人生色々こぼれ話(13)
ジャズ、シネマ、ラッキー・ストライク
ある雑誌に投稿した一文(1997年)がある。前編と重なる部分があるが、いわば青春のプレイバックとしてその一節を復刻してみる。
『荒れ果てた東京にアメリカはガムやコーラと共にエキサイティングな文化を次々と持ち込んできた。私はラッキー・ストライクにむせ返り、ハリウッド女優のポートレート集めにうつつを抜かしていた。
洋画のカルチャーショツクは強烈であった。何しろそれまでの軍国の教条主義映画から一気に夢のミュージカル、スペクタクル、ロマンスが外国語と共にスクリーンから飛び込んでくるのだから、気を鎮めてというほうが無理である。大学に進んでからは、新宿の映画館をはしごで観て回り、酎ハイで評論に花を咲かせた。
今再び Shall we dance なのだそうだが、私も当時はスタンダード・ジャズの生バンドでトロットやジルバーのステップに大いに興じた。それに飽き足らず会場とバンドを確保しダンスパーテイーを企画した。
サークルでのクロッキーが現在の風景水彩画に。黒人霊歌やロシヤ民謡のコーラスがカラオケに、山スキーの上り下りが渓流釣りに、そしてアメリカ人の家庭でのアルバイトが海外への旅マニアへと、あの頃の新鮮な体験や動機付けが現在の趣味に繋がっているように思える。
「青春とは年齢ではなく心の持ち方である」といった先人がいるが若者だけに与えられる奔放な特権をもう取り戻すことは出来ないのだから、せめて新しいことに興味を持ち何かに熱中することで心の青春を保ちたいものである。
さて当時の原資はアルバイトに尽きる。大学に進んでからは街頭でのピーナッツ売り、ライターの石の交換、スピード籤売りなど手当たり次第に試みた。
スピード籤はその場で三角形の籤を開くとタバコ等の当たりが分かるのだが、出来の粗末な籤が混入していて、糊の剥れた隙間から覗くとチラッと印が判別できる。いんちき極まりないがこれで賞品ゲットとなる。
高温・粉塵の中、新子安あたりにあった鋳物工場の肉体労働はさすがにきつかった。
弟は築地で火の用心!!の夜回りをしていたが、居眠りの間に出火となり、直ぐ首になった。
彼は米軍基地の浴場の三助もやるが黒人の巨大なものを洗わされて自ら辞めた。
1948年頃始めたラブレター書きます!の代書屋は繁盛した、当時のコミュニケーションの手段は手紙が普通である。シュチエーションを聴き取り、相手の心に囁き、時に揺るがすような名文(原稿用紙3~4枚)を書き綴り、当人はそれを自筆しラブレターとなる。 成功率80%を誇る出来栄えであった。おかげさまでのサンクスレターも来た。
平均1通200円の報酬だがハガキ50銭の時代なので今の価値にすれば2万円相当の破格のものであった。お客を捕まえてくるいわばポン引き(失礼)には20円の手数料を払う仕組みである。昼食2回分くらいである。
自分は現実にはもてないのに、美文家の友人がいたが、それぞれ手の内は見せなかった。ヒントやボキャブラリーは大学ノートいっぱいになった。 今も文章つくりは嫌いではないが、その素養はラブレター書きに発するのではとも思える。
1950年頃渋谷に「恋文横丁」というのがあって“英語の恋文引き受けます”の代書屋が並んでいた。本国に帰った米兵に、日本の女性からの手紙を代行して書く仕事である。追いかけていって結婚した女性も少なくないし、残された子供を一人で育てた実話も尽きない。後に丹羽文雄が「恋文」という小説を書いたそのバックグランドである。田中絹代主演の映画にもなった。 時代を反映した何処となく哀愁の漂う世相を感じる。後に出た森村誠一の「人間の証明」にどこか通じるものが読み取れる。
それにしても恋文代行業のはしりは、私&仲間達であったのではと思えてくる。
話は再び終戦直後に戻るが、暗く貧しい呆然自失の戦後に希望の歌声が沸きあがりラジオに合わせて人々が口ずさんだのが“赤いリンゴに唇よせて・・・“で始まる「リンゴの唄」だった。終戦の年の10月に早くも封切られた映画「そよかぜ」の挿入歌であった。明るい曲調と飾り気のない爽やかな歌詞は日本中を文字通りそよ風のように吹き抜けていった。
翌年有楽町の日劇に当の歌手並木路子がきた。映画『そよかぜ』と実演に夢中になり何度も通った。入れ替え制であったが、トイレに隠れ次の回もすんなりと客席に戻った。この手立ては常用し、友人、弟たちと日劇に出かけていっては、いち早く新曲を覚えて仲間に広げた。手つくりの歌集も作った。好きな灰田勝彦の歌は完璧にマスターした。今となると何となく歌声喫茶のはしりであったような気がする。
日劇の舞台に必ず登場するダンシングチーム(NDT)の華やかなラインダンスを観るのも楽しみであった。谷桃子、松山樹子、根岸明美、北原三枝等が所属していた。
戦後の日本ジャズ界を代表するミュージシャン渡辺弘が率いる「スターダスターズ」やハワイアンバンドの「灰田晴彦とニューモアナ」の演奏会には好んで出かけた。
私は当時旧制中学5年(現都立青山高校)である。神宮球場の向かいに学校が位置していて憧れの早慶戦ともなると気もそぞろで、友人達と午後の授業は放棄し観戦に出かけた。戦後の自由主義のお陰か、こんなエスケープも大目に見てくれ学校から特にお咎めもなかった。自らも何か運動をということで、終戦で学校に帰ると直ぐに好きなバレーボール部に入り、放課後は遅くまで練習を重ねた。そのお陰で急に身長が伸び筋肉質の体になった。
