2013/03/30

人生色々こぼれ話(26)〜 絵の迷い道②


人生色々こぼれ話(26)
絵の迷い道②


私の主宰する水彩画教室「みずき会」が創立10周年を迎えかねてより企画していた記念絵画展が3月18日~24日に盛大に開催された。出展者27名、会場は新設のみなとみらい駅のサブウエイギャラリーM」、ご来場者960余名、先生クラスは19名、最終日はサプライズつき(私の小品3点が抽選で当たる)の懇親会で大盛り上がりであった。



イッツ ハザマ ワールド! どれが先生の絵か区別がつかない! との声が聞かれた。私はこうした評価を聞くと内心はほくそ笑む気持ちになる。それこそが私の真の狙いだからである。私は私自身の絵しか教えることが出来ないし、皆さんの絵が私に近づきそれを超えてもらうこととこそ自己評価に繋がるのだと思っている。



皆さんがみずき会に入ってくるのは、「私のような絵が描きたいから」というのが第一の動機である。確かにそうなのだが、印で押したように同じ絵が描けるわけがないし、個性があり感性が違うからこそ絵は面白いのだ。
私がやれるのは理論や技法の伝授と体験した私なりのノウハウを包み隠すことなく会員に公開することである。


“絵は盗むもの、混色は企業秘密”とか言って、自分のお弟子さんに端的に教えない講師もいる。画評のときコメントが出て来て“それなら何故描いているときに言ってくれないのだろう”という疑問は私自身が、先生について水彩の勉強をしていた時代に痛感したことである。



或る先生に聞いたら“あまり教えるとストックがなくなるから、自分を超える人が出てくるから”と実感をもらした人がいた。確かにこのスタンスを取っていれば上昇志向の生徒は離脱し、ニューカマーが入ってきて、ローテーションが早くなる。先生は入門者にイロハだけをアドバイスしていればよいことになる。ベテランの育成というコンセプトが先生自身にないので自分でブラッシュアップするか、離脱するしかないことになる。



私は私塾的な教室では、メンバーのコミュニケーションが大事だと思っている。チャーチル会のように「友情に厚いこと」「分派をつくらないこと」「既婚者との会員間恋愛をしないこと」などと教条的なことは言うつもりはないが、非日常的な交流の時間を大事しているつもりである。
ティータイム、飲み会、旅スケッチ会、打ち上げ会、忘年会などなど。そしてやはり集大成は展覧会につきる。展覧会は最近どの会でも開いているが、相談会や画集発刊をしている会はそんなにないと思う。

画集は毎年発刊し今回で5回目であるがみずきの自慢行事の一つだと思う。別に公開しているわけではないものの、潜在的に人気が出てきているようである。思い出のアルバムとしてだけでなく、副教本的なメリッとがあり、替えがたい宝物です。といってくれる会員もいる。


幹事長の山中さんとのコラボでやっているのだが、彼の絵の編集努力は尋常なものではない。私も丁寧に、慎重に会期中からコメントつくりに励む。画集発行が終わると一段落し2ヶ月後に迫るチャーチル会の制作に入るのがこの時期のパターンとなっている。



みずき会はほんのちょっとしたきっかけから生まれた。200310月のチャーチル会展の会場で私の出品作に対して「こんな作品を描いて見たい。教えていただけないか」と3人ほどの女性から熱心なオファーがあった。固辞したものの最終的にはトライアルにやってみようということで山手通りでの5人程での教室が始まった。横浜山手のイニシャルをとりYY会と称しての第2、第4水曜日を写生会としての発足であった。
やがて木曜日を例会としたYS会という姉妹クラスがスタートし、いつしか二つの会が統合、みずき会として再発足し今日に至っている。



