの井上君の家に遊びに行きがてら眺めるのが楽しみであった。
映画館といっても座敷席の小屋である。
大河内伝次郎の「丹下佐膳」 鈴木澄子の「佐賀怪猫伝」などを覚えている。この女優は化け猫映画専門で、本当に怖くて子供心に強く残っている。



親友の今村君、井上君、は習字がうまくて小学校5年のときに小学生新聞の書道展に応募しそれぞれ金賞と銅賞を得た。これは現在でも続いている伝統ある企画で全国から数多くの応募がありこれに入賞するのは大変なことらしい。(サンデー毎日 大場編集者談)


私は先に紹介したように、1941(62学期)に父の転勤で東京に移るが彼らは大牟田の三池中学に進んだ。当時小学校から中学に進学する生徒は1割程度であった。

この今村君(後に青木建設)井上君(三井鉱山)それに前出した大牟田駅前の「やまだや」の息子の福江君(三井物産)は三池中学の同窓であるが、社会人となり私(三井金属)も加わり機会があれば東京で集って思い出話を重ねた。


今村君とは大牟田から荒尾まで汽車通学をした仲であり、社会人になってからも長く交流が続いた。

2001年に私たち兄弟で大牟田、万田と生まれ故郷を訪ねる旅をした折、今村君も参加してくれた。万田ではすでに跡形もないがここが山下さんの家のあったところ、今村君の家、そして我が家と少年時代を思い出しながらのセンチメンタル ジャニーであった。
その今村君も今はいない。


山下洋輔さんの「ドファララ門」に誘われて再び少年時代を懐かしんだ。
この夏洋輔さんが長く住んだ福岡県田川でいわばホームかミング コンサートがあるという。

私たち三兄弟もこれに参加し、その足で再び大牟田や万田を訪ね生まれ故郷に“グットバイ”を言って来ようと思う。                       以上

(こぼれ話ではもうとっくに卒業した少年時代にまた立ち帰ってしまいました。ドファララ門は現在33回の連載中ですが、もうしばらく羽佐間シリーズが続くかもしれません。
機会があったらサンデー毎日を手にとって見て下さい。いずれ本になるでしょう。

一つ訂正があります。前の16話で高岡家の話題を掲載しましたが、現在新宿区戸山町にあるお宅は多分高岡早紀さんのお兄さんが住んでいるのかもしれません。高岡の表札があることは確かです。

今回から実名が入りだしました。現実味があり文章がはっきりしてきたようです。)

2012/05/06

人生色々こぼれ話(16) 〜青春の門②


人生色々こぼれ話(16)
青春の門②
激動の時代体験は続く。衣食住の窮乏の中で、画期的な幸運が舞い込んだ。住む家もなく
仮住まいで高輪、辻堂を転々とする中で、母が抽選で都営住宅(賃貸)を引き当てた。


新大久保から徒歩10分、旧陸軍の学校や演習場跡地の一角に建坪僅か9坪ではあるが新居を確保した。住所は新宿戸山町43番地である。敷地だけは100坪を越す広大なものだった。ここで私たち兄弟の新しい歴史が始まる。今思えばセピアの色あせた映像であるが次々と思い出す出来事は懐かしく、おかしい。
この1948年新築の陋屋は、私が早大に入学し、卒業、就職、結婚の1955年まで7年間お世話になった棲家であり、正に青春の門第2編の舞台でもあった。


初めは母とも日々を送っていたが、間もなく亡父の親友の紹介で、単身赴任の重役、上級管理職の住むM社の寮長を懇望されこの家を出たので、私は弟の正雄と暮らすことになる。
学校が近くて、便利この上ないロケーションであった。我が家は友人達の格好のたまり場ともなった。



出来事は次々と勃発した。
福岡から上京した超貧乏学生のN君は住むに家なく、友達の家を転々と渡り歩いていた。実に几帳面にノートが整理されていて、私は試験になると彼のノートのお世話になっていた。とぼけた味のある人柄で、それにほだされた私は我が家の一隅を彼に提供することにした。長い付き合いの始まりである。


所持品は何もなく学用品、本のほかは洗面器一つで同居人となった。質草にもならない蓄音機と数枚のレコードだけがそれらしい持ち物であった。「チゴイネルワイゼン」のかすれた音色を今でも思い出す。
不精なので毛じらみも持ち込んできた。これが私や弟に忽ち伝播し日々対応に悩まされた。水銀軟膏をその部位に塗布するだけで痛い。