当時私達家族は母の知人の家を間借りして辻堂に住んでいた。鈴なりの満員列車での通学は死のもの狂いの様相であった。バレーボールの練習の後、空腹の長距離帰宅は辛かった。
弟は或る日デッキからはみ出し、鉄橋に足を掬われあわや振り落とされるところであったが手すりにぶら下がり藤沢駅のホームに滑り込んで一命を取り留めた。野球部で鍛えていた腕力のお陰である。重傷で、市内の外科に担ぎ込まれたが、マーキロとメンソレターム程度の薬しかなく、
膿が広がり、入院を余儀なくされた。今でも彼の足の甲には名誉の傷あとが残っている。
以上
(戦後を行ったり来たりの話しになりましたが、連想的に場面が出てくるのでそこはお許し下さい。このこぼれ話を綴る日は殆ど何の構想もなくパソコンの前に座ります。やがて20分から30分位瞑想していると、頭の中にランダムにテーマや映像が出てきます。最初の書き出しが難しいですが後はだんだん調子が出てきて饒舌になります。時系列に整理された順序ではないので、テンス(時制)がでたらめなのですが、こぼれ話だからいいや!と自分で妥協しています。
今回もそんなことで回想したものですが、読み返してみるとやはりモノクロの世界だなと思います。)
自己紹介:東京都出身、横浜市金沢区在住、 2002年、金属製造業の会社を退職後、かねてより趣味の水彩風景画に特化し多くの画家からの啓発を受けながら、ブラッシュアップに努めています。 イギリスをはじめ欧米各国の町や村を訪れ旅の道すがらスケッチ・水彩を楽しみました。 2002年、日曜画家集団の「チャーチル会ヨコハマ」に入会し、今は幹事長を仰せつかっています。2004年1月に自身で主宰する水彩風景画教室「みずき会」を立ち上げ現在に至ります。 2011年2月に油彩を描く妻と「水と油の夫婦展」を横浜で開催し、お蔭様で画廊新記録となるご来場をいただきました。併せて念願の「水彩風景画集」を発刊しました。 コーラスを愛好し会社時代には、合唱団に所属、併せて外部の某セミプロ合唱団も手伝い、仕事の合間を見つけて公演活動に励みました。 2009,2010年は40年ぶりに横浜交響楽団と「第九」を歌いました。スポーツは、学生時代はバレーボール、スキー、後年はゴルフですが、今は絵に集中しています。
2012/01/30
2012/01/06
人生色々こぼれ話(12) ~進駐軍がやってきた
人生色々こぼれ話(12)
進駐軍がやってきた
1945年(昭和20年)8月、日本はポツダム宣言により連合国に軍事占領されることとなった。主として米軍による占領組織として進駐軍と呼ばれるおびただしい数の軍隊がやってきた。 連合国最高司令部総司令官(GHQ)の指示命令を受けて日本政府が日本の政治機構をそのままに利用し占領政策を実施するのである。
昨日まで鬼畜米英として♪いざ来いニミッツ、マッカーサー出て来りゃ地獄へ逆落とし♪などと敵愾心丸出しで名指ししていたその本人が総司令官としてパイプを加えて厚木基地に降り立ったのは8月30日であった。
日本人の命運はこの日から彼の統率に委ねられることとなった。
国敗れてマッカーサーありの歴史的な転換であった。
街のあちこちに「マッカーサーの命令により立ち入りを禁ず」との立札すら目立った。彼が引き連れてきた軍隊は「米軍騎兵第1師団」であるがレイテ島、ルソン島、マニラと歴戦を重ねたいわば筋金入りの精鋭部隊であった。
これが日本軍の野暮ったい出で立ちと違い、背が高くて格好が良い。洒落たデザインのキャップを斜めにかぶり、粋なジャンパーには騎兵の腕章を輝かせて我がもの顔で町なかを闊歩する。4駆のジープに乗り疾走する。
チョコレートやチュウインガムをばら撒く。子供は群がり、大人はしけもく(タバコの吸殻)拾いに夢中である。「ギミーチョコレッツ」子供達が発するこの言葉が、英会話第一声だったのではと思う。
「日米会話手帳」なるぺらぺらのパクリ本(9cm×12cm・32ページ)が終戦の翌月に世に出て忽ちベストセラーになった。表紙に「Anglo・japanese Conversatoin Manual」とあるのは笑ってしまう。
その後、同種の本は雨後の竹の子のように出版されるのだが、この会話手帳の発案者は
敗戦のその日にひらめいて即実行という早業で驚くばかり。
皆が等しく悲嘆と鎮魂の淵に沈んでいる時に、頭を切り替え商魂たくましくばね仕掛けで動き出し、3日で初稿を完成したという。初版の定価は八十銭、闇値も付き年内に360万部を発行したと伝えられているがそのうち紙くずとなり現存しているものは何処にもないという。
実は当時私も連られて入手したものの、中身のお粗末さ加減に呆れてその場限りで以降読んだこともない。これも先見のなさで、もし持っていたらどんなお宝になっていたやら。
明くる1946年2月にはNHKラジオを平川唯一という人の「英会話教室」が放送開始となった。毎週月~金の午後6時から15分の番組であった。
テーマソングは今でも覚えている。
♪Come come everybody How do you do and how are you?