現在27名(男子5名、女性22名)の構成であるが、私はあくまでアマチユアの水彩画家であり年齢的な限界もあるのでこれ以上の拡大は願っていない。やむを得ない事情で多少のローテーションがあっても現状を安定的に維持したいと思う。
今年は個々の会員と絵のテーマ(課題)を決めてブラッシュアップをしたいと思っている。
これまでほぼ400回の写生現場をこなしてきたが、皆勤であるのが唯一の誇りかもしれない。学校、社会人として、しかも今よりも若い頃に出来なかったことが、「みずき会」という場で為しえていることは、好きなことを無駄なストレスなくやれていることからだと思う。



展覧会でもこれまでのところ毎日会場に顔を出すことにしている。大体終日立って過ごすので足は棒のようになり、夜はつったりしている。しかし朝になると心は展覧会場に飛んでいるのだ。 
或る画廊のマネジャーから“他の先生は時に顔を出してすぐ帰りますよ“と言われたけど私もそれに習わねばと思ったことはない。 もしそのような事態が訪れたら私は指導者として資格を失う時だと思っている。



最近私が大いに影響を受けたアメリカの女流水彩画家「マリリン シマンドル」は“すべてはデザインすることから始まる“という。”デザインとは明暗の度合い、線、色彩、とりわけ形についてそれを構成し絵画的な要素を配置することをいう“とし彼女は「調和」「リズム」「単純」こそが水彩画の本質だといっている。

“難しいことをやさしく、やさしいことを深く”といっている井上ひさしの名言と合わせてみると絵を描く心の何かかが分かってくるように感じとれるのだ。



私はみずき会の皆さんに“写実は自然の模倣ではない。見えるものを描かないという目で見てみよう。何を描くかではなく何を描かないか“という観点が大事と説いている。これは私自身の座右
銘でもある。




さて余興を紹介します。
これは私の知っている方が多く所属する或る大きな展覧会の壁に張り出されていたお絵描き川柳である。いちいち当てはまっていて絵よりもこちらを見ている人が目に付いた。。
拝借して10句掲載する。


  紙一流 絵具ニ流で 絵は三流
  四季通し 緑はみんな 同じ色
  上り坂 下り坂とて 同じ絵に
  目線だと 目線はいつも 若い娘へ
  消失点 加齢のせいで 見えません
  あら上手あら綺麗 お世辞飛び交う 展覧会
  絵を描かぬ 人を選んで 案内状
  今解る “優”じゃなかった 図画の点
  色使い 色恋よりも 難しき
  義理があり どうせ暇だし 観にきたの

笑いを誘う そして誰もが心当たりのある思いや嘆きが詠まれている。



次は私が作った替え歌である。神楽坂はん子の歌う「ゲイシャワルツ」のメロディーで口ずさんで下さい。羽佐間英二作詞、古賀政男作曲となる。題は「みずきワルツ」です。

1、   貴方のリードで 絵筆もゆれる
遠近法の 悩ましさ
乱れる目線も はずかしうれし
みずきワルツは 思いでワルツ

2、空には三日月 お絵描き帰り
  心は重たい 荷も重い
  描かなきゃよかった 今日の私
  これが苦労の はじめでしょうか

3 描くのはあきらめ 帰った夜は
  にじむ涙の ぼかし雨
  遠く泣いてる 港の霧笛
  修行の辛さが身にしみるのよ



 みずき会員であった故矢島敦夫さんは人格豊かな風流人でいつも皆に慕われていた。
「ニューグランドホテル」を描いて「名門の佇まい」と題した絵を残し、2年前に卒然と旅立った。絵こそわが命と言っていた。
「みずきの日よいつまでも」は「みずきの人よさようなら」に変じて・・・・・。

♪雨の馬車道 夜霧の山手
今もこの目に やさしく浮かぶ
君はどうしているだろか
ああ みずきの灯よ いつまでも

と宴会の度に歌ってくれたことを今でも思い出し、目頭が熱くなる。        以上


(写生をしていると絵心がある人はいいな。よく言われます。絵心という意味の定義はありません。絵は描かないけど観るのは好きです。という方こそ絵心が豊かなのではないでしょうか。 人は字を書く前に絵を描いていたのです。そこで象形文字が生まれました