或る日朝食に炒飯を作ってくれたのだが、炒めた鍋は実は洗面器であった。鼠が同居し出没するが、鼠すら彼を敬遠し近づこうとしない。


寒い日に練炭コンロで暖をとったある夜、畳を焦がしそのまま丸い空洞をつくりコンロは床下に落下していた。危うく火事になるところであった。


大型台風が来るという。母が点検と防備のためやってきた。私は出掛けていてN君が一人在宅していた。「貴方は誰なの」「貴女こそ誰ですか」「英二や正雄の母です」「ひぇー・・・」
平蜘蛛の様にひれ伏すN君に「丁度いい。あんたそこに四つんばいになって!」母は彼を踏み台にして窓に釘を打ち出した。「じゃNさんとやら、しっかりと家を頼んだわよ!」と言い残して母は風と共に去ったという。
「あの夏、私は二つの台風に見舞われました!」母の一周忌でのこのパロディは皆に受けた。


この台風で窓は大破し、屋根はところどころが吹き飛んだ。おかげで雨の日は傘をさしてのご用足しとなった。♪雨よふれふれ悩みを流すまでどうせ涙に濡れつつ・・・・・♪
などと口ずさむブルースはもの悲しかった。


時々女性客?も訪れるので、そのうちに彼が邪魔になり私は一計を案じた。
裏隣のTさんの庭に空になった鶏小屋がある。そもそもは赤提灯のおでん屋を開業したのだが、客は我々貧乏学生と近所のお付き合い位で、そのうち自分が飲みつぶれて、店も閉業となった。
その後鶏小屋に転ずるものの卵より先に鶏を食べてしまい今は空き家である。私はTさん
に話してN君の別荘に提供してもらえないかと頼んだ。二つ返事で快諾され、彼は個室に転居となった。


その日はTさん、N君、その他友達、私、弟で盛大に転居祝いをした。
然し住環境は期待していたほど快適でなく、棚(寝床)から立ち上がる度に、出る釘に頭を刺し血まみれの凸凹状態となり彼は私のあてにするノートも取らなくなった。卵を産まなくなった鶏みたいなものである。


さてこのTさんは現在活躍する個性派女優「高岡早紀」の祖父である。彼女の父は今尚この地で高岡性を名乗り住んでいる。


私は再び救済に立ち上った。当時交際していたM家のK子さん(実はこの人は今の妻です)を通じてお母さんに実情を話した。母は涙を流して気の毒だと云い、彼を下宿人として迎え入れることに躊躇いはなかった。西武線井荻にあり、早稲田までも便利であった。奥の6畳の部屋が与えられN君は生き返ったように元気になった。


数日後であった。彼は夜路で帰宅するK子さんに出くわす。用意してくれた新調の掛蒲団を担いで質屋に向かうところだった。
突然の誰何(すいか)に驚いたのであろう。
博多弁の彼は「K子さんは、えすかばい」・・・(怖いということ)と私に漏らした。


後日彼は就寝中あんかを蹴飛ばし、ぼや騒ぎを起こした。



彼はアルバイトで上落合にあるソーセージを作るT社の現場に勤めだした。なかなか真面目でよい人を紹介してもらったと感謝されたが、間もなく彼は首になった。
ウインナソーセージをズボンのポケットに詰め込んだものの、糸状に繋がったソーセージを引きずっていてあえなく現行犯である。


皆おなかが減っていた時代なので、私はその出来心にほろ苦い同情を覚えた。



さて話は変わってT君の登場である。小学校、中学と一緒の親友である。少しひ弱な感じの今で云う草食系の青年だった。(と思っていた)或る日我が御殿に飛び込んできた。父親といさかいを起こして家出をしてきたという。事情不詳のまま同居となった。然し前出のN君とは大違いで、清潔やで器用であった。汚れたものを皆きれいに洗い、棚をつり整理し、お勝手の土間の床を板張りにしてくれた。露天風トイレは雨天でも使えるようになった。窓も和紙で張り替えてくれた。快適生活である。母は時折きて家がきれいになったと喜んでいて“T君実家に戻りなさい”とは言わなかった。