W’ont you have some candy One and two and three four five
Let’s all sing a happy song Sing tra-la la la la♪
これがあの「証城寺の狸囃子」のメロディに乗せてテーマソングとして軽快に流れてくるので、自然に引き込まれてしまう感じである。
ついでに英語の話であるが、翌年私は旺文社の赤尾好夫編「英語基本単語集」と「英語の総合的研究」を超猛勉して早稲田に入った。これは受験用の名著であった。
寝ても醒めても愛読書のように手放さなかった。
当時豆単といって多くの学生が愛用していたものだが、豆単は2冊目を今でも保存している。青春の名残を覚える懐かしい蔵書である。
進学して比較的割の良い進駐軍のハウスでのアルバイト(当時のはやりことば)もこなした。
国際軍事裁判所(市ケ谷)の住宅のベルボーイにはじまり、ワシントンハイツ(代々木)のハウスボーイなどである。ワシントンハイツでは、メイドさんが休んだので奥さんが私に女性の下着を洗濯させた。私は契約違反と怒って即座に辞めた。奥さんは驚いて我が家を訪問し詫びたが母が応対しあくまで辞退した。軍国の母は強かった。
弟の正雄が米兵をぶん殴りMP(米軍の警察)に御用となり、留置場に連行された事件があったが、これも母が交渉に行き無事連れ戻した。 粋なジャンパーのアメリカ兵がずたずたになった小気味良い話である。然し前科となった弟は二度と米兵といさかいを起こしたことはない。
進駐軍の駐屯基地のある芝浦方面に出かけるのはちょっと勇気が要った。品川から真っ暗い長いトンネルを抜けるのだが米兵の黒い塊と時折すれ違う。顔も黒いから目玉だけが光る。壁際に身を寄せてやり過ごすしかない。大声で汚い言葉を吐きながら通り過ぎる。
屈辱感が身に溢れ出た。
1947年頃だと思う、接収された新橋の第1ホテルで進駐軍のダンスパーテイに侍る機会が何度かあった。
演奏する「ブルーコーツ」という楽団のトランペッターのHさん(母の知人)がバンドボーイとして私と弟を招き入れてくれた。
流れる甘いジャズの音色に心が融けるほど酔いしれた。こんな美味しい飲み物があるのか
とコカコーラをげっぷがでるほどに頂いた。
当時のジャズは歌詞も単純でわかり易く、心に響いた。
このとき、ひらめいたのは、自分で確保したホールにジャズバンドを呼んできて、ダンスパーテイを企画することだった。
翌年友人達と相談し手分けして事に当たった。場所の確保、スイング、タンゴ、ハワイアンなどのバンドと歌手を探しての契約、チケットを作る、売りさばく、当日を運営するなど一通りの興行のお膳立が必要だった。契約の前金はN君が何処からか工面してきた。私は主としてチケットの販売に当たった。早稲田の学生という立場が身分証明となり、女子大のキャンパスに通うと忽ち売れた。
戦後の混乱もやや落ちついた頃社交ダンスは流行の兆しにあった。何度企画してもチケットは完売である。勿論税務所には届けて自ら納税済みの捺印をするのだが、枚数は自己申告だった。
そのうち、自分自身がダンスにはまり、本格的に教習所通いが始まった。
「タキシード ジャンクション」「ビギン ザ ビギン」「スターダスト」「ペイパームーン」
「スローボート ツー チャイナ」・・・など懐かしのレパートリーは100を超えるであろう。
戦後のジャズブームも、進駐軍と共にやってきたように思う。
以上
(皆さんお正月気分は如何ですか。私は友人達8名で日本橋界隈の七福神巡りをしてきました。もっと良い絵がたくさん描けるようにと神頼みもしました。
こぼれ話を再開します。進駐軍は良くも悪くも戦後の象徴の一つでした。こんな馬鹿でかい奴とよくも戦争をしていたものだと思いました。
家の女中さん(前回紹介したCHYOBUSUさん)が町で花束を抱えていたら 気の毒な花売りおばさんと間違えられてGIに How much? と問いかけられる。
彼女はTAMACHIと聞いて 親切心で身振り手振りで田町駅方面を指差す。米兵はきょとん顔 ????