2013/03/04

人生色々こぼれ話(25) 〜絵の迷い道①


人生色々こぼれ話(25)
絵の迷い道①
この2月の総会で私は所属するチャ-チル会ヨコハマの幹事長(チャーチル会では会長ではなく幹事長と呼称する)をまた1年続投することになった。
もう4年目である。ここは運営の幹事を離れてじっくりと絵を描きたいというひそかな願望はあえなくも潰えてしまった。



私がチャーチル会に入会したのは2002年である。弟の道夫の紹介であるがそのいきさつが面白い。当時通関、海外輸送関係の仕事をしていた後澤さん(現会員)が道夫の娘婿の海外転勤の仕事で訪れた折のことである。

TVで聞き慣れた道夫の声が後ろから聞こえ「貴方様はもしや羽佐間道夫さんでは?」となった。
「はい、そうですが・・・」
「私は貴方の声をテレビで聴いています」の出会いから始まり、飾ってあった中川一政の絵画数点に目を留めた後澤さんがすかさず「絵がご趣味でしょうか」と問う。
「いえ鑑賞は好きですが自分は描きません。兄は水彩を描いています」
「それではお兄さんを是非私の入っているチャーチル会へお誘いできないでしょうか」
「分かりました。伝えておきます」
これが私のチャーチル会入会のきっかけである。


チャーチル会は入会時にゲスト会員という名の半年ほどの見習い期間がある。そして入会
時には2名の保証人が必要となる。その一人が後澤さんであることは言うまでもない。
彼とは今でも親交が深い。


チャーチル会が発足したのは1949年(昭和24年)である。当時銀座の焼け跡にあった
「蟻屋」という喫茶店に各界で活躍中の多彩な人々が集まり、賑やかに談笑していた。
或る日「おい、絵でも描くか、油絵というやつを」という声が起こり「チャ-チル会」という名前をつけ(杉浦幸雄命名と伝えられている)日曜画家の集団が誕生した。


創立会員は石川滋彦、宇野重吉、高峰秀子、長門美保、藤浦洸。森雅之、横山隆一、杉浦
幸雄の諸氏となっている。これに梅原龍三郎、安井曽太郎など画伯が加わり、早田雄二カメラスタジオで裸婦のデッサン会が始まった。映画、演劇、文壇、画壇をメインに我も我もと輪が広がり戦後のにわか文化の象徴の様であった。毎週土曜日の午後、早田スタジオは大入りの盛況であったという。


アマチュア ペインターズのクラブにチャーチルの名前を冠することにチャーチル卿自身が「余はアマチユアにあらず」とすぐには承諾しなかったという。林謙一、石川欣一両氏の重ねての努力で数年後に英本国から外務省を通じて認知の知らせがあったといわれる。
皆欣喜雀躍したという。


東京を長姉とし現在全国に姉妹会の数は50に達するが、1950年に発足したNO,2のチャーチル会が大都市ではなく、人口8万の山口県防府市であったのも面白い。そしてそこは
弟正雄のNHK入局の最初の赴任地であったことも何かの縁を感じるのだ。正雄はチャーチル会の人たちともお付き合いがあり、今でも私はCC防府の方々との交流を続けている。
当時防府放送局の西内部長はチャーチル会とも付き合いが深く、自宅に人を招くのが好きで酒宴が絶えなかったという。
或るとき正雄もお呼ばれしたのだが、西内さんのお嬢さんのお気に入りのミルク飲み人形にお酒をしたたか飲ませて泣かせてしまい、母上はあわてて正雄にお酢のお燗を出したという逸話が残っている。(西内さんのお嬢さんから聞いた実話)