地域に映画サークルが出来て、従兄S(当時早大文学部芸術学科)の紹介もあり、飯島正、新藤兼人、今井正らの有名人がきて講演会があった。近所の奥さん方もお出ましになる。
バレーボール大会がある。フォークダンスの集いもある。これも交流の場である。新興住宅が増え文化人や学者が住む町に変貌していた。戸山ハイツというネーミングも当時としては洒落た感覚であった。テーマを決めての勉強会もした。学生達と若奥さま方との自然の交流の場が生まれた。

T君も積極的にそうした場に顔を出した。

今思うと戸山ハイツでの文化行事は学校のカリキュラムの一貫のような感じだった。
友人達と企画して近くの早稲田のグランドを借りて大運動会を催したこともある。
平和な日々が続いていた或る日事件は起きた。             以上

(連休はいかがお過ごしでしたか。私はあまり遠出はせず、6月に出す二つの絵画展の制作に追われています。そろそろ時間なので第16話をお届けします。
時代は“青春のパラダイス”に入りましたが、暫くは今回のようなほろにがく、可笑しな場面が出てきます。
♪花摘みて胸に飾り歌声高く合わせ・・・・若き命嬉しきパラダイスふたりを結ぶよ♪、のようにいつも明るくはじけるような青春讃歌とは行きませんでした。
前号で書いたように激動する世相の中、あるときは権力に抵抗しながら、然し自由で、好奇心を抱いて、思い描いてやれることは何にでも挑戦していたように思います。
青春の門はまだ続きます。)


2012/04/04

人生色々こぼれ話(15) ~青春の門

人生色々こぼれ話(15)
青春の門

終戦から2年経った1948年(昭和23年3月)に私は都立青山中学(現青山高校)を卒業した。
振り返れば中学生活の大半は戦争体験であった。ペンを置き学徒動員に駆り立てられた日々も今の時代では決して味あうことのできない辛いけど、貴重な経験となった。

大空襲の戦火を浴びながらも、生と死の危機を免れ、軍隊にこそ属さなかったけど、衣食住の貧しさを考えると、それ以上の過酷な洗礼を受けたように思える。

終戦と共に少年飛行兵、海軍予科練、陸軍幼年学校、士官学校、海軍兵学校等に進んだ学友も生きて帰ってきたけど、故郷の中学に転じたものも少なくなかった。
学制が変わり旧制中学を5年で卒業するもの、と新制高校3年に進む者に別れた。選択性であった。

従兄のSは前年麻布中学を出て、旧制富山高校に進んでいた。
私は旧制5年で卒業し、1年間定職のアルバイトで学資の一部を蓄え、自力で受験勉強をしながら翌年大学受験の機を窺うという奇策を取った。つまり新制高校に進んだ連中と同時に大学に進学できることになる。同じ大学のキャンパスでの再会もありうる。

本家の叔父の紹介で日本橋のD産業という会社に臨時社員として働くことになった。月給6,000円位だったと思う。仕事は雑務同然ながら先輩社員が良く面倒を見てくれ愉しい社会体験が出来た。おかげで、そろばんの習得や実践簿記が身についた。
翌年に大学を受験するいわば腰掛社員であるが、周囲はそのことを好意的に受け止め苦学生をバックアップする優しさを感じた。よき時代の片鱗がうかがえる。

「蛍雪時代」という受験雑誌を愛読し、旺文社の受験参考書で勉強した。前にも触れたが「豆単」の愛称で知られる単語帳は擦り切れるまで活用し丸暗記した。英語の構文、文法は力を入れた。1年間は瞬く間に過ぎた。

狙いは早稲田(文系)であるが、憧れがあって公立の東京高等農林(後の東大農学部に移行)もターゲットに加えた。結果は20倍の関門を突破の上、早稲田の政経学部に合格し高等農林は落ちた。農林省、水産省の安泰を目指すより、将来はサラリーマンとして当たり前の社会人となって自分の力量を試すのが生甲斐と考えるようになっていた。
D産業の先輩達が盛大に宴を開き私の門出を祝ってくれた。堅物のSさん、朗らかなKさん、優しかったTさん・・・・・皆覚えている。どうしておられるだろうか。

しっかりやれと言って、学資はT伯父(母の弟)が出し後押しをしてくれた。戦争で家族を失ったこともあり、私たち兄弟をわが子のように思い、世話をしてくれたのだと思う。
後年この伯父の仲人で結婚した。