今でも我が家に伝わる微笑ましいエピソードです)
進駐軍がやってきた
1945年(昭和20年)8月、日本はポツダム宣言により連合国に軍事占領されることとなった。主として米軍による占領組織として進駐軍と呼ばれるおびただしい数の軍隊がやってきた。 連合国最高司令部総司令官(GHQ)の指示命令を受けて日本政府が日本の政治機構をそのままに利用し占領政策を実施するのである。
昨日まで鬼畜米英として♪いざ来いニミッツ、マッカーサー出て来りゃ地獄へ逆落とし♪などと敵愾心丸出しで名指ししていたその本人が総司令官としてパイプを加えて厚木基地に降り立ったのは8月30日であった。
日本人の命運はこの日から彼の統率に委ねられることとなった。
国敗れてマッカーサーありの歴史的な転換であった。
街のあちこちに「マッカーサーの命令により立ち入りを禁ず」との立札すら目立った。彼が引き連れてきた軍隊は「米軍騎兵第1師団」であるがレイテ島、ルソン島、マニラと歴戦を重ねたいわば筋金入りの精鋭部隊であった。
これが日本軍の野暮ったい出で立ちと違い、背が高くて格好が良い。洒落たデザインのキャップを斜めにかぶり、粋なジャンパーには騎兵の腕章を輝かせて我がもの顔で町なかを闊歩する。4駆のジープに乗り疾走する。
チョコレートやチュウインガムをばら撒く。子供は群がり、大人はしけもく(タバコの吸殻)拾いに夢中である。「ギミーチョコレッツ」子供達が発するこの言葉が、英会話第一声だったのではと思う。
「日米会話手帳」なるぺらぺらのパクリ本(9cm×12cm・32ページ)が終戦の翌月に世に出て忽ちベストセラーになった。表紙に「Anglo・japanese Conversatoin Manual」とあるのは笑ってしまう。
その後、同種の本は雨後の竹の子のように出版されるのだが、この会話手帳の発案者は
敗戦のその日にひらめいて即実行という早業で驚くばかり。
皆が等しく悲嘆と鎮魂の淵に沈んでいる時に、頭を切り替え商魂たくましくばね仕掛けで動き出し、3日で初稿を完成したという。初版の定価は八十銭、闇値も付き年内に360万部を発行したと伝えられているがそのうち紙くずとなり現存しているものは何処にもないという。
実は当時私も連られて入手したものの、中身のお粗末さ加減に呆れてその場限りで以降読んだこともない。これも先見のなさで、もし持っていたらどんなお宝になっていたやら。
明くる1946年2月にはNHKラジオを平川唯一という人の「英会話教室」が放送開始となった。毎週月~金の午後6時から15分の番組であった。
テーマソングは今でも覚えている。
♪Come come everybody How do you do and how are you?
W’ont you have some candy One and two and three four five
Let’s all sing a happy song Sing tra-la la la la♪
これがあの「証城寺の狸囃子」のメロディに乗せてテーマソングとして軽快に流れてくるので、自然に引き込まれてしまう感じである。
ついでに英語の話であるが、翌年私は旺文社の赤尾好夫編「英語基本単語集」と「英語の総合的研究」を超猛勉して早稲田に入った。これは受験用の名著であった。
寝ても醒めても愛読書のように手放さなかった。
当時豆単といって多くの学生が愛用していたものだが、豆単は2冊目を今でも保存している。青春の名残を覚える懐かしい蔵書である。
進学して比較的割の良い進駐軍のハウスでのアルバイト(当時のはやりことば)もこなした。
国際軍事裁判所(市ケ谷)の住宅のベルボーイにはじまり、ワシントンハイツ(代々木)のハウスボーイなどである。ワシントンハイツでは、メイドさんが休んだので奥さんが私に女性の下着を洗濯させた。私は契約違反と怒って即座に辞めた。奥さんは驚いて我が家を訪問し詫びたが母が応対しあくまで辞退した。軍国の母は強かった。
弟の正雄が米兵をぶん殴りMP(米軍の警察)に御用となり、留置場に連行された事件があったが、これも母が交渉に行き無事連れ戻した。 粋なジャンパーのアメリカ兵がずたずたになった小気味良い話である。然し前科となった弟は二度と米兵といさかいを起こしたことはない。
進駐軍の駐屯基地のある芝浦方面に出かけるのはちょっと勇気が要った。品川から真っ暗い長いトンネルを抜けるのだが米兵の黒い塊と時折すれ違う。顔も黒いから目玉だけが光る。壁際に身を寄せてやり過ごすしかない。大声で汚い言葉を吐きながら通り過ぎる。