『気晴らしに絵ほどいいものはない。まだやったことがなければ是非一度試してご覧。私を嘲笑する前に。そしてしくじったところで大した損害でもなかろう。絵を描き出せば上手も下手もない。第一頭の中に何事もなくなる。やってご覧是非一度 死なないうちに』
チャーチルのユーモラスな名言である。
こんなチャーチルの台詞を取り入れてチャーチル会には絵に対しての上手い、下手の評価基準はない。気分良く楽しく描けていれば、それに勝るものなしとしている。



全国のチャーチル会に共通する基本ルールがあるがユニークなのでその一部を紹介する。
  分派行動をしてはいけない(誰とでも仲良く交流せよ)
  会内既婚者の恋愛を禁ずる(仲良くしても良いが不倫はダメ)
  会員相集まった時の会計は割り勘とする(年中あるので便利なルール)
  自分の利益のため会を利用してはいけない(政治的な意味で、ありうるか?)
  会員は会の体面を重んじ友情に厚いこと(相手の気持ちを尊重せよ)
など先人達の体験と知恵が詰まった戒めである。60年以上も続いているので憲法並みに価値がある。



創設の頃高峰秀子は人気女優の故に週刊誌、グラフ雑誌、映画雑誌に追い回され会員の皆さんに迷惑をかけるのが辛く、二年足らずで泣く泣く退会してしまったという。
仕事を離れて利害なしで屈託なく愉しんでいた絵を描く場を失った彼女の心境は察するに
余りある。彼女が世に残した絵は少ない。宮田重雄が「現ナマに手を出せ」とメモした当時5万円入りの小箱を彼女の結婚式(1955326日の筈・・・・なぜならその日は
私たちの結婚式でもあったので)にお祝いとしてくれた話は彼女の自著に記されている。


藤山愛一郎が絹のハンカチと言われながらも、絵にならない絵をチャーチル会で20年以上も黙々と描き続け、その腕前とセンスを磨きあげ作品の売れる画家となった話しと対照的な逸話である。



戸田豊鉄(長女美知の名付け親)は私の会社時代の2年先輩である。作詞、作曲、絵画、陶芸、サックス演奏などをたしなむマルチな自由人であったが、後にチャーチル会東京の五代目の幹事長(1983年~92年)を長く勤め、大きな功績を残した。戸田さんとは入社当時から公私にわたるお付き合いで、良く飲み、良く遊んだ。山登りも好きで成蹊大の谷川岳の寮に連れて行ってもらい彼の作詞、作曲による『山の友に』という歌を合唱した。この歌は後にダークダックにより世に広まった。 

♪薪割り、飯炊き、小屋掃除 みんなでみんなでやったっけ 雪解け水が冷たくて苦労したことあったっけ 今では遠くみんな去り 友を偲んで仰ぐ雲♪
*下にYoutubeよりの画像あり


戸田さんの成蹊大山岳部僚友の河盛好昭さんは現在東京チャーチル会でお元気に活躍されているが、彼の入社初任地が防府であったことから弟正雄とも交流が続いている。


私に絵を描くことを熱心に勧めてくれたのは彼だし、水彩の手ほどきらしいものも教えてくれた。私は小さなスケッチブックを持って出張の合間に鉛筆を走らせるようになった。
「是非近い将来にチャーチル会に入りたまえ」と言い残して彼は69歳で早逝した。
彼とチャーチル会生活を共に出来なかったのは残念でならない。
病院に家人とお見舞いに伺った折、廊下が画廊もどきで彼の絵が飾り付けてあったのを今でも感動的に思い出す。

「羽佐間君!4年位の幹事長で音を上げてはダメだ。会の発展に奉仕するのが会員の第一の務めだから」と戸田さんに諭されそうである。



著名人たちの文化クラブのように発足したチャーチル会であるが、今は当たり前の人たちが集い、絵を描いて交流を深めているアマチュアの集団である。
ただ当初から伝統的に行われている名物行事が全国大会である。各地持ち回りで開催されるのだが、絵のコンクール、趣向を凝らしてのパーティ、アトラクション、エクスカーションなどが繰り広げられ既に61回の大会を重ねている。