歌舞伎役者のような美形の顔立ちであったが、惜しむらくは短足であった。伯父の仲間たちは「でっちゃん」と呼んでいた。確かにお尻も大きかった。
そして私たち兄弟が“あれは脱腸だね”と訝るほど、狸のような大きいものをぶら下げていた。
座り姿が良かったので長唄を詠じていた。

東京鉄道局(現JR東日本)を辞め新橋で焼きとり屋「串助」を開いた人である。多くの文化人、芸能人が集っていた名店となった。(前に紹介) この伯父は後に神田須田町に「立花亭」という寄席を開業し、演劇学校に行っていた末弟の道夫が入場券売り場でアルバイトをしていた。名のある落語家と接する機会も多く、後の声優としての基礎を学ぶのに大いに役に立ったと云う。

“同じネタでも前座では笑えないのに真打では大うけ。違いは間だという。ふっと置いた1拍で聞き手の呼吸を止め、自分の間に引き込む。勢い良くワッとしゃべった後に間を入れて、お客の力を抜く。そうやってみな自分の呼吸に乗せてしまう。”(道夫談)
そういえば彼のナレーションを聞いていると、間に引き込んでゆくような語り口がうまいと思える。

私も次男の弟・正雄もしばしば「立花亭」に通い落語に親しんだ(顔パスで)。この弟は後にNHKのアナウンサーとして大成するのだが、これまた名人達の話芸が体にしみこんでいたのかもしれない。

大学に入ってからの4年間(1948年~52年)はまさに激動の時代であった。事件と呼ばれる
出来事が相次いだ。帝銀事件、下山事件、松川事件、三鷹事件、血のメーデー事件、桜木町事件などが今でも鮮明に蘇る。朝鮮動乱も勃発した。

1952年5月8日には世に云う早大事件が起きた。学内に潜伏し調査していた神楽坂署の私服警官が学生達により軟禁されたが、これを取り戻すために、500人に及ぶ武装警官が大挙して学園に突入し、学生との間に凄惨な死闘が繰り広げられた。
私はその日キャンパスにいたが学部の地下室の奥に潜り込み、乱闘の数時間をやり過ごし難を逃れた。

遡る1週間前メーデー事件(52年5月1日)の日も日比谷から新宿まで警察の張り巡らした網の目をくぐって逃げ帰った。警官隊はピストル、警棒、ガス銃でデモ隊に襲いかかり、皇居前広場は血の修羅場となった大事変である。
大型ピストルの連射で即死した或る都職員のポケットからは「平和が欲しい。独立が欲しい。新しい人間像が欲しい」というメモが出てきたという。また他の一人は死に際に「こうして強くなるんだ。日本が良くなるんだ」と呟いたと伝えられた。
平和呆けの現代からは考えられないが、その時代の世相が浮かび上がる一つの象徴的なシーンである。

読みふけった日本文学に太宰治「人間失格」、林芙美子「浮雲」、木下順次「夕鶴」、大岡昇平「武蔵野夫人」、吉川英治「新平家物語」などを思い出す。「聞けわだつみの声」は本が擦り切れるほどに再読した。

読んで面白くない小説は小説にあらずと云い、その小説を書くのが嫌になったとし情死を選んだ無頼派の太宰治には私自身ある時期傾倒していた。
ニヒルなダンディズムというか孤独でありながら女性たちに構われる美貌の青年作家の翳に惹かれた。
昨秋、津軽の「斜陽館」を訪れ、太宰文学に漬かっていたあの頃の自分を思い出しみじみとした感慨、郷愁を味わった。もっとそこにいてわが青春も回顧したいので必ず再度訪れて今度は「グッドバイ」をしてきたいと思っている。

愛読誌「キネマ旬報」でハリウッド女優に憧れて映画を観まくり、ロシヤ民謡の叙情旋律に感動し自らもロシヤ語で歌う専門合唱団で活動する傍ら、ヤンキーゴーホーム!民族独立を唱え学生運動にもしばし加担した。
そして大学の絵画クラブでクロッキーにも夢中になっていた。今でもその古い画帳が残っていて古いコンテの匂いを感じることがある。

