人生色々こぼれ話(15)
青春の門
終戦から2年経った1948年(昭和23年3月)に私は都立青山中学(現青山高校)を卒業した。
振り返れば中学生活の大半は戦争体験であった。ペンを置き学徒動員に駆り立てられた日々も今の時代では決して味あうことのできない辛いけど、貴重な経験となった。
大空襲の戦火を浴びながらも、生と死の危機を免れ、軍隊にこそ属さなかったけど、衣食住の貧しさを考えると、それ以上の過酷な洗礼を受けたように思える。
終戦と共に少年飛行兵、海軍予科練、陸軍幼年学校、士官学校、海軍兵学校等に進んだ学友も生きて帰ってきたけど、故郷の中学に転じたものも少なくなかった。
学制が変わり旧制中学を5年で卒業するもの、と新制高校3年に進む者に別れた。選択性であった。
従兄のSは前年麻布中学を出て、旧制富山高校に進んでいた。
私は旧制5年で卒業し、1年間定職のアルバイトで学資の一部を蓄え、自力で受験勉強をしながら翌年大学受験の機を窺うという奇策を取った。つまり新制高校に進んだ連中と同時に大学に進学できることになる。同じ大学のキャンパスでの再会もありうる。
本家の叔父の紹介で日本橋のD産業という会社に臨時社員として働くことになった。月給6,000円位だったと思う。仕事は雑務同然ながら先輩社員が良く面倒を見てくれ愉しい社会体験が出来た。おかげで、そろばんの習得や実践簿記が身についた。
翌年に大学を受験するいわば腰掛社員であるが、周囲はそのことを好意的に受け止め苦学生をバックアップする優しさを感じた。よき時代の片鱗がうかがえる。
「蛍雪時代」という受験雑誌を愛読し、旺文社の受験参考書で勉強した。前にも触れたが「豆単」の愛称で知られる単語帳は擦り切れるまで活用し丸暗記した。英語の構文、文法は力を入れた。1年間は瞬く間に過ぎた。
狙いは早稲田(文系)であるが、憧れがあって公立の東京高等農林(後の東大農学部に移行)もターゲットに加えた。結果は20倍の関門を突破の上、早稲田の政経学部に合格し高等農林は落ちた。農林省、水産省の安泰を目指すより、将来はサラリーマンとして当たり前の社会人となって自分の力量を試すのが生甲斐と考えるようになっていた。
D産業の先輩達が盛大に宴を開き私の門出を祝ってくれた。堅物のSさん、朗らかなKさん、優しかったTさん・・・・・皆覚えている。どうしておられるだろうか。
しっかりやれと言って、学資はT伯父(母の弟)が出し後押しをしてくれた。戦争で家族を失ったこともあり、私たち兄弟をわが子のように思い、世話をしてくれたのだと思う。
後年この伯父の仲人で結婚した。
歌舞伎役者のような美形の顔立ちであったが、惜しむらくは短足であった。伯父の仲間たちは「でっちゃん」と呼んでいた。確かにお尻も大きかった。
そして私たち兄弟が“あれは脱腸だね”と訝るほど、狸のような大きいものをぶら下げていた。
座り姿が良かったので長唄を詠じていた。
東京鉄道局(現JR東日本)を辞め新橋で焼きとり屋「串助」を開いた人である。多くの文化人、芸能人が集っていた名店となった。(前に紹介) この伯父は後に神田須田町に「立花亭」という寄席を開業し、演劇学校に行っていた末弟の道夫が入場券売り場でアルバイトをしていた。名のある落語家と接する機会も多く、後の声優としての基礎を学ぶのに大いに役に立ったと云う。
“同じネタでも前座では笑えないのに真打では大うけ。違いは間だという。ふっと置いた1拍で聞き手の呼吸を止め、自分の間に引き込む。勢い良くワッとしゃべった後に間を入れて、お客の力を抜く。そうやってみな自分の呼吸に乗せてしまう。”(道夫談)
そういえば彼のナレーションを聞いていると、間に引き込んでゆくような語り口がうまいと思える。
私も次男の弟・正雄もしばしば「立花亭」に通い落語に親しんだ(顔パスで)。この弟は後にNHKのアナウンサーとして大成するのだが、これまた名人達の話芸が体にしみこんでいたのかもしれない。
大学に入ってからの4年間(1948年~52年)はまさに激動の時代であった。事件と呼ばれる
出来事が相次いだ。帝銀事件、下山事件、松川事件、三鷹事件、血のメーデー事件、桜木町事件などが今でも鮮明に蘇る。朝鮮動乱も勃発した。
1952年5月8日には世に云う早大事件が起きた。学内に潜伏し調査していた神楽坂署の私服警官が学生達により軟禁されたが、これを取り戻すために、500人に及ぶ武装警官が大挙して学園に突入し、学生との間に凄惨な死闘が繰り広げられた。
私はその日キャンパスにいたが学部の地下室の奥に潜り込み、乱闘の数時間をやり過ごし難を逃れた。
遡る1週間前メーデー事件(52年5月1日)の日も日比谷から新宿まで警察の張り巡らした網の目をくぐって逃げ帰った。警官隊はピストル、警棒、ガス銃でデモ隊に襲いかかり、皇居前広場は血の修羅場となった大事変である。
大型ピストルの連射で即死した或る都職員のポケットからは「平和が欲しい。独立が欲しい。新しい人間像が欲しい」というメモが出てきたという。また他の一人は死に際に「こうして強くなるんだ。日本が良くなるんだ」と呟いたと伝えられた。
平和呆けの現代からは考えられないが、その時代の世相が浮かび上がる一つの象徴的なシーンである。
読みふけった日本文学に太宰治「人間失格」、林芙美子「浮雲」、木下順次「夕鶴」、大岡昇平「武蔵野夫人」、吉川英治「新平家物語」などを思い出す。「聞けわだつみの声」は本が擦り切れるほどに再読した。
読んで面白くない小説は小説にあらずと云い、その小説を書くのが嫌になったとし情死を選んだ無頼派の太宰治には私自身ある時期傾倒していた。
ニヒルなダンディズムというか孤独でありながら女性たちに構われる美貌の青年作家の翳に惹かれた。
昨秋、津軽の「斜陽館」を訪れ、太宰文学に漬かっていたあの頃の自分を思い出しみじみとした感慨、郷愁を味わった。もっとそこにいてわが青春も回顧したいので必ず再度訪れて今度は「グッドバイ」をしてきたいと思っている。
愛読誌「キネマ旬報」でハリウッド女優に憧れて映画を観まくり、ロシヤ民謡の叙情旋律に感動し自らもロシヤ語で歌う専門合唱団で活動する傍ら、ヤンキーゴーホーム!民族独立を唱え学生運動にもしばし加担した。
そして大学の絵画クラブでクロッキーにも夢中になっていた。今でもその古い画帳が残っていて古いコンテの匂いを感じることがある。
貧乏暇なし、若い時は二度とない。なんでもありの学生生活であったが、今顧みるとそれが人生の可能性を広げてくれたのではないかと思う。
「青春の門」ともいえる多感で激動の時代体験であった。
以上
(後記:実は私の主宰する「みずき会」の水彩画展が昨日4月3日に終わりました。嵐の中の劇的なフィナーレでした。みずき会は今の私の生甲斐となっています。「青春の門」を開き色々な道をたどり行き着いた最終章のテーマだと思っています。いつまでか私にも分かりません。
青春時代のような可能性への挑戦はありませんが、いつも絵を描く時には或るときめきを
覚えます。このドキドキ感があるうちは絵と暮らすことになるでしょう)
自己紹介:東京都出身、横浜市金沢区在住、 2002年、金属製造業の会社を退職後、かねてより趣味の水彩風景画に特化し多くの画家からの啓発を受けながら、ブラッシュアップに努めています。 イギリスをはじめ欧米各国の町や村を訪れ旅の道すがらスケッチ・水彩を楽しみました。 2002年、日曜画家集団の「チャーチル会ヨコハマ」に入会し、今は幹事長を仰せつかっています。2004年1月に自身で主宰する水彩風景画教室「みずき会」を立ち上げ現在に至ります。 2011年2月に油彩を描く妻と「水と油の夫婦展」を横浜で開催し、お蔭様で画廊新記録となるご来場をいただきました。併せて念願の「水彩風景画集」を発刊しました。 コーラスを愛好し会社時代には、合唱団に所属、併せて外部の某セミプロ合唱団も手伝い、仕事の合間を見つけて公演活動に励みました。 2009,2010年は40年ぶりに横浜交響楽団と「第九」を歌いました。スポーツは、学生時代はバレーボール、スキー、後年はゴルフですが、今は絵に集中しています。
2012/04/04
2012/02/29
人生色々こぼれ話(14) 〜戦後の闇市文化
人生色々こぼれ話(14)戦後の闇市文化
戦後の貧困と飢餓の裏側に闇市の跋扈(ばっこ)があった。戦争に負けても人々の食べる為の生存競争は熾烈を極めた。名ばかりの配給品は遅配、欠配でとても飢えを凌げるわけがない。住む家を失い衣食住共に極度の窮乏状態にあった。
そこに駅前広場や盛り場に闇市が出現し、一種の戦後風物となった。
横流し、盗品、密造品,進駐軍の残飯などの食料品を始め鍋、釜の日用品までところ狭しと立ち並び、日々賑わった。