200710月はヨコハマ大会の実行委員長を仰せつかりその準備期間を含め2年間ほど絵をのんびり描いている時間がなかったほどである。「ハイカラからハイテクまで」をキャッチフレーズに展開したヨコハマ大会は340名が集まったが、今でも思い出に残る名大会としてチャーチル会史を飾っている。
この年、大会のお手伝い要員として妻勝子も私の推薦で(当たり前)入会することとなった。今では熱心に活動に参加し、名実ともに腕前を上げてきたように思う。



語るに尽きぬチャーチル会物語であるが、『気晴らしに絵ほど良いものはない』それだけで
絵を描く意味があるのだからと自問しつつプロ作家気取りで昨今何か「絵の迷い道」に差し掛かっている自分を感じている。    
思い上がりであるに違いない。                    以上

(水彩画を描いて25年くらいになります。数百点の作品を数日に亘り松、竹、梅に仕分けしてみたら松は10パーセント程度で愕然としました。その後で、それは他家の所蔵になっているからだとつじつま合わせをしています。次回も絵の話しをします)

山の友に ~ダークダックス



山の友によせて(山の友よ)
戸田豊鉄 作詞作曲


薪(まき)割り飯炊き小屋掃除 みんなでみんなでやったっけ 雪解け水が冷たくて 苦労したことあったっけ

今では遠くみんな去り 友をしのんで仰ぐ雲 前傾外傾全制動 みんなでみんなでやったっけ

雪が深くてラッセルに 苦労したことあったっけ 今では遠くみんな去り 友に便りの筆をとる

落葉松(からまつ)萌(も)ゆる春山に みんなでみんなで行ったっけ 思わぬ雪にワカンはき 苦労したことあったっけ 

今では遠くみんな去り友の姿を夢にみる








2013/01/28

人生色々こぼれ話(24) 〜正月興行


人生色々こぼれ話(24)
正月興行

 
正月2日に北京から休暇で帰国の朋巳君(娘・美知の夫)一家と泉岳寺に初詣をした。随分ご無沙汰していたが境内は美しく整備され四十七士の墓石にはそれぞれ分かりやすいように本名、戒名、享年が書き込まれた札が立っていて、参詣者には便利である。


先祖の間喜兵衛、重次郎、新六の墓石は親子なのに、ばらばらに立っている。義士の墓列はそれぞれお預けになった大名屋敷(細川越中守、松平隠岐守、毛利甲斐守、岡崎城主 水野監物)ごとに区分けされているからである。
手向けるお線香は100円で数十本あるので夫々のひいき筋に配って歩く姿が目立つ。



我が家は重次郎光興(泉岳寺の墓石では十次郎となっている)から十代目の子孫に当たるが、境内に新しく構築された大理石の囲み柵に本家の羽佐間重彰、以下 英二、正雄。道夫、則人(故人・従弟)とそれぞれ名が刻まれている。実は相当額の寄付をしている証しである。


駿之介(孫)もこの血の1%以下が流れている筈だからと言ったら瞬時彼の目が輝いた。
晴れた穏やかな午後、ゆったりと泉岳寺へ初詣が出来て正月らしいスタートとなった。


忠臣蔵の文献は何冊も読んでいる。真相、浪士伝、銘々伝とタイトルはさまざまであるが私は海音寺潮五郎の「赤穂浪士」と桂木寛子訳の「四十七士の手紙」が面白いと思う。従弟の則人(故人)は忠臣蔵博士(このようなマイナーな称号があるとは知らなかったが取得するのは大変なことらしい)という称号がつくほどくまなく勉強し、家の中は関係図書で溢れかえったという。もう少し生前に彼の講話でも聞いておけばよかったと悔やんでいる。