屈辱感が身に溢れ出た。
1947年頃だと思う、接収された新橋の第1ホテルで進駐軍のダンスパーテイに侍る機会が何度かあった。
演奏する「ブルーコーツ」という楽団のトランペッターのHさん(母の知人)がバンドボーイとして私と弟を招き入れてくれた。
流れる甘いジャズの音色に心が融けるほど酔いしれた。こんな美味しい飲み物があるのか
とコカコーラをげっぷがでるほどに頂いた。
当時のジャズは歌詞も単純でわかり易く、心に響いた。
このとき、ひらめいたのは、自分で確保したホールにジャズバンドを呼んできて、ダンスパーテイを企画することだった。
翌年友人達と相談し手分けして事に当たった。場所の確保、スイング、タンゴ、ハワイアンなどのバンドと歌手を探しての契約、チケットを作る、売りさばく、当日を運営するなど一通りの興行のお膳立が必要だった。契約の前金はN君が何処からか工面してきた。私は主としてチケットの販売に当たった。早稲田の学生という立場が身分証明となり、女子大のキャンパスに通うと忽ち売れた。
戦後の混乱もやや落ちついた頃社交ダンスは流行の兆しにあった。何度企画してもチケットは完売である。勿論税務所には届けて自ら納税済みの捺印をするのだが、枚数は自己申告だった。
そのうち、自分自身がダンスにはまり、本格的に教習所通いが始まった。
「タキシード ジャンクション」「ビギン ザ ビギン」「スターダスト」「ペイパームーン」
「スローボート ツー チャイナ」・・・など懐かしのレパートリーは100を超えるであろう。
戦後のジャズブームも、進駐軍と共にやってきたように思う。
以上
(皆さんお正月気分は如何ですか。私は友人達8名で日本橋界隈の七福神巡りをしてきました。もっと良い絵がたくさん描けるようにと神頼みもしました。
こぼれ話を再開します。進駐軍は良くも悪くも戦後の象徴の一つでした。こんな馬鹿でかい奴とよくも戦争をしていたものだと思いました。
家の女中さん(前回紹介したCHYOBUSUさん)が町で花束を抱えていたら 気の毒な花売りおばさんと間違えられてGIに How much? と問いかけられる。
彼女はTAMACHIと聞いて 親切心で身振り手振りで田町駅方面を指差す。米兵はきょとん顔 ????
今でも我が家に伝わる微笑ましいエピソードです)
2011/11/30
人生色々こぼれ話(11) 〜戦後の始まり
人生色々こぼれ話(11) 戦後の始まり
天皇の詔勅で戦争は終わった。敗戦の国民的なショックは計り知れないほど大きかった。“勝利の日まで”を合言葉に一億総決戦を胸に秘めてこれまで戦い抜いてきたのだ。その挫折感で日本は立ち直れないのではないかとさえ思った。
然し人々はただ黙して耐えた。彼等は天皇のご英断に心を傾けつつも溢れる無念、無情の想い絶ちがたく、正座して宮城前にひれ伏し涙した。無辜(むこ)の民のこの耐え難い姿を聖戦の責任者である大元帥陛下はどう感じとられたであろうか。
軍国日本は永久に戦争を放棄し平和日本として生まれ変わろうとしていた。そして焦土と廃墟の中からの復興も少しづつ始まった。
昭和20年9月1日には曲がりなりにも新学期(私は中学4年)が再開し級友達は、学校に集い、お互いに無事を確かめ合った。陸幼、海兵の勇士達も帰還してきた。再び剣を筆に変えて学業に励む日が帰ってきた。
戦後が始まった。
私たち一家4人は家もなく、焼け残った本家(:*1)の家での居候を余儀なくされたが、復員してきた親戚や疎開先からの引き揚げを含めて一族郎党20名近くだが、それぞれの家族が部屋をあてがわれ集団生活をした。
山形から来ていた力持ちの心優しき女中Cさん(私たちは彼女をchiyobusuと呼称していた)は故郷に帰らないで留まってくれた。 今でも仲良く我々世代の「羽佐間いとこ会」が続いているがこのキャンプ生活は共有の歴史となっていて連携の絆のように思える。
食べ盛りの子供達が多く、食料の調達は並大抵のものではない。食料、日用品、酒、タバコに至るまですべて切符配給制(これは戦争中から続いていた)であるが、瞬く間に底をつき、母達は千葉の農家に闇米や野菜の買い出しに出かけた。
駅頭などで捕まれば統制違反で没収のリスクはあるが、着物や帯と食料品の物々交換は日常茶番事であった。戦時中から続いているタケノコ生活の知恵である。