空襲による焼け跡や建物疎開の空地が闇市により次々と不法占拠された。農家からの穀類野菜、イモ。豆などを始め、北海道のするめ、どぶろく、カストリ焼酎、進駐軍の残飯シチューなどを露天で売るのだが、そのうち的屋(てきや)が現れ、地割などを仕切るようになった。青空市場と言うよりまるで小規模なバラック商店街の様相である。
闇市なので値段は高いのだが、配給物資はほぼ底をついていたので人々は生き延びるために闇市に頼らざるを得なかった。当時の都市部のエンゲル係数(生活費に占める飲食費の割合)は70%であった。
街角に立つ復員傷病兵の物乞い、ガード下の孤児達の靴磨き、そして夜の街角に佇む女達(通称パンパンガール)など敗戦国日本の闇は深かった。
戦災浮浪児は12万人に達したとの記録が残るが、住宅街で靴をかっぱらい闇市に走り、モク拾いで小銭を稼ぐ浮浪児の姿や「♪こんな女に誰がした」と歌われた闇の女達は哀れではあったが、それがその時代の生き様であり、居直りの姿でもあった。
夕暮れともなると日比谷のGHQ本部(今の第一生命ビル)の傍には高級士官を待つ一級のパンパン嬢がたむろしていた。
私はその姿に敗戦日本の屈辱感を噛締めていた。
立川基地でパンパンをやっていた自分の過去を知られたくないので殺人を犯すというストーリーで、松本清張の「ゼロの焦点」が出たが、この時代背景の中でのテーマ性が高く、その後映画、TVでも相次いで上映されている。
折りしも流れてきた「リンゴの唄」(前出)の爽やかで明るいメロデーに人々はどれほどの励ましと勇気を貰ったか計り知れない。
私は今でもこのメロデーを口ずさむと「♪リンゴ可愛いや、可愛いやリンゴ」の のどかな津軽風景ではなく、戦後の荒廃した新橋や新宿の闇市のモノクロ映像が重なって見えてくるのだ。
そんな極限の時代に喘ぎ苦しみながら、なぜか人々には笑顔があり、身を堕とし誇りを捨てながらも明日への希望の灯をともし続けていたように思う。
新宿西口一帯にテキ屋安田組が仕切る闇市があった。アルバイトで稼いではこの一角で芋饅頭を頬張り、進駐軍の残飯シチューで空腹を満たした。トマト味のスープにコンビーフ、鳥の骨、魚の頭、じやがいも、キャベツの芯、にんじん、パセリ、パンの耳、などのごった煮に一杯10円でありつける。すっぱい匂いがして乙なものではないが、家で食べるすいとんより味があり栄養価も高い。ステーキの食べ残しが入っていようものなら大当たりとなる。
ただし中から色々な付録が出てくる。英字新聞、ビールの金冠、タバコの空き箱、チュウインガムのかす、などであるが、或る日友人N君のどんぶりからコンドームが出てきたのにはさすがにたじろいだ。
思えば進駐軍の残飯シチューのおかげで、生き延びていたような気がする。文句なく闇市文化のナンバーワンに推したい。
今でも「思い出横丁」の名前で往時の姿を偲ばせる一角が残っている。
ここでは本物の特製ブイヤベースが味わえるのかも知れない。
新宿東口の闇市はスケールが大きかった。テキ屋、クレン隊、博徒が入り乱れまるでギャング街の様相で近寄りがたかった。悲惨にもメチールアルコールの入った密造酒で失明したり、命を落とした事例も少なくないと聞く。
空いているのは腹と米びつ、空いていないのは乗り物と住宅といわれた時代である。
新橋駅裏の闇市は本邦第一号である。終戦の日からわずか5日後には何処からともなく人々が集まり闇物資を持ち込み露店で営業を始めたといわれる。やがて何でも手に入る百貨市の様相を呈した。食べ物だけではなく鍋、釜、電熱コンロ、布団、靴、洋服、下着など日用品も手に入る。米は統制品なので摘発されたようだが、銀シャリは加工品なのでパスである。
スルメは日持ちが良いので大量に持ち込まれ、貨幣の役割すら果たしていた。つまりお酒
一合がスルメ一枚で買えるといった具合である。
以前にも触れたが、食料品の買出しは命がけであった。鈴なりの列車で千葉や茨城の農家を訪ね穀類や野菜を仕入れる。お金がないので着物、帯などとの物々交換も常套手段であった。世に言うタケノコ生活(竹の子の皮のように一枚一枚身をはいでゆく)である。
私も時に母から荷役に刈りだされた。常磐線柏駅から4~5kmの農家であった。お米やサツマイモ、南京豆(母はこれを転売していたと思う)などを背嚢に一杯詰め込み、肩には振り分け荷物、両手は手提げ袋、殆ど身動きの取れない状態であったが、これが家族の命をつなぐとの使命感から、火事場の馬鹿力で運び帰った。客車の天井に這いつくばって、汽車の煙で煤にまみれながらの帰還もあった。
3時間近くの長旅(帰路は荷物で重いためか汽車ものろい)で上野駅に着くと警察の摘発が網を張って待っている。人数は買い出し部隊のほうが圧倒的に多いものの、荷物ごと持ってそのまま逃げると捕捉されやすいので、一箇所に荷物をまとめ、母がこれを見張りし、私が物陰に一つづつを運び尺取虫のように移動してゆく。
狙われたら必ず捕まるので、警官の目に留まらないようにまるで忍者の早業のように隠れ忍んでは、隙を突いて飛び出す。学校でバレーボールの練習で鍛えていたフッとワーク、筋力がタテヨコの動きを敏捷にしてくれたのだろう。毎回違法ながら、命のお米を運び続けた。
「腹を空かせ、病に苦しむ子供たちを救おう」と食料品、医薬品、日用品などの救援物資
が「ララ物資」として海外のNGOの手により届けられた。クリスマスに間に合うようにと、終戦の翌年昭和21年11月30日横浜港に第1船が入港の記録(ウィキペディア)がある。
当初は南北アメリカ大陸の日系人が寄付の中心であったようだが、週に一度の昼食を抜いてそのお金を日本の子供達への募金に回すという運動はアメリカや各国のボランティア活動として広がり、「ゴール・1000万ドル 日本難民救済」というキャンペーンになり、アメリカでは全米放送を通じて全国民に呼びかけたとなっている。
この生活物資の救済は昭和26年(1951)まで続けられその総額は当時の価値で400億円に達したと記されている。
昭和47年頃少年3人の我が家にもララ物資として小麦粉とコンビーフの缶詰が届いた。真っ白な小麦粉で作ったホットケーキにコンビーフを挟んで食べた即席サンドウイッチの美味しさを今でも忘れない。
♪ララのみなさんありがとう♪という歌があった。
以上
(再び戦争直後の話に戻りましたが、進駐軍の「残飯シチュー」はどうしても書き残したくていつかはと思っていました。戦後の惨憺たる食糧事情は今想起してもなかなか実感がわきません。ただやたらにおなかが空いていました。食べ盛りの男の子3人を抱えて母の苦労は如何ばかりであったかと思います。
私はよく子供達に好き嫌いを諭したり、食べ残しをとがめたりしましたが、どこかに自身の戦後体験があり、残飯を食べていた私にとってはなんでもつい“勿体ない”という言葉が口をついて出てしまいます。
「すいとん」を食べさせても美味しいし、「残飯シチュー」も模しても特製おじやが出来上がるので子供達への戦後疑似体験は出来ませんでした。)
戦後の貧困と飢餓の裏側に闇市の跋扈(ばっこ)があった。戦争に負けても人々の食べる為の生存競争は熾烈を極めた。名ばかりの配給品は遅配、欠配でとても飢えを凌げるわけがない。住む家を失い衣食住共に極度の窮乏状態にあった。
そこに駅前広場や盛り場に闇市が出現し、一種の戦後風物となった。
横流し、盗品、密造品,進駐軍の残飯などの食料品を始め鍋、釜の日用品までところ狭しと立ち並び、日々賑わった。
空襲による焼け跡や建物疎開の空地が闇市により次々と不法占拠された。農家からの穀類野菜、イモ。豆などを始め、北海道のするめ、どぶろく、カストリ焼酎、進駐軍の残飯シチューなどを露天で売るのだが、そのうち的屋(てきや)が現れ、地割などを仕切るようになった。青空市場と言うよりまるで小規模なバラック商店街の様相である。
闇市なので値段は高いのだが、配給物資はほぼ底をついていたので人々は生き延びるために闇市に頼らざるを得なかった。当時の都市部のエンゲル係数(生活費に占める飲食費の割合)は70%であった。
街角に立つ復員傷病兵の物乞い、ガード下の孤児達の靴磨き、そして夜の街角に佇む女達(通称パンパンガール)など敗戦国日本の闇は深かった。
戦災浮浪児は12万人に達したとの記録が残るが、住宅街で靴をかっぱらい闇市に走り、モク拾いで小銭を稼ぐ浮浪児の姿や「♪こんな女に誰がした」と歌われた闇の女達は哀れではあったが、それがその時代の生き様であり、居直りの姿でもあった。
夕暮れともなると日比谷のGHQ本部(今の第一生命ビル)の傍には高級士官を待つ一級のパンパン嬢がたむろしていた。
私はその姿に敗戦日本の屈辱感を噛締めていた。