重次郎一番槍はどの文献を見ても似たような記述であるが、台所前の炭小屋の前を重次郎ら四名の義士が通りかかったところ中からかすかに人声が聞こえる。戸を打ち破ると中から斬りかかってくるものがいる。
これを討ち止めたが奥で何か動く気配がするので重次郎が一槍入れたところ、脇差を抜いて刃向かう様子なので横から武林唯七が一太刀打ち下ろし引きずり出してみると年齢、服装から見て上野介としか思えない。
重次郎や吉田忠左衛門が背中の傷を改めてまぎれもなく古傷が確かめられたので合図の笛を吹き一同を集め内蔵助がとどめを刺す。



泉岳寺で第一番に主君 浅野内匠頭の墓前に焼香を許されたのも重次郎であり、後に切腹に際しては若輩にもかかわらず一同を代表して検使に挨拶し二十六才を一期に相果てた。


これが情景描写の大要であるが、ある文献では面白い記述がある。


内蔵助は刀を抜いて吉良のとどめを刺すや重次郎を呼んで「初槍を付けたのは貴殿である。貴殿みしるしを上げられよ」と命じた。間ははっと答えて首を打ち落とし、上野介の懐中から守袋二つを取り揃えて内蔵助に呈した。これは故実である。戦場においても身分高き敵を討ち取った場合は、刀なり何なりを取り揃えて証拠とすることになっているのである。


別の文献では以下の記述がある。

頼みにする家来達も主人に代わって打ち出るが忽ちにして切り伏せられてしまう。
上野介が震えながら潜んでいる所へ間重次郎がくり出す槍の穂先が上野介の股をぐさりと刺す。思わず槍の穂先を両手でつかみ、抜き取ろうとする。重次郎は手応えありと再び槍をしごく。上野介の掌は切れて傷つく。


これが事実だとすると槍の一突きは急所を抉り致命傷に近かったのではないだろうか。いやそうではない。槍は中央部を外れ左股部刺創だという。槍なので即死は考えられない。
創傷は閉鎖的であったはずだと反論がある。医学的判断では左動脈を外れていて血圧低下による出血抑制で多量の出血には至っていない。というのだ。


この一番槍の実物は本家重彰が泉岳寺の記念館に寄贈し展示されている。


重次郎の三つ下の弟の新六郎光風についての逸話も多く残っているがこれは別の機会に譲る。彼は切腹のマナーを心得ないで介錯を待たず自ら腹を掻き斬った唯一人の義士である。
後にこのことが勇壮な武士の鑑と江戸中の評判になったと伝えられている。


四十七士の切腹は元禄16年(1704年)24日であった。



話題は転ずる。
恒例の兄弟での正月顔見世興行は「浅草」となった。
かねてより道夫(三男)より、面白いロングランの歌と踊りがあると聞いていた。内心、程度は知れたものと思っていたが、かぶりつきの席を確保してもらい2時間ほどを堪能した。


「虎姫一座」といい、メンバーは男性2人、女性7人がコスチュームを変えて狭い舞台をいっぱいに踊って歌うのだが、良くトレーニングされていて芸風も豊かである。何よりも浅草っぽい泥臭さが気に入った。

男性はドラマーとギタリストであるがヨコハマのジャズプロムナード(毎年秋に横浜馬車道、みなとみらいを埋め尽くして行われるジャズフェスティバルで知人のジャズ評論家・柴田浩一さんがプロデユースしていることもあり病みつき)に出てきても遜色のないレベルである。

彼らは、狭きオーデションの門をくぐり、厳しい訓練に耐え、自転車通勤をして更には
夜の仕事と掛け持ちのメンバーもいるのだそうである。


演目は「シャボン玉ホリデイ」の再現である。1960年~70年代を沸かせた「ザ ピーナッツ」「クレージーキャッツ」などのコント風ミュージカルで私たちにとってはやたらに懐かしくそのまま入っていける演出となっている。



牛乳石鹸提供 シャボン玉ホリデイ!!