サツマイモが貯蔵されている部屋があり、これが私たち3兄弟にとっては絶好のねらい目となり、深夜ともなると、二階から外へ物干し台の柱伝いで外庭に抜け出し、ストック場所の窓から侵入する。収穫した芋をひも付きのバケツで吊るし上げるのだ。少年時代に鍛えた木登りなどの軽業が大いに役に立った。 煮炊きは私が動員の時に確保した電熱器(ニクローム線と称する簡易コンロ)と鋳物の飯ごうである。大量の在庫の山から2,3本ずつ頂戴するので、痕跡は留めない。私たちの飢えを凌ぐ最たる方法として今尚秘話として残っている。
配給米は7分づきのいわば玄米(玄米の皮が30%残っている米)なので炊いても固く、まずくて食べられない。すぐにお腹を壊す。業者は違反となるので精米が出来ず、みな自宅で一升壜に米を入れて棒で突いて皮を取り除く手動式精米法が普及していた。僅かなお小遣いでこの作業にたびたび駆り出されていた。しかし口にする主食は、おもゆに、さいころサイズのサツマイモが浮かんでいる流動食である。
「すいとん」と称する代用食は本当にまずかった。お湯を沸かし緩くといた小麦粉の塊を落とし固まったところで殆ど味のない汁で食するのだが、浮いているものはサツマイモや南瓜の茎と葉っぱである。高粱の一見赤飯を思わせる真っ赤な固いご飯、粟や稗、食べられるものは何でも口にした。
海岸で海水を汲んできてすいとんを作ったという話さえある。
塩もないけど、糖分も乏しい。当時某火薬会社が「ズルチン」という変な名前の化学甘味料を開発しこれがヒットした。然し副作用が問われて間もなく衰退したように思う。
どういうわけか、私は家庭農園作りが好きで、防空壕の上や狭い空間を見つけては、枯れ草を焼いた灰と若干の自家製おわいでトマトやナス、きゅうりなどビタミン補給のできる野菜を栽培し食卓に供し好評を得た。サツマイモも挑戦したが、細いひょろひょろのうちに食べてしまいまともに収穫したことはなかった。
信じられないことに後日私は中学5年から「東京高等農林」(現在の東大農学部)を受験し落ちた。ばあさんが「英二は手先が器用で、畑つくりも好きだから・・・」との単純な理屈に後押しされて軽はずみに受験したが落ちてよかった。
もし受かっていたらやがて山深き営林署か、さいはての酪農工場勤務であったことだろう。後には世界辺境の地で米や小麦つくりのボランティアに励んでいたとも思える。意外と「エイジー」と慕われ地元の名士に名を連ねたかもしれない?
姪の長男が現在、岩手大の獣医学部に在学しているが将来が楽しみである。
自家製パンは結構いけた。やや大きな弁当箱型の木箱の左右内側にトタン板を張る。+-の電極をつなぎ、この箱の中にふすま入りのメリケン粉と重曹少々を練り合わせた生地を入れコンセントにつなぎ時を待つ。10分もするとふっくらと蒸しパンのように焼きあがる。途中で半生の生地を触ると感電するので要注意であるが、このパン製造機はやがて市販品も出され普及した。
タバコの葉をきざんだものが配給されるのでこれを薄手の紙に手でくるんで吸うのだが大人たちは一日5本くらいの割り当てでは到底足りず、イタドリ、梅、椿、などの葉を乾燥させて刻みこれをタバコとブレンドして吸っていた。松の葉も乾燥させて点火するとパチパチと音を立てて煙を出した。口の周りで焚き火をしているようなものだ。一本づつ巻くタバコ紙巻器も売り出され一家に数台が常備された。
戦争後半には敵性語で無用化した「英和コンサイス辞典」が最高の紙質だった。1冊1200ページくらいあるので600本が巻けた。中には単語を覚えるとその頁を食べたりタバコ巻きに転用している輩もいたが所詮空しい努力である。
私は中学4年の頃いたずらでタバコを吸ったが、一度駅のトイレで友達と吸いっこしてその場で倒れた。まともに喫煙したのは大学に進学してからだった。
酒も配給制であるが婚礼などには特別に一升壜が配給されたようだ。アルコール分8度くらいで、金魚も泳げる「金魚酒」といわれた。叔父達は、お酒好きが多く何処から手に入れるのか結構「どぶろく」などを飲んでいた。
時に、闇のルートで「白鹿」という清酒を仕入れてきた。
母の弟のT叔父は、戦前から新橋で立ち上げた名門焼鳥や「串助」(;*2)の再興を目論んでいた。
今流で言えば脱サラ(当時は東鉄、現在のJR東日本勤務)であるが随分思い切った決断をしたものだと思った。
実はそこで扱ったのが灘の銘酒「白鹿」だったので後日謎が解けた。
(*1)羽佐間家は赤穂義士の末裔である。当時は羽佐間ではなく間を名乗り、喜兵衛光延(