立川基地でパンパンをやっていた自分の過去を知られたくないので殺人を犯すというストーリーで、松本清張の「ゼロの焦点」が出たが、この時代背景の中でのテーマ性が高く、その後映画、TVでも相次いで上映されている。
折りしも流れてきた「リンゴの唄」(前出)の爽やかで明るいメロデーに人々はどれほどの励ましと勇気を貰ったか計り知れない。
私は今でもこのメロデーを口ずさむと「♪リンゴ可愛いや、可愛いやリンゴ」の のどかな津軽風景ではなく、戦後の荒廃した新橋や新宿の闇市のモノクロ映像が重なって見えてくるのだ。
そんな極限の時代に喘ぎ苦しみながら、なぜか人々には笑顔があり、身を堕とし誇りを捨てながらも明日への希望の灯をともし続けていたように思う。
新宿西口一帯にテキ屋安田組が仕切る闇市があった。アルバイトで稼いではこの一角で芋饅頭を頬張り、進駐軍の残飯シチューで空腹を満たした。トマト味のスープにコンビーフ、鳥の骨、魚の頭、じやがいも、キャベツの芯、にんじん、パセリ、パンの耳、などのごった煮に一杯10円でありつける。すっぱい匂いがして乙なものではないが、家で食べるすいとんより味があり栄養価も高い。ステーキの食べ残しが入っていようものなら大当たりとなる。
ただし中から色々な付録が出てくる。英字新聞、ビールの金冠、タバコの空き箱、チュウインガムのかす、などであるが、或る日友人N君のどんぶりからコンドームが出てきたのにはさすがにたじろいだ。
思えば進駐軍の残飯シチューのおかげで、生き延びていたような気がする。文句なく闇市文化のナンバーワンに推したい。
今でも「思い出横丁」の名前で往時の姿を偲ばせる一角が残っている。
ここでは本物の特製ブイヤベースが味わえるのかも知れない。
新宿東口の闇市はスケールが大きかった。テキ屋、クレン隊、博徒が入り乱れまるでギャング街の様相で近寄りがたかった。悲惨にもメチールアルコールの入った密造酒で失明したり、命を落とした事例も少なくないと聞く。
空いているのは腹と米びつ、空いていないのは乗り物と住宅といわれた時代である。
新橋駅裏の闇市は本邦第一号である。終戦の日からわずか5日後には何処からともなく人々が集まり闇物資を持ち込み露店で営業を始めたといわれる。やがて何でも手に入る百貨市の様相を呈した。食べ物だけではなく鍋、釜、電熱コンロ、布団、靴、洋服、下着など日用品も手に入る。米は統制品なので摘発されたようだが、銀シャリは加工品なのでパスである。
スルメは日持ちが良いので大量に持ち込まれ、貨幣の役割すら果たしていた。つまりお酒
一合がスルメ一枚で買えるといった具合である。
以前にも触れたが、食料品の買出しは命がけであった。鈴なりの列車で千葉や茨城の農家を訪ね穀類や野菜を仕入れる。お金がないので着物、帯などとの物々交換も常套手段であった。世に言うタケノコ生活(竹の子の皮のように一枚一枚身をはいでゆく)である。
私も時に母から荷役に刈りだされた。常磐線柏駅から4~5kmの農家であった。お米やサツマイモ、南京豆(母はこれを転売していたと思う)などを背嚢に一杯詰め込み、肩には振り分け荷物、両手は手提げ袋、殆ど身動きの取れない状態であったが、これが家族の命をつなぐとの使命感から、火事場の馬鹿力で運び帰った。客車の天井に這いつくばって、汽車の煙で煤にまみれながらの帰還もあった。
3時間近くの長旅(帰路は荷物で重いためか汽車ものろい)で上野駅に着くと警察の摘発が網を張って待っている。人数は買い出し部隊のほうが圧倒的に多いものの、荷物ごと持ってそのまま逃げると捕捉されやすいので、一箇所に荷物をまとめ、母がこれを見張りし、私が物陰に一つづつを運び尺取虫のように移動してゆく。
狙われたら必ず捕まるので、警官の目に留まらないようにまるで忍者の早業のように隠れ忍んでは、隙を突いて飛び出す。学校でバレーボールの練習で鍛えていたフッとワーク、筋力がタテヨコの動きを敏捷にしてくれたのだろう。毎回違法ながら、命のお米を運び続けた。
「腹を空かせ、病に苦しむ子供たちを救おう」と食料品、医薬品、日用品などの救援物資
が「ララ物資」として海外のNGOの手により届けられた。クリスマスに間に合うようにと、終戦の翌年昭和21年11月30日横浜港に第1船が入港の記録(ウィキペディア)がある。
当初は南北アメリカ大陸の日系人が寄付の中心であったようだが、週に一度の昼食を抜いてそのお金を日本の子供達への募金に回すという運動はアメリカや各国のボランティア活動として広がり、「ゴール・1000万ドル 日本難民救済」というキャンペーンになり、アメリカでは全米放送を通じて全国民に呼びかけたとなっている。
この生活物資の救済は昭和26年(1951)まで続けられその総額は当時の価値で400億円に達したと記されている。
昭和47年頃少年3人の我が家にもララ物資として小麦粉とコンビーフの缶詰が届いた。真っ白な小麦粉で作ったホットケーキにコンビーフを挟んで食べた即席サンドウイッチの美味しさを今でも忘れない。
♪ララのみなさんありがとう♪という歌があった。
以上
(再び戦争直後の話に戻りましたが、進駐軍の「残飯シチュー」はどうしても書き残したくていつかはと思っていました。戦後の惨憺たる食糧事情は今想起してもなかなか実感がわきません。ただやたらにおなかが空いていました。食べ盛りの男の子3人を抱えて母の苦労は如何ばかりであったかと思います。
私はよく子供達に好き嫌いを諭したり、食べ残しをとがめたりしましたが、どこかに自身の戦後体験があり、残飯を食べていた私にとってはなんでもつい“勿体ない”という言葉が口をついて出てしまいます。
「すいとん」を食べさせても美味しいし、「残飯シチュー」も模しても特製おじやが出来上がるので子供達への戦後疑似体験は出来ませんでした。)
2012/01/30
人生色々こぼれ話(13) ジャズ、シネマ、ラッキー・ストライク
人生色々こぼれ話(13)
ジャズ、シネマ、ラッキー・ストライク
ある雑誌に投稿した一文(1997年)がある。前編と重なる部分があるが、いわば青春のプレイバックとしてその一節を復刻してみる。
『荒れ果てた東京にアメリカはガムやコーラと共にエキサイティングな文化を次々と持ち込んできた。私はラッキー・ストライクにむせ返り、ハリウッド女優のポートレート集めにうつつを抜かしていた。
洋画のカルチャーショツクは強烈であった。何しろそれまでの軍国の教条主義映画から一気に夢のミュージカル、スペクタクル、ロマンスが外国語と共にスクリーンから飛び込んでくるのだから、気を鎮めてというほうが無理である。大学に進んでからは、新宿の映画館をはしごで観て回り、酎ハイで評論に花を咲かせた。
今再び Shall we dance なのだそうだが、私も当時はスタンダード・ジャズの生バンドでトロットやジルバーのステップに大いに興じた。それに飽き足らず会場とバンドを確保しダンスパーテイーを企画した。
サークルでのクロッキーが現在の風景水彩画に。黒人霊歌やロシヤ民謡のコーラスがカラオケに、山スキーの上り下りが渓流釣りに、そしてアメリカ人の家庭でのアルバイトが海外への旅マニアへと、あの頃の新鮮な体験や動機付けが現在の趣味に繋がっているように思える。
「青春とは年齢ではなく心の持ち方である」といった先人がいるが若者だけに与えられる奔放な特権をもう取り戻すことは出来ないのだから、せめて新しいことに興味を持ち何かに熱中することで心の青春を保ちたいものである。
さて当時の原資はアルバイトに尽きる。大学に進んでからは街頭でのピーナッツ売り、ライターの石の交換、スピード籤売りなど手当たり次第に試みた。
スピード籤はその場で三角形の籤を開くとタバコ等の当たりが分かるのだが、出来の粗末な籤が混入していて、糊の剥れた隙間から覗くとチラッと印が判別できる。いんちき極まりないがこれで賞品ゲットとなる。
高温・粉塵の中、新子安あたりにあった鋳物工場の肉体労働はさすがにきつかった。
弟は築地で火の用心!!の夜回りをしていたが、居眠りの間に出火となり、直ぐ首になった。
彼は米軍基地の浴場の三助もやるが黒人の巨大なものを洗わされて自ら辞めた。
1948年頃始めたラブレター書きます!の代書屋は繁盛した、当時のコミュニケーションの手段は手紙が普通である。シュチエーションを聴き取り、相手の心に囁き、時に揺るがすような名文(原稿用紙3~4枚)を書き綴り、当人はそれを自筆しラブレターとなる。 成功率80%を誇る出来栄えであった。おかげさまでのサンクスレターも来た。
平均1通200円の報酬だがハガキ50銭の時代なので今の価値にすれば2万円相当の破格のものであった。お客を捕まえてくるいわばポン引き(失礼)には20円の手数料を払う仕組みである。昼食2回分くらいである。