貧乏暇なし、若い時は二度とない。なんでもありの学生生活であったが、今顧みるとそれが人生の可能性を広げてくれたのではないかと思う。

「青春の門」ともいえる多感で激動の時代体験であった。  
      
以上


(後記:実は私の主宰する「みずき会」の水彩画展が昨日4月3日に終わりました。嵐の中の劇的なフィナーレでした。みずき会は今の私の生甲斐となっています。「青春の門」を開き色々な道をたどり行き着いた最終章のテーマだと思っています。いつまでか私にも分かりません。
青春時代のような可能性への挑戦はありませんが、いつも絵を描く時には或るときめきを
覚えます。このドキドキ感があるうちは絵と暮らすことになるでしょう)

2012/02/29

人生色々こぼれ話(14) 〜戦後の闇市文化

人生色々こぼれ話(14)戦後の闇市文化

戦後の貧困と飢餓の裏側に闇市の跋扈(ばっこ)があった。戦争に負けても人々の食べる為の生存競争は熾烈を極めた。名ばかりの配給品は遅配、欠配でとても飢えを凌げるわけがない。住む家を失い衣食住共に極度の窮乏状態にあった。

そこに駅前広場や盛り場に闇市が出現し、一種の戦後風物となった。
横流し、盗品、密造品,進駐軍の残飯などの食料品を始め鍋、釜の日用品までところ狭しと立ち並び、日々賑わった。

空襲による焼け跡や建物疎開の空地が闇市により次々と不法占拠された。農家からの穀類野菜、イモ。豆などを始め、北海道のするめ、どぶろく、カストリ焼酎、進駐軍の残飯シチューなどを露天で売るのだが、そのうち的屋(てきや)が現れ、地割などを仕切るようになった。青空市場と言うよりまるで小規模なバラック商店街の様相である。

闇市なので値段は高いのだが、配給物資はほぼ底をついていたので人々は生き延びるために闇市に頼らざるを得なかった。当時の都市部のエンゲル係数(生活費に占める飲食費の割合)は70%であった。

街角に立つ復員傷病兵の物乞い、ガード下の孤児達の靴磨き、そして夜の街角に佇む女達(通称パンパンガール)など敗戦国日本の闇は深かった。

戦災浮浪児は12万人に達したとの記録が残るが、住宅街で靴をかっぱらい闇市に走り、モク拾いで小銭を稼ぐ浮浪児の姿や「♪こんな女に誰がした」と歌われた闇の女達は哀れではあったが、それがその時代の生き様であり、居直りの姿でもあった。

夕暮れともなると日比谷のGHQ本部(今の第一生命ビル)の傍には高級士官を待つ一級のパンパン嬢がたむろしていた。
私はその姿に敗戦日本の屈辱感を噛締めていた。

立川基地でパンパンをやっていた自分の過去を知られたくないので殺人を犯すというストーリーで、松本清張の「ゼロの焦点」が出たが、この時代背景の中でのテーマ性が高く、その後映画、TVでも相次いで上映されている。

折りしも流れてきた「リンゴの唄」(前出)の爽やかで明るいメロデーに人々はどれほどの励ましと勇気を貰ったか計り知れない。

私は今でもこのメロデーを口ずさむと「♪リンゴ可愛いや、可愛いやリンゴ」の のどかな津軽風景ではなく、戦後の荒廃した新橋や新宿の闇市のモノクロ映像が重なって見えてくるのだ。


そんな極限の時代に喘ぎ苦しみながら、なぜか人々には笑顔があり、身を堕とし誇りを捨てながらも明日への希望の灯をともし続けていたように思う。

新宿西口一帯にテキ屋安田組が仕切る闇市があった。アルバイトで稼いではこの一角で芋饅頭を頬張り、進駐軍の残飯シチューで空腹を満たした。トマト味のスープにコンビーフ、鳥の骨、魚の頭、じやがいも、キャベツの芯、にんじん、パセリ、パンの耳、などのごった煮に一杯10円でありつける。すっぱい匂いがして乙なものではないが、家で食べるすいとんより味があり栄養価も高い。ステーキの食べ残しが入っていようものなら大当たりとなる。

ただし中から色々な付録が出てくる。英字新聞、ビールの金冠、タバコの空き箱、チュウインガムのかす、などであるが、或る日友人N君のどんぶりからコンドームが出てきたのにはさすがにたじろいだ。

思えば進駐軍の残飯シチューのおかげで、生き延びていたような気がする。文句なく闇市文化のナンバーワンに推したい。
今でも「思い出横丁」の名前で往時の姿を偲ばせる一角が残っている。
ここでは本物の特製ブイヤベースが味わえるのかも知れない。