♪シャボン玉ル・・・・・・・  シャボン玉ラ・・・・・
 ロマンチックな夢ね  丸いすてきな夢ね  リズムに乗せ運んでくるのね ホリディ ホリデイ シャボン玉   シャボン玉 ホリデイ♪

このイントロは懐かしい。今でもそのまま口をついて出てくる。このエッセイをご愛読の皆さんはご存知のはずです。


舞台は切れ目なくフェードアウト、フェードインを繰り返し歌と踊りのオンパレードが続く。ピーナッツメドレーでは「恋のバカンス」「恋のフーガ」「ラバーカンバックツーミー」「ムーンリバー」「情熱の花」「可愛い花」「月影のナポリ」などなどポピュラーな歌が続く。聴き入るほどにその時代に呼び戻される。
そして「さよならは突然に」「ローマの雨」とうっとりとなったところで「スターダスト」のエンディングで望郷の想いに駆られるといった構成である。


文句なしに面白かった。ワングラスのワインにほろ酔い気分で外に出たらまだ明るかった。
私は1926年~32年頃通いつめた「浅草六区」のあの頃の景色とオーバーラップして思い出していた。

「電気館」「日本館」「大勝館」「東京倶楽部「常盤座」などが次々と蘇る。
エノケン、ロッパ、しみ金、ばんじゅん、森川信、坊屋三郎、由利徹、コロンビアトップなどかつて華やかな浅草時代を飾った芸能人達は今いない。


私は幻の映画といわれた「新雪」五所平之助監督 水島道太郎、月丘夢路主演、歌は灰田勝彦という映画を友人とこの浅草で観て感動した記憶がある。
この映画が封切られたのは1942年なので、旧制中学1年のころである。戦争が始まった翌年であるが、厭戦的なロマンス映画ということで軍の差し止めを受けたものである。思えば貴重な体験であった。

♪紫煙る新雪の 峯ふり仰ぐ この心・・・・♪ 60年来の愛唱歌である。

この帰り道に六区の大きな有名レストラン「不二越」でカツ丼を食べたのを覚えている。



そんなことを思い出しながら浅草に来たらやはり駒形の「どぜう鍋」にしようと繰り込んだがお客は外に溢れでるほどの盛況である。この店は予約なしで入れないことが分かる。取り立てて美味しいものではないし、郷愁も沸かないであろう若い人たちが来店多数のミスマッチに驚いたが、豪華、美味、に飽きた若者のレトロ回帰かもしれない。


このどぜう屋に長女美知も加わった。 I PAD MINI が手に入ったと実演がはじまり興味はそちらに集まって懐古物語はこれにて終演となった。つられて数日後正雄(次男)もこの便利デイバイスをゲットしたという。



帰路は静かな仕上げを道夫が提供してくれた。道夫の盟友であった 故 児玉清さんが愛用していた高級感漂うバーである。不忍池の奥にある横丁のまた奥の小路の「琥珀」というお店である。ここは歌を歌うようなバーではないが、かつて児玉さんと何度か歌った「浅草の唄」が懐かしい。

♪強いばかりが男じゃないと 何時か教えてくれた人 何処のどなたか知らないけれど 鳩と一緒に遊んでた ああ浅草の街明かり♪

明るいメロディだけどぺーソス漂うこの歌の主人公は西島君(このエッセイに何度か登場)ではないかと思うことがある。


味わったことないジンベースのまろやかで香しいいちごのカクテルは何というネーミングだったのかノートにも取らずひたすら心地よく家路についたのが心残りであった。
シャボン玉のはじけるようなセシボンなホリデイであった
美知は非日常の夜を過ごせて大満足の様子であった。道夫伯父に深謝!

以上
(皆さんはお正月をいかがお過ごしでしたか。
アベノミクスで浮かれ気分のところに、あまりにも重いニュースが飛び込んできて心が痛みます。
私自身40年前アルジェリア、イラク、イラン、UAEなど土漠の中近東で仕事をしていたので目を閉じると蘇るものがあります。ご冥福と世界平和を祈らずにはいられません。)