自分は現実にはもてないのに、美文家の友人がいたが、それぞれ手の内は見せなかった。ヒントやボキャブラリーは大学ノートいっぱいになった。 今も文章つくりは嫌いではないが、その素養はラブレター書きに発するのではとも思える。
1950年頃渋谷に「恋文横丁」というのがあって“英語の恋文引き受けます”の代書屋が並んでいた。本国に帰った米兵に、日本の女性からの手紙を代行して書く仕事である。追いかけていって結婚した女性も少なくないし、残された子供を一人で育てた実話も尽きない。後に丹羽文雄が「恋文」という小説を書いたそのバックグランドである。田中絹代主演の映画にもなった。 時代を反映した何処となく哀愁の漂う世相を感じる。後に出た森村誠一の「人間の証明」にどこか通じるものが読み取れる。
それにしても恋文代行業のはしりは、私&仲間達であったのではと思えてくる。
話は再び終戦直後に戻るが、暗く貧しい呆然自失の戦後に希望の歌声が沸きあがりラジオに合わせて人々が口ずさんだのが“赤いリンゴに唇よせて・・・“で始まる「リンゴの唄」だった。終戦の年の10月に早くも封切られた映画「そよかぜ」の挿入歌であった。明るい曲調と飾り気のない爽やかな歌詞は日本中を文字通りそよ風のように吹き抜けていった。
翌年有楽町の日劇に当の歌手並木路子がきた。映画『そよかぜ』と実演に夢中になり何度も通った。入れ替え制であったが、トイレに隠れ次の回もすんなりと客席に戻った。この手立ては常用し、友人、弟たちと日劇に出かけていっては、いち早く新曲を覚えて仲間に広げた。手つくりの歌集も作った。好きな灰田勝彦の歌は完璧にマスターした。今となると何となく歌声喫茶のはしりであったような気がする。
日劇の舞台に必ず登場するダンシングチーム(NDT)の華やかなラインダンスを観るのも楽しみであった。谷桃子、松山樹子、根岸明美、北原三枝等が所属していた。
戦後の日本ジャズ界を代表するミュージシャン渡辺弘が率いる「スターダスターズ」やハワイアンバンドの「灰田晴彦とニューモアナ」の演奏会には好んで出かけた。
私は当時旧制中学5年(現都立青山高校)である。神宮球場の向かいに学校が位置していて憧れの早慶戦ともなると気もそぞろで、友人達と午後の授業は放棄し観戦に出かけた。戦後の自由主義のお陰か、こんなエスケープも大目に見てくれ学校から特にお咎めもなかった。自らも何か運動をということで、終戦で学校に帰ると直ぐに好きなバレーボール部に入り、放課後は遅くまで練習を重ねた。そのお陰で急に身長が伸び筋肉質の体になった。
当時私達家族は母の知人の家を間借りして辻堂に住んでいた。鈴なりの満員列車での通学は死のもの狂いの様相であった。バレーボールの練習の後、空腹の長距離帰宅は辛かった。
弟は或る日デッキからはみ出し、鉄橋に足を掬われあわや振り落とされるところであったが手すりにぶら下がり藤沢駅のホームに滑り込んで一命を取り留めた。野球部で鍛えていた腕力のお陰である。重傷で、市内の外科に担ぎ込まれたが、マーキロとメンソレターム程度の薬しかなく、
膿が広がり、入院を余儀なくされた。今でも彼の足の甲には名誉の傷あとが残っている。
以上
(戦後を行ったり来たりの話しになりましたが、連想的に場面が出てくるのでそこはお許し下さい。このこぼれ話を綴る日は殆ど何の構想もなくパソコンの前に座ります。やがて20分から30分位瞑想していると、頭の中にランダムにテーマや映像が出てきます。最初の書き出しが難しいですが後はだんだん調子が出てきて饒舌になります。時系列に整理された順序ではないので、テンス(時制)がでたらめなのですが、こぼれ話だからいいや!と自分で妥協しています。
今回もそんなことで回想したものですが、読み返してみるとやはりモノクロの世界だなと思います。)
ジャズ、シネマ、ラッキー・ストライク
ある雑誌に投稿した一文(1997年)がある。前編と重なる部分があるが、いわば青春のプレイバックとしてその一節を復刻してみる。
『荒れ果てた東京にアメリカはガムやコーラと共にエキサイティングな文化を次々と持ち込んできた。私はラッキー・ストライクにむせ返り、ハリウッド女優のポートレート集めにうつつを抜かしていた。
洋画のカルチャーショツクは強烈であった。何しろそれまでの軍国の教条主義映画から一気に夢のミュージカル、スペクタクル、ロマンスが外国語と共にスクリーンから飛び込んでくるのだから、気を鎮めてというほうが無理である。大学に進んでからは、新宿の映画館をはしごで観て回り、酎ハイで評論に花を咲かせた。
今再び Shall we dance なのだそうだが、私も当時はスタンダード・ジャズの生バンドでトロットやジルバーのステップに大いに興じた。それに飽き足らず会場とバンドを確保しダンスパーテイーを企画した。
サークルでのクロッキーが現在の風景水彩画に。黒人霊歌やロシヤ民謡のコーラスがカラオケに、山スキーの上り下りが渓流釣りに、そしてアメリカ人の家庭でのアルバイトが海外への旅マニアへと、あの頃の新鮮な体験や動機付けが現在の趣味に繋がっているように思える。
「青春とは年齢ではなく心の持ち方である」といった先人がいるが若者だけに与えられる奔放な特権をもう取り戻すことは出来ないのだから、せめて新しいことに興味を持ち何かに熱中することで心の青春を保ちたいものである。
さて当時の原資はアルバイトに尽きる。大学に進んでからは街頭でのピーナッツ売り、ライターの石の交換、スピード籤売りなど手当たり次第に試みた。
スピード籤はその場で三角形の籤を開くとタバコ等の当たりが分かるのだが、出来の粗末な籤が混入していて、糊の剥れた隙間から覗くとチラッと印が判別できる。いんちき極まりないがこれで賞品ゲットとなる。
高温・粉塵の中、新子安あたりにあった鋳物工場の肉体労働はさすがにきつかった。
弟は築地で火の用心!!の夜回りをしていたが、居眠りの間に出火となり、直ぐ首になった。
彼は米軍基地の浴場の三助もやるが黒人の巨大なものを洗わされて自ら辞めた。
1948年頃始めたラブレター書きます!の代書屋は繁盛した、当時のコミュニケーションの手段は手紙が普通である。シュチエーションを聴き取り、相手の心に囁き、時に揺るがすような名文(原稿用紙3~4枚)を書き綴り、当人はそれを自筆しラブレターとなる。 成功率80%を誇る出来栄えであった。おかげさまでのサンクスレターも来た。
平均1通200円の報酬だがハガキ50銭の時代なので今の価値にすれば2万円相当の破格のものであった。お客を捕まえてくるいわばポン引き(失礼)には20円の手数料を払う仕組みである。昼食2回分くらいである。
自分は現実にはもてないのに、美文家の友人がいたが、それぞれ手の内は見せなかった。ヒントやボキャブラリーは大学ノートいっぱいになった。 今も文章つくりは嫌いではないが、その素養はラブレター書きに発するのではとも思える。
1950年頃渋谷に「恋文横丁」というのがあって“英語の恋文引き受けます”の代書屋が並んでいた。本国に帰った米兵に、日本の女性からの手紙を代行して書く仕事である。追いかけていって結婚した女性も少なくないし、残された子供を一人で育てた実話も尽きない。後に丹羽文雄が「恋文」という小説を書いたそのバックグランドである。田中絹代主演の映画にもなった。 時代を反映した何処となく哀愁の漂う世相を感じる。後に出た森村誠一の「人間の証明」にどこか通じるものが読み取れる。
それにしても恋文代行業のはしりは、私&仲間達であったのではと思えてくる。
話は再び終戦直後に戻るが、暗く貧しい呆然自失の戦後に希望の歌声が沸きあがりラジオに合わせて人々が口ずさんだのが“赤いリンゴに唇よせて・・・“で始まる「リンゴの唄」だった。終戦の年の10月に早くも封切られた映画「そよかぜ」の挿入歌であった。明るい曲調と飾り気のない爽やかな歌詞は日本中を文字通りそよ風のように吹き抜けていった。
翌年有楽町の日劇に当の歌手並木路子がきた。映画『そよかぜ』と実演に夢中になり何度も通った。入れ替え制であったが、トイレに隠れ次の回もすんなりと客席に戻った。この手立ては常用し、友人、弟たちと日劇に出かけていっては、いち早く新曲を覚えて仲間に広げた。手つくりの歌集も作った。好きな灰田勝彦の歌は完璧にマスターした。今となると何となく歌声喫茶のはしりであったような気がする。
日劇の舞台に必ず登場するダンシングチーム(NDT)の華やかなラインダンスを観るのも楽しみであった。谷桃子、松山樹子、根岸明美、北原三枝等が所属していた。