新宿東口の闇市はスケールが大きかった。テキ屋、クレン隊、博徒が入り乱れまるでギャング街の様相で近寄りがたかった。悲惨にもメチールアルコールの入った密造酒で失明したり、命を落とした事例も少なくないと聞く。

空いているのは腹と米びつ、空いていないのは乗り物と住宅といわれた時代である。

新橋駅裏の闇市は本邦第一号である。終戦の日からわずか5日後には何処からともなく人々が集まり闇物資を持ち込み露店で営業を始めたといわれる。やがて何でも手に入る百貨市の様相を呈した。食べ物だけではなく鍋、釜、電熱コンロ、布団、靴、洋服、下着など日用品も手に入る。米は統制品なので摘発されたようだが、銀シャリは加工品なのでパスである。

スルメは日持ちが良いので大量に持ち込まれ、貨幣の役割すら果たしていた。つまりお酒
一合がスルメ一枚で買えるといった具合である。

以前にも触れたが、食料品の買出しは命がけであった。鈴なりの列車で千葉や茨城の農家を訪ね穀類や野菜を仕入れる。お金がないので着物、帯などとの物々交換も常套手段であった。世に言うタケノコ生活(竹の子の皮のように一枚一枚身をはいでゆく)である。

私も時に母から荷役に刈りだされた。常磐線柏駅から4~5kmの農家であった。お米やサツマイモ、南京豆(母はこれを転売していたと思う)などを背嚢に一杯詰め込み、肩には振り分け荷物、両手は手提げ袋、殆ど身動きの取れない状態であったが、これが家族の命をつなぐとの使命感から、火事場の馬鹿力で運び帰った。客車の天井に這いつくばって、汽車の煙で煤にまみれながらの帰還もあった。

3時間近くの長旅(帰路は荷物で重いためか汽車ものろい)で上野駅に着くと警察の摘発が網を張って待っている。人数は買い出し部隊のほうが圧倒的に多いものの、荷物ごと持ってそのまま逃げると捕捉されやすいので、一箇所に荷物をまとめ、母がこれを見張りし、私が物陰に一つづつを運び尺取虫のように移動してゆく。

狙われたら必ず捕まるので、警官の目に留まらないようにまるで忍者の早業のように隠れ忍んでは、隙を突いて飛び出す。学校でバレーボールの練習で鍛えていたフッとワーク、筋力がタテヨコの動きを敏捷にしてくれたのだろう。毎回違法ながら、命のお米を運び続けた。

「腹を空かせ、病に苦しむ子供たちを救おう」と食料品、医薬品、日用品などの救援物資
が「ララ物資」として海外のNGOの手により届けられた。クリスマスに間に合うようにと、終戦の翌年昭和21年11月30日横浜港に第1船が入港の記録(ウィキペディア)がある。

当初は南北アメリカ大陸の日系人が寄付の中心であったようだが、週に一度の昼食を抜いてそのお金を日本の子供達への募金に回すという運動はアメリカや各国のボランティア活動として広がり、「ゴール・1000万ドル 日本難民救済」というキャンペーンになり、アメリカでは全米放送を通じて全国民に呼びかけたとなっている。

この生活物資の救済は昭和26年(1951)まで続けられその総額は当時の価値で400億円に達したと記されている。

昭和47年頃少年3人の我が家にもララ物資として小麦粉とコンビーフの缶詰が届いた。真っ白な小麦粉で作ったホットケーキにコンビーフを挟んで食べた即席サンドウイッチの美味しさを今でも忘れない。
♪ララのみなさんありがとう♪という歌があった。
以上

(再び戦争直後の話に戻りましたが、進駐軍の「残飯シチュー」はどうしても書き残したくていつかはと思っていました。戦後の惨憺たる食糧事情は今想起してもなかなか実感がわきません。ただやたらにおなかが空いていました。食べ盛りの男の子3人を抱えて母の苦労は如何ばかりであったかと思います。

私はよく子供達に好き嫌いを諭したり、食べ残しをとがめたりしましたが、どこかに自身の戦後体験があり、残飯を食べていた私にとってはなんでもつい“勿体ない”という言葉が口をついて出てしまいます。

「すいとん」を食べさせても美味しいし、「残飯シチュー」も模しても特製おじやが出来上がるので子供達への戦後疑似体験は出来ませんでした。)