元禄十六年二月四日、細川家に於いて切腹、享年六十九才)その子息の重次郎光興、(水野家に於いて切腹、享年二十六才)新六郎光風(毛利家に於いて切腹、享年二十三才)が四十七士に加わり主君の無念を晴らした。
吉良上野介を突いたと言われる重次郎の一番槍は泉岳寺に寄贈されている。
現在の当主Sさん(十代目)は重次郎の直系の子孫で私たち3兄弟の従兄(父の兄の長男)にあたる。
医者、検事正と真面目で固い家系であったが近年はマスコミ、キャスター、声優など口演
関係の系譜に変わったようだ。
何でも前向きに動く、曲がったことが嫌い、反権力志向、など皆似ていてこれも義士の血統かもしれない。
(:*2)戦後2,3年後であるが、やがてこの「串助」は文化人、芸能人のたまり場となった。和田信賢、松内則三、竹脇昌作、藤倉修一などのアナウンサー、小さん、正蔵、円歌、柳橋、正楽、しん生などの噺家達、堀内敬三、サトーハチロウ、徳川無声、渡辺伸一郎といった文化人が集いいつも店は賑わっていた。
「橘右近」とう橘流寄席文字の家元の書いた常連客の名札が店内の壁面狭しと嵌めてあり
私はそれを眺めているだけでも楽しかった。
以上
(戦後のプロローグはやはり食べ物からとなりました。飽食の現代から見れば信じられない世相ですが終戦直後は年末にかけて餓死者が続出しました。日比谷公園で餓死者対策国民大会なるものが開かれました。暗黒時代から次第に夜が明けてゆくのですが道のりは平坦ではありませんでした。
私はこれからもこの寄稿を続け完結する義務があるように思えてきました。
つまり娘が言うようにこぼれ話ではなくなってきたようです。丁度時間となりました。お後がよろしいようでとは行かないようです。
そこでお願いがあリます。明年からこれまでの毎月2回の掲載を1回にしたいと思います。毎月1日頃出しますのでどうかご愛読を続けて下さい。正月はお目出たい気分を損なってはまずいので、少し遅らせて掲載します。)
天皇の詔勅で戦争は終わった。敗戦の国民的なショックは計り知れないほど大きかった。“勝利の日まで”を合言葉に一億総決戦を胸に秘めてこれまで戦い抜いてきたのだ。その挫折感で日本は立ち直れないのではないかとさえ思った。
然し人々はただ黙して耐えた。彼等は天皇のご英断に心を傾けつつも溢れる無念、無情の想い絶ちがたく、正座して宮城前にひれ伏し涙した。無辜(むこ)の民のこの耐え難い姿を聖戦の責任者である大元帥陛下はどう感じとられたであろうか。
軍国日本は永久に戦争を放棄し平和日本として生まれ変わろうとしていた。そして焦土と廃墟の中からの復興も少しづつ始まった。
昭和20年9月1日には曲がりなりにも新学期(私は中学4年)が再開し級友達は、学校に集い、お互いに無事を確かめ合った。陸幼、海兵の勇士達も帰還してきた。再び剣を筆に変えて学業に励む日が帰ってきた。
戦後が始まった。
私たち一家4人は家もなく、焼け残った本家(:*1)の家での居候を余儀なくされたが、復員してきた親戚や疎開先からの引き揚げを含めて一族郎党20名近くだが、それぞれの家族が部屋をあてがわれ集団生活をした。
山形から来ていた力持ちの心優しき女中Cさん(私たちは彼女をchiyobusuと呼称していた)は故郷に帰らないで留まってくれた。 今でも仲良く我々世代の「羽佐間いとこ会」が続いているがこのキャンプ生活は共有の歴史となっていて連携の絆のように思える。
食べ盛りの子供達が多く、食料の調達は並大抵のものではない。食料、日用品、酒、タバコに至るまですべて切符配給制(これは戦争中から続いていた)であるが、瞬く間に底をつき、母達は千葉の農家に闇米や野菜の買い出しに出かけた。
駅頭などで捕まれば統制違反で没収のリスクはあるが、着物や帯と食料品の物々交換は日常茶番事であった。戦時中から続いているタケノコ生活の知恵である。
サツマイモが貯蔵されている部屋があり、これが私たち3兄弟にとっては絶好のねらい目となり、深夜ともなると、二階から外へ物干し台の柱伝いで外庭に抜け出し、ストック場所の窓から侵入する。収穫した芋をひも付きのバケツで吊るし上げるのだ。少年時代に鍛えた木登りなどの軽業が大いに役に立った。 煮炊きは私が動員の時に確保した電熱器(ニクローム線と称する簡易コンロ)と鋳物の飯ごうである。大量の在庫の山から2,3本ずつ頂戴するので、痕跡は留めない。私たちの飢えを凌ぐ最たる方法として今尚秘話として残っている。