戦後の日本ジャズ界を代表するミュージシャン渡辺弘が率いる「スターダスターズ」やハワイアンバンドの「灰田晴彦とニューモアナ」の演奏会には好んで出かけた。
私は当時旧制中学5年(現都立青山高校)である。神宮球場の向かいに学校が位置していて憧れの早慶戦ともなると気もそぞろで、友人達と午後の授業は放棄し観戦に出かけた。戦後の自由主義のお陰か、こんなエスケープも大目に見てくれ学校から特にお咎めもなかった。自らも何か運動をということで、終戦で学校に帰ると直ぐに好きなバレーボール部に入り、放課後は遅くまで練習を重ねた。そのお陰で急に身長が伸び筋肉質の体になった。
当時私達家族は母の知人の家を間借りして辻堂に住んでいた。鈴なりの満員列車での通学は死のもの狂いの様相であった。バレーボールの練習の後、空腹の長距離帰宅は辛かった。
弟は或る日デッキからはみ出し、鉄橋に足を掬われあわや振り落とされるところであったが手すりにぶら下がり藤沢駅のホームに滑り込んで一命を取り留めた。野球部で鍛えていた腕力のお陰である。重傷で、市内の外科に担ぎ込まれたが、マーキロとメンソレターム程度の薬しかなく、
膿が広がり、入院を余儀なくされた。今でも彼の足の甲には名誉の傷あとが残っている。
以上
(戦後を行ったり来たりの話しになりましたが、連想的に場面が出てくるのでそこはお許し下さい。このこぼれ話を綴る日は殆ど何の構想もなくパソコンの前に座ります。やがて20分から30分位瞑想していると、頭の中にランダムにテーマや映像が出てきます。最初の書き出しが難しいですが後はだんだん調子が出てきて饒舌になります。時系列に整理された順序ではないので、テンス(時制)がでたらめなのですが、こぼれ話だからいいや!と自分で妥協しています。
今回もそんなことで回想したものですが、読み返してみるとやはりモノクロの世界だなと思います。)
2012/01/06
人生色々こぼれ話(12) ~進駐軍がやってきた
人生色々こぼれ話(12)
進駐軍がやってきた
1945年(昭和20年)8月、日本はポツダム宣言により連合国に軍事占領されることとなった。主として米軍による占領組織として進駐軍と呼ばれるおびただしい数の軍隊がやってきた。 連合国最高司令部総司令官(GHQ)の指示命令を受けて日本政府が日本の政治機構をそのままに利用し占領政策を実施するのである。
昨日まで鬼畜米英として♪いざ来いニミッツ、マッカーサー出て来りゃ地獄へ逆落とし♪などと敵愾心丸出しで名指ししていたその本人が総司令官としてパイプを加えて厚木基地に降り立ったのは8月30日であった。
日本人の命運はこの日から彼の統率に委ねられることとなった。
国敗れてマッカーサーありの歴史的な転換であった。
街のあちこちに「マッカーサーの命令により立ち入りを禁ず」との立札すら目立った。彼が引き連れてきた軍隊は「米軍騎兵第1師団」であるがレイテ島、ルソン島、マニラと歴戦を重ねたいわば筋金入りの精鋭部隊であった。
これが日本軍の野暮ったい出で立ちと違い、背が高くて格好が良い。洒落たデザインのキャップを斜めにかぶり、粋なジャンパーには騎兵の腕章を輝かせて我がもの顔で町なかを闊歩する。4駆のジープに乗り疾走する。
チョコレートやチュウインガムをばら撒く。子供は群がり、大人はしけもく(タバコの吸殻)拾いに夢中である。「ギミーチョコレッツ」子供達が発するこの言葉が、英会話第一声だったのではと思う。
「日米会話手帳」なるぺらぺらのパクリ本(9cm×12cm・32ページ)が終戦の翌月に世に出て忽ちベストセラーになった。表紙に「Anglo・japanese Conversatoin Manual」とあるのは笑ってしまう。
その後、同種の本は雨後の竹の子のように出版されるのだが、この会話手帳の発案者は
敗戦のその日にひらめいて即実行という早業で驚くばかり。
皆が等しく悲嘆と鎮魂の淵に沈んでいる時に、頭を切り替え商魂たくましくばね仕掛けで動き出し、3日で初稿を完成したという。初版の定価は八十銭、闇値も付き年内に360万部を発行したと伝えられているがそのうち紙くずとなり現存しているものは何処にもないという。
実は当時私も連られて入手したものの、中身のお粗末さ加減に呆れてその場限りで以降読んだこともない。これも先見のなさで、もし持っていたらどんなお宝になっていたやら。
明くる1946年2月にはNHKラジオを平川唯一という人の「英会話教室」が放送開始となった。毎週月~金の午後6時から15分の番組であった。
テーマソングは今でも覚えている。
♪Come come everybody How do you do and how are you?
W’ont you have some candy One and two and three four five
Let’s all sing a happy song Sing tra-la la la la♪
これがあの「証城寺の狸囃子」のメロディに乗せてテーマソングとして軽快に流れてくるので、自然に引き込まれてしまう感じである。
ついでに英語の話であるが、翌年私は旺文社の赤尾好夫編「英語基本単語集」と「英語の総合的研究」を超猛勉して早稲田に入った。これは受験用の名著であった。
寝ても醒めても愛読書のように手放さなかった。
当時豆単といって多くの学生が愛用していたものだが、豆単は2冊目を今でも保存している。青春の名残を覚える懐かしい蔵書である。
進学して比較的割の良い進駐軍のハウスでのアルバイト(当時のはやりことば)もこなした。
国際軍事裁判所(市ケ谷)の住宅のベルボーイにはじまり、ワシントンハイツ(代々木)のハウスボーイなどである。ワシントンハイツでは、メイドさんが休んだので奥さんが私に女性の下着を洗濯させた。私は契約違反と怒って即座に辞めた。奥さんは驚いて我が家を訪問し詫びたが母が応対しあくまで辞退した。軍国の母は強かった。
弟の正雄が米兵をぶん殴りMP(米軍の警察)に御用となり、留置場に連行された事件があったが、これも母が交渉に行き無事連れ戻した。 粋なジャンパーのアメリカ兵がずたずたになった小気味良い話である。然し前科となった弟は二度と米兵といさかいを起こしたことはない。
進駐軍の駐屯基地のある芝浦方面に出かけるのはちょっと勇気が要った。品川から真っ暗い長いトンネルを抜けるのだが米兵の黒い塊と時折すれ違う。顔も黒いから目玉だけが光る。壁際に身を寄せてやり過ごすしかない。大声で汚い言葉を吐きながら通り過ぎる。
屈辱感が身に溢れ出た。
1947年頃だと思う、接収された新橋の第1ホテルで進駐軍のダンスパーテイに侍る機会が何度かあった。
演奏する「ブルーコーツ」という楽団のトランペッターのHさん(母の知人)がバンドボーイとして私と弟を招き入れてくれた。
流れる甘いジャズの音色に心が融けるほど酔いしれた。こんな美味しい飲み物があるのか
とコカコーラをげっぷがでるほどに頂いた。
当時のジャズは歌詞も単純でわかり易く、心に響いた。
このとき、ひらめいたのは、自分で確保したホールにジャズバンドを呼んできて、ダンスパーテイを企画することだった。
翌年友人達と相談し手分けして事に当たった。場所の確保、スイング、タンゴ、ハワイアンなどのバンドと歌手を探しての契約、チケットを作る、売りさばく、当日を運営するなど一通りの興行のお膳立が必要だった。契約の前金はN君が何処からか工面してきた。私は主としてチケットの販売に当たった。早稲田の学生という立場が身分証明となり、女子大のキャンパスに通うと忽ち売れた。
戦後の混乱もやや落ちついた頃社交ダンスは流行の兆しにあった。何度企画してもチケットは完売である。勿論税務所には届けて自ら納税済みの捺印をするのだが、枚数は自己申告だった。
そのうち、自分自身がダンスにはまり、本格的に教習所通いが始まった。
「タキシード ジャンクション」「ビギン ザ ビギン」「スターダスト」「ペイパームーン」
「スローボート ツー チャイナ」・・・など懐かしのレパートリーは100を超えるであろう。
戦後のジャズブームも、進駐軍と共にやってきたように思う。
以上
(皆さんお正月気分は如何ですか。私は友人達8名で日本橋界隈の七福神巡りをしてきました。もっと良い絵がたくさん描けるようにと神頼みもしました。
こぼれ話を再開します。進駐軍は良くも悪くも戦後の象徴の一つでした。こんな馬鹿でかい奴とよくも戦争をしていたものだと思いました。
家の女中さん(前回紹介したCHYOBUSUさん)が町で花束を抱えていたら 気の毒な花売りおばさんと間違えられてGIに How much? と問いかけられる。
彼女はTAMACHIと聞いて 親切心で身振り手振りで田町駅方面を指差す。米兵はきょとん顔 ????
今でも我が家に伝わる微笑ましいエピソードです)
進駐軍がやってきた
1945年(昭和20年)8月、日本はポツダム宣言により連合国に軍事占領されることとなった。主として米軍による占領組織として進駐軍と呼ばれるおびただしい数の軍隊がやってきた。 連合国最高司令部総司令官(GHQ)の指示命令を受けて日本政府が日本の政治機構をそのままに利用し占領政策を実施するのである。
昨日まで鬼畜米英として♪いざ来いニミッツ、マッカーサー出て来りゃ地獄へ逆落とし♪などと敵愾心丸出しで名指ししていたその本人が総司令官としてパイプを加えて厚木基地に降り立ったのは8月30日であった。
日本人の命運はこの日から彼の統率に委ねられることとなった。
国敗れてマッカーサーありの歴史的な転換であった。
街のあちこちに「マッカーサーの命令により立ち入りを禁ず」との立札すら目立った。彼が引き連れてきた軍隊は「米軍騎兵第1師団」であるがレイテ島、ルソン島、マニラと歴戦を重ねたいわば筋金入りの精鋭部隊であった。
これが日本軍の野暮ったい出で立ちと違い、背が高くて格好が良い。洒落たデザインのキャップを斜めにかぶり、粋なジャンパーには騎兵の腕章を輝かせて我がもの顔で町なかを闊歩する。4駆のジープに乗り疾走する。
チョコレートやチュウインガムをばら撒く。子供は群がり、大人はしけもく(タバコの吸殻)拾いに夢中である。「ギミーチョコレッツ」子供達が発するこの言葉が、英会話第一声だったのではと思う。
「日米会話手帳」なるぺらぺらのパクリ本(9cm×12cm・32ページ)が終戦の翌月に世に出て忽ちベストセラーになった。表紙に「Anglo・japanese Conversatoin Manual」とあるのは笑ってしまう。
その後、同種の本は雨後の竹の子のように出版されるのだが、この会話手帳の発案者は
敗戦のその日にひらめいて即実行という早業で驚くばかり。
皆が等しく悲嘆と鎮魂の淵に沈んでいる時に、頭を切り替え商魂たくましくばね仕掛けで動き出し、3日で初稿を完成したという。初版の定価は八十銭、闇値も付き年内に360万部を発行したと伝えられているがそのうち紙くずとなり現存しているものは何処にもないという。
実は当時私も連られて入手したものの、中身のお粗末さ加減に呆れてその場限りで以降読んだこともない。これも先見のなさで、もし持っていたらどんなお宝になっていたやら。
明くる1946年2月にはNHKラジオを平川唯一という人の「英会話教室」が放送開始となった。毎週月~金の午後6時から15分の番組であった。
テーマソングは今でも覚えている。
♪Come come everybody How do you do and how are you?
W’ont you have some candy One and two and three four five
Let’s all sing a happy song Sing tra-la la la la♪
これがあの「証城寺の狸囃子」のメロディに乗せてテーマソングとして軽快に流れてくるので、自然に引き込まれてしまう感じである。
ついでに英語の話であるが、翌年私は旺文社の赤尾好夫編「英語基本単語集」と「英語の総合的研究」を超猛勉して早稲田に入った。これは受験用の名著であった。
寝ても醒めても愛読書のように手放さなかった。
当時豆単といって多くの学生が愛用していたものだが、豆単は2冊目を今でも保存している。青春の名残を覚える懐かしい蔵書である。
進学して比較的割の良い進駐軍のハウスでのアルバイト(当時のはやりことば)もこなした。
国際軍事裁判所(市ケ谷)の住宅のベルボーイにはじまり、ワシントンハイツ(代々木)のハウスボーイなどである。ワシントンハイツでは、メイドさんが休んだので奥さんが私に女性の下着を洗濯させた。私は契約違反と怒って即座に辞めた。奥さんは驚いて我が家を訪問し詫びたが母が応対しあくまで辞退した。軍国の母は強かった。
弟の正雄が米兵をぶん殴りMP(米軍の警察)に御用となり、留置場に連行された事件があったが、これも母が交渉に行き無事連れ戻した。 粋なジャンパーのアメリカ兵がずたずたになった小気味良い話である。然し前科となった弟は二度と米兵といさかいを起こしたことはない。
進駐軍の駐屯基地のある芝浦方面に出かけるのはちょっと勇気が要った。品川から真っ暗い長いトンネルを抜けるのだが米兵の黒い塊と時折すれ違う。顔も黒いから目玉だけが光る。壁際に身を寄せてやり過ごすしかない。大声で汚い言葉を吐きながら通り過ぎる。
屈辱感が身に溢れ出た。
1947年頃だと思う、接収された新橋の第1ホテルで進駐軍のダンスパーテイに侍る機会が何度かあった。
演奏する「ブルーコーツ」という楽団のトランペッターのHさん(母の知人)がバンドボーイとして私と弟を招き入れてくれた。
流れる甘いジャズの音色に心が融けるほど酔いしれた。こんな美味しい飲み物があるのか
とコカコーラをげっぷがでるほどに頂いた。
当時のジャズは歌詞も単純でわかり易く、心に響いた。
このとき、ひらめいたのは、自分で確保したホールにジャズバンドを呼んできて、ダンスパーテイを企画することだった。
翌年友人達と相談し手分けして事に当たった。場所の確保、スイング、タンゴ、ハワイアンなどのバンドと歌手を探しての契約、チケットを作る、売りさばく、当日を運営するなど一通りの興行のお膳立が必要だった。契約の前金はN君が何処からか工面してきた。私は主としてチケットの販売に当たった。早稲田の学生という立場が身分証明となり、女子大のキャンパスに通うと忽ち売れた。
戦後の混乱もやや落ちついた頃社交ダンスは流行の兆しにあった。何度企画してもチケットは完売である。勿論税務所には届けて自ら納税済みの捺印をするのだが、枚数は自己申告だった。
そのうち、自分自身がダンスにはまり、本格的に教習所通いが始まった。
「タキシード ジャンクション」「ビギン ザ ビギン」「スターダスト」「ペイパームーン」
「スローボート ツー チャイナ」・・・など懐かしのレパートリーは100を超えるであろう。
戦後のジャズブームも、進駐軍と共にやってきたように思う。
以上
(皆さんお正月気分は如何ですか。私は友人達8名で日本橋界隈の七福神巡りをしてきました。もっと良い絵がたくさん描けるようにと神頼みもしました。
こぼれ話を再開します。進駐軍は良くも悪くも戦後の象徴の一つでした。こんな馬鹿でかい奴とよくも戦争をしていたものだと思いました。
家の女中さん(前回紹介したCHYOBUSUさん)が町で花束を抱えていたら 気の毒な花売りおばさんと間違えられてGIに How much? と問いかけられる。
彼女はTAMACHIと聞いて 親切心で身振り手振りで田町駅方面を指差す。米兵はきょとん顔 ????
今でも我が家に伝わる微笑ましいエピソードです)
2011/11/30
人生色々こぼれ話(11) 〜戦後の始まり
人生色々こぼれ話(11) 戦後の始まり
天皇の詔勅で戦争は終わった。敗戦の国民的なショックは計り知れないほど大きかった。“勝利の日まで”を合言葉に一億総決戦を胸に秘めてこれまで戦い抜いてきたのだ。その挫折感で日本は立ち直れないのではないかとさえ思った。
然し人々はただ黙して耐えた。彼等は天皇のご英断に心を傾けつつも溢れる無念、無情の想い絶ちがたく、正座して宮城前にひれ伏し涙した。無辜(むこ)の民のこの耐え難い姿を聖戦の責任者である大元帥陛下はどう感じとられたであろうか。
軍国日本は永久に戦争を放棄し平和日本として生まれ変わろうとしていた。そして焦土と廃墟の中からの復興も少しづつ始まった。
昭和20年9月1日には曲がりなりにも新学期(私は中学4年)が再開し級友達は、学校に集い、お互いに無事を確かめ合った。陸幼、海兵の勇士達も帰還してきた。再び剣を筆に変えて学業に励む日が帰ってきた。
戦後が始まった。
私たち一家4人は家もなく、焼け残った本家(:*1)の家での居候を余儀なくされたが、復員してきた親戚や疎開先からの引き揚げを含めて一族郎党20名近くだが、それぞれの家族が部屋をあてがわれ集団生活をした。
山形から来ていた力持ちの心優しき女中Cさん(私たちは彼女をchiyobusuと呼称していた)は故郷に帰らないで留まってくれた。 今でも仲良く我々世代の「羽佐間いとこ会」が続いているがこのキャンプ生活は共有の歴史となっていて連携の絆のように思える。
食べ盛りの子供達が多く、食料の調達は並大抵のものではない。食料、日用品、酒、タバコに至るまですべて切符配給制(これは戦争中から続いていた)であるが、瞬く間に底をつき、母達は千葉の農家に闇米や野菜の買い出しに出かけた。
駅頭などで捕まれば統制違反で没収のリスクはあるが、着物や帯と食料品の物々交換は日常茶番事であった。戦時中から続いているタケノコ生活の知恵である。
サツマイモが貯蔵されている部屋があり、これが私たち3兄弟にとっては絶好のねらい目となり、深夜ともなると、二階から外へ物干し台の柱伝いで外庭に抜け出し、ストック場所の窓から侵入する。収穫した芋をひも付きのバケツで吊るし上げるのだ。少年時代に鍛えた木登りなどの軽業が大いに役に立った。 煮炊きは私が動員の時に確保した電熱器(ニクローム線と称する簡易コンロ)と鋳物の飯ごうである。大量の在庫の山から2,3本ずつ頂戴するので、痕跡は留めない。私たちの飢えを凌ぐ最たる方法として今尚秘話として残っている。
配給米は7分づきのいわば玄米(玄米の皮が30%残っている米)なので炊いても固く、まずくて食べられない。すぐにお腹を壊す。業者は違反となるので精米が出来ず、みな自宅で一升壜に米を入れて棒で突いて皮を取り除く手動式精米法が普及していた。僅かなお小遣いでこの作業にたびたび駆り出されていた。しかし口にする主食は、おもゆに、さいころサイズのサツマイモが浮かんでいる流動食である。
「すいとん」と称する代用食は本当にまずかった。お湯を沸かし緩くといた小麦粉の塊を落とし固まったところで殆ど味のない汁で食するのだが、浮いているものはサツマイモや南瓜の茎と葉っぱである。高粱の一見赤飯を思わせる真っ赤な固いご飯、粟や稗、食べられるものは何でも口にした。
海岸で海水を汲んできてすいとんを作ったという話さえある。
塩もないけど、糖分も乏しい。当時某火薬会社が「ズルチン」という変な名前の化学甘味料を開発しこれがヒットした。然し副作用が問われて間もなく衰退したように思う。
どういうわけか、私は家庭農園作りが好きで、防空壕の上や狭い空間を見つけては、枯れ草を焼いた灰と若干の自家製おわいでトマトやナス、きゅうりなどビタミン補給のできる野菜を栽培し食卓に供し好評を得た。サツマイモも挑戦したが、細いひょろひょろのうちに食べてしまいまともに収穫したことはなかった。
信じられないことに後日私は中学5年から「東京高等農林」(現在の東大農学部)を受験し落ちた。ばあさんが「英二は手先が器用で、畑つくりも好きだから・・・」との単純な理屈に後押しされて軽はずみに受験したが落ちてよかった。
もし受かっていたらやがて山深き営林署か、さいはての酪農工場勤務であったことだろう。後には世界辺境の地で米や小麦つくりのボランティアに励んでいたとも思える。意外と「エイジー」と慕われ地元の名士に名を連ねたかもしれない?
姪の長男が現在、岩手大の獣医学部に在学しているが将来が楽しみである。
自家製パンは結構いけた。やや大きな弁当箱型の木箱の左右内側にトタン板を張る。+-の電極をつなぎ、この箱の中にふすま入りのメリケン粉と重曹少々を練り合わせた生地を入れコンセントにつなぎ時を待つ。10分もするとふっくらと蒸しパンのように焼きあがる。途中で半生の生地を触ると感電するので要注意であるが、このパン製造機はやがて市販品も出され普及した。
タバコの葉をきざんだものが配給されるのでこれを薄手の紙に手でくるんで吸うのだが大人たちは一日5本くらいの割り当てでは到底足りず、イタドリ、梅、椿、などの葉を乾燥させて刻みこれをタバコとブレンドして吸っていた。松の葉も乾燥させて点火するとパチパチと音を立てて煙を出した。口の周りで焚き火をしているようなものだ。一本づつ巻くタバコ紙巻器も売り出され一家に数台が常備された。
戦争後半には敵性語で無用化した「英和コンサイス辞典」が最高の紙質だった。1冊1200ページくらいあるので600本が巻けた。中には単語を覚えるとその頁を食べたりタバコ巻きに転用している輩もいたが所詮空しい努力である。
私は中学4年の頃いたずらでタバコを吸ったが、一度駅のトイレで友達と吸いっこしてその場で倒れた。まともに喫煙したのは大学に進学してからだった。
酒も配給制であるが婚礼などには特別に一升壜が配給されたようだ。アルコール分8度くらいで、金魚も泳げる「金魚酒」といわれた。叔父達は、お酒好きが多く何処から手に入れるのか結構「どぶろく」などを飲んでいた。
時に、闇のルートで「白鹿」という清酒を仕入れてきた。
母の弟のT叔父は、戦前から新橋で立ち上げた名門焼鳥や「串助」(;*2)の再興を目論んでいた。
今流で言えば脱サラ(当時は東鉄、現在のJR東日本勤務)であるが随分思い切った決断をしたものだと思った。
実はそこで扱ったのが灘の銘酒「白鹿」だったので後日謎が解けた。
(*1)羽佐間家は赤穂義士の末裔である。当時は羽佐間ではなく間を名乗り、喜兵衛光延(
元禄十六年二月四日、細川家に於いて切腹、享年六十九才)その子息の重次郎光興、(水野家に於いて切腹、享年二十六才)新六郎光風(毛利家に於いて切腹、享年二十三才)が四十七士に加わり主君の無念を晴らした。
吉良上野介を突いたと言われる重次郎の一番槍は泉岳寺に寄贈されている。
現在の当主Sさん(十代目)は重次郎の直系の子孫で私たち3兄弟の従兄(父の兄の長男)にあたる。
医者、検事正と真面目で固い家系であったが近年はマスコミ、キャスター、声優など口演
関係の系譜に変わったようだ。
何でも前向きに動く、曲がったことが嫌い、反権力志向、など皆似ていてこれも義士の血統かもしれない。
(:*2)戦後2,3年後であるが、やがてこの「串助」は文化人、芸能人のたまり場となった。和田信賢、松内則三、竹脇昌作、藤倉修一などのアナウンサー、小さん、正蔵、円歌、柳橋、正楽、しん生などの噺家達、堀内敬三、サトーハチロウ、徳川無声、渡辺伸一郎といった文化人が集いいつも店は賑わっていた。
「橘右近」とう橘流寄席文字の家元の書いた常連客の名札が店内の壁面狭しと嵌めてあり
私はそれを眺めているだけでも楽しかった。
以上
(戦後のプロローグはやはり食べ物からとなりました。飽食の現代から見れば信じられない世相ですが終戦直後は年末にかけて餓死者が続出しました。日比谷公園で餓死者対策国民大会なるものが開かれました。暗黒時代から次第に夜が明けてゆくのですが道のりは平坦ではありませんでした。
私はこれからもこの寄稿を続け完結する義務があるように思えてきました。
つまり娘が言うようにこぼれ話ではなくなってきたようです。丁度時間となりました。お後がよろしいようでとは行かないようです。
そこでお願いがあリます。明年からこれまでの毎月2回の掲載を1回にしたいと思います。毎月1日頃出しますのでどうかご愛読を続けて下さい。正月はお目出たい気分を損なってはまずいので、少し遅らせて掲載します。)
天皇の詔勅で戦争は終わった。敗戦の国民的なショックは計り知れないほど大きかった。“勝利の日まで”を合言葉に一億総決戦を胸に秘めてこれまで戦い抜いてきたのだ。その挫折感で日本は立ち直れないのではないかとさえ思った。
然し人々はただ黙して耐えた。彼等は天皇のご英断に心を傾けつつも溢れる無念、無情の想い絶ちがたく、正座して宮城前にひれ伏し涙した。無辜(むこ)の民のこの耐え難い姿を聖戦の責任者である大元帥陛下はどう感じとられたであろうか。
軍国日本は永久に戦争を放棄し平和日本として生まれ変わろうとしていた。そして焦土と廃墟の中からの復興も少しづつ始まった。
昭和20年9月1日には曲がりなりにも新学期(私は中学4年)が再開し級友達は、学校に集い、お互いに無事を確かめ合った。陸幼、海兵の勇士達も帰還してきた。再び剣を筆に変えて学業に励む日が帰ってきた。
戦後が始まった。
私たち一家4人は家もなく、焼け残った本家(:*1)の家での居候を余儀なくされたが、復員してきた親戚や疎開先からの引き揚げを含めて一族郎党20名近くだが、それぞれの家族が部屋をあてがわれ集団生活をした。
山形から来ていた力持ちの心優しき女中Cさん(私たちは彼女をchiyobusuと呼称していた)は故郷に帰らないで留まってくれた。 今でも仲良く我々世代の「羽佐間いとこ会」が続いているがこのキャンプ生活は共有の歴史となっていて連携の絆のように思える。
食べ盛りの子供達が多く、食料の調達は並大抵のものではない。食料、日用品、酒、タバコに至るまですべて切符配給制(これは戦争中から続いていた)であるが、瞬く間に底をつき、母達は千葉の農家に闇米や野菜の買い出しに出かけた。
駅頭などで捕まれば統制違反で没収のリスクはあるが、着物や帯と食料品の物々交換は日常茶番事であった。戦時中から続いているタケノコ生活の知恵である。
サツマイモが貯蔵されている部屋があり、これが私たち3兄弟にとっては絶好のねらい目となり、深夜ともなると、二階から外へ物干し台の柱伝いで外庭に抜け出し、ストック場所の窓から侵入する。収穫した芋をひも付きのバケツで吊るし上げるのだ。少年時代に鍛えた木登りなどの軽業が大いに役に立った。 煮炊きは私が動員の時に確保した電熱器(ニクローム線と称する簡易コンロ)と鋳物の飯ごうである。大量の在庫の山から2,3本ずつ頂戴するので、痕跡は留めない。私たちの飢えを凌ぐ最たる方法として今尚秘話として残っている。
配給米は7分づきのいわば玄米(玄米の皮が30%残っている米)なので炊いても固く、まずくて食べられない。すぐにお腹を壊す。業者は違反となるので精米が出来ず、みな自宅で一升壜に米を入れて棒で突いて皮を取り除く手動式精米法が普及していた。僅かなお小遣いでこの作業にたびたび駆り出されていた。しかし口にする主食は、おもゆに、さいころサイズのサツマイモが浮かんでいる流動食である。
「すいとん」と称する代用食は本当にまずかった。お湯を沸かし緩くといた小麦粉の塊を落とし固まったところで殆ど味のない汁で食するのだが、浮いているものはサツマイモや南瓜の茎と葉っぱである。高粱の一見赤飯を思わせる真っ赤な固いご飯、粟や稗、食べられるものは何でも口にした。
海岸で海水を汲んできてすいとんを作ったという話さえある。
塩もないけど、糖分も乏しい。当時某火薬会社が「ズルチン」という変な名前の化学甘味料を開発しこれがヒットした。然し副作用が問われて間もなく衰退したように思う。
どういうわけか、私は家庭農園作りが好きで、防空壕の上や狭い空間を見つけては、枯れ草を焼いた灰と若干の自家製おわいでトマトやナス、きゅうりなどビタミン補給のできる野菜を栽培し食卓に供し好評を得た。サツマイモも挑戦したが、細いひょろひょろのうちに食べてしまいまともに収穫したことはなかった。
信じられないことに後日私は中学5年から「東京高等農林」(現在の東大農学部)を受験し落ちた。ばあさんが「英二は手先が器用で、畑つくりも好きだから・・・」との単純な理屈に後押しされて軽はずみに受験したが落ちてよかった。
もし受かっていたらやがて山深き営林署か、さいはての酪農工場勤務であったことだろう。後には世界辺境の地で米や小麦つくりのボランティアに励んでいたとも思える。意外と「エイジー」と慕われ地元の名士に名を連ねたかもしれない?
姪の長男が現在、岩手大の獣医学部に在学しているが将来が楽しみである。
自家製パンは結構いけた。やや大きな弁当箱型の木箱の左右内側にトタン板を張る。+-の電極をつなぎ、この箱の中にふすま入りのメリケン粉と重曹少々を練り合わせた生地を入れコンセントにつなぎ時を待つ。10分もするとふっくらと蒸しパンのように焼きあがる。途中で半生の生地を触ると感電するので要注意であるが、このパン製造機はやがて市販品も出され普及した。
タバコの葉をきざんだものが配給されるのでこれを薄手の紙に手でくるんで吸うのだが大人たちは一日5本くらいの割り当てでは到底足りず、イタドリ、梅、椿、などの葉を乾燥させて刻みこれをタバコとブレンドして吸っていた。松の葉も乾燥させて点火するとパチパチと音を立てて煙を出した。口の周りで焚き火をしているようなものだ。一本づつ巻くタバコ紙巻器も売り出され一家に数台が常備された。
戦争後半には敵性語で無用化した「英和コンサイス辞典」が最高の紙質だった。1冊1200ページくらいあるので600本が巻けた。中には単語を覚えるとその頁を食べたりタバコ巻きに転用している輩もいたが所詮空しい努力である。
私は中学4年の頃いたずらでタバコを吸ったが、一度駅のトイレで友達と吸いっこしてその場で倒れた。まともに喫煙したのは大学に進学してからだった。
酒も配給制であるが婚礼などには特別に一升壜が配給されたようだ。アルコール分8度くらいで、金魚も泳げる「金魚酒」といわれた。叔父達は、お酒好きが多く何処から手に入れるのか結構「どぶろく」などを飲んでいた。
時に、闇のルートで「白鹿」という清酒を仕入れてきた。
母の弟のT叔父は、戦前から新橋で立ち上げた名門焼鳥や「串助」(;*2)の再興を目論んでいた。
今流で言えば脱サラ(当時は東鉄、現在のJR東日本勤務)であるが随分思い切った決断をしたものだと思った。
実はそこで扱ったのが灘の銘酒「白鹿」だったので後日謎が解けた。
(*1)羽佐間家は赤穂義士の末裔である。当時は羽佐間ではなく間を名乗り、喜兵衛光延(
元禄十六年二月四日、細川家に於いて切腹、享年六十九才)その子息の重次郎光興、(水野家に於いて切腹、享年二十六才)新六郎光風(毛利家に於いて切腹、享年二十三才)が四十七士に加わり主君の無念を晴らした。
吉良上野介を突いたと言われる重次郎の一番槍は泉岳寺に寄贈されている。
現在の当主Sさん(十代目)は重次郎の直系の子孫で私たち3兄弟の従兄(父の兄の長男)にあたる。
医者、検事正と真面目で固い家系であったが近年はマスコミ、キャスター、声優など口演
関係の系譜に変わったようだ。
何でも前向きに動く、曲がったことが嫌い、反権力志向、など皆似ていてこれも義士の血統かもしれない。
(:*2)戦後2,3年後であるが、やがてこの「串助」は文化人、芸能人のたまり場となった。和田信賢、松内則三、竹脇昌作、藤倉修一などのアナウンサー、小さん、正蔵、円歌、柳橋、正楽、しん生などの噺家達、堀内敬三、サトーハチロウ、徳川無声、渡辺伸一郎といった文化人が集いいつも店は賑わっていた。
「橘右近」とう橘流寄席文字の家元の書いた常連客の名札が店内の壁面狭しと嵌めてあり
私はそれを眺めているだけでも楽しかった。
以上
(戦後のプロローグはやはり食べ物からとなりました。飽食の現代から見れば信じられない世相ですが終戦直後は年末にかけて餓死者が続出しました。日比谷公園で餓死者対策国民大会なるものが開かれました。暗黒時代から次第に夜が明けてゆくのですが道のりは平坦ではありませんでした。
私はこれからもこの寄稿を続け完結する義務があるように思えてきました。
つまり娘が言うようにこぼれ話ではなくなってきたようです。丁度時間となりました。お後がよろしいようでとは行かないようです。
そこでお願いがあリます。明年からこれまでの毎月2回の掲載を1回にしたいと思います。毎月1日頃出しますのでどうかご愛読を続けて下さい。正月はお目出たい気分を損なってはまずいので、少し遅らせて掲載します。)
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