配給米は7分づきのいわば玄米(玄米の皮が30%残っている米)なので炊いても固く、まずくて食べられない。すぐにお腹を壊す。業者は違反となるので精米が出来ず、みな自宅で一升壜に米を入れて棒で突いて皮を取り除く手動式精米法が普及していた。僅かなお小遣いでこの作業にたびたび駆り出されていた。しかし口にする主食は、おもゆに、さいころサイズのサツマイモが浮かんでいる流動食である。
「すいとん」と称する代用食は本当にまずかった。お湯を沸かし緩くといた小麦粉の塊を落とし固まったところで殆ど味のない汁で食するのだが、浮いているものはサツマイモや南瓜の茎と葉っぱである。高粱の一見赤飯を思わせる真っ赤な固いご飯、粟や稗、食べられるものは何でも口にした。
海岸で海水を汲んできてすいとんを作ったという話さえある。
塩もないけど、糖分も乏しい。当時某火薬会社が「ズルチン」という変な名前の化学甘味料を開発しこれがヒットした。然し副作用が問われて間もなく衰退したように思う。
どういうわけか、私は家庭農園作りが好きで、防空壕の上や狭い空間を見つけては、枯れ草を焼いた灰と若干の自家製おわいでトマトやナス、きゅうりなどビタミン補給のできる野菜を栽培し食卓に供し好評を得た。サツマイモも挑戦したが、細いひょろひょろのうちに食べてしまいまともに収穫したことはなかった。
信じられないことに後日私は中学5年から「東京高等農林」(現在の東大農学部)を受験し落ちた。ばあさんが「英二は手先が器用で、畑つくりも好きだから・・・」との単純な理屈に後押しされて軽はずみに受験したが落ちてよかった。
もし受かっていたらやがて山深き営林署か、さいはての酪農工場勤務であったことだろう。後には世界辺境の地で米や小麦つくりのボランティアに励んでいたとも思える。意外と「エイジー」と慕われ地元の名士に名を連ねたかもしれない?
姪の長男が現在、岩手大の獣医学部に在学しているが将来が楽しみである。
自家製パンは結構いけた。やや大きな弁当箱型の木箱の左右内側にトタン板を張る。+-の電極をつなぎ、この箱の中にふすま入りのメリケン粉と重曹少々を練り合わせた生地を入れコンセントにつなぎ時を待つ。10分もするとふっくらと蒸しパンのように焼きあがる。途中で半生の生地を触ると感電するので要注意であるが、このパン製造機はやがて市販品も出され普及した。
タバコの葉をきざんだものが配給されるのでこれを薄手の紙に手でくるんで吸うのだが大人たちは一日5本くらいの割り当てでは到底足りず、イタドリ、梅、椿、などの葉を乾燥させて刻みこれをタバコとブレンドして吸っていた。松の葉も乾燥させて点火するとパチパチと音を立てて煙を出した。口の周りで焚き火をしているようなものだ。一本づつ巻くタバコ紙巻器も売り出され一家に数台が常備された。
戦争後半には敵性語で無用化した「英和コンサイス辞典」が最高の紙質だった。1冊1200ページくらいあるので600本が巻けた。中には単語を覚えるとその頁を食べたりタバコ巻きに転用している輩もいたが所詮空しい努力である。
私は中学4年の頃いたずらでタバコを吸ったが、一度駅のトイレで友達と吸いっこしてその場で倒れた。まともに喫煙したのは大学に進学してからだった。
酒も配給制であるが婚礼などには特別に一升壜が配給されたようだ。アルコール分8度くらいで、金魚も泳げる「金魚酒」といわれた。叔父達は、お酒好きが多く何処から手に入れるのか結構「どぶろく」などを飲んでいた。
時に、闇のルートで「白鹿」という清酒を仕入れてきた。
母の弟のT叔父は、戦前から新橋で立ち上げた名門焼鳥や「串助」(;*2)の再興を目論んでいた。
今流で言えば脱サラ(当時は東鉄、現在のJR東日本勤務)であるが随分思い切った決断をしたものだと思った。
実はそこで扱ったのが灘の銘酒「白鹿」だったので後日謎が解けた。
(*1)羽佐間家は赤穂義士の末裔である。当時は羽佐間ではなく間を名乗り、喜兵衛光延(
元禄十六年二月四日、細川家に於いて切腹、享年六十九才)その子息の重次郎光興、(水野家に於いて切腹、享年二十六才)新六郎光風(毛利家に於いて切腹、享年二十三才)が四十七士に加わり主君の無念を晴らした。
吉良上野介を突いたと言われる重次郎の一番槍は泉岳寺に寄贈されている。
現在の当主Sさん(十代目)は重次郎の直系の子孫で私たち3兄弟の従兄(父の兄の長男)にあたる。
医者、検事正と真面目で固い家系であったが近年はマスコミ、キャスター、声優など口演
関係の系譜に変わったようだ。
何でも前向きに動く、曲がったことが嫌い、反権力志向、など皆似ていてこれも義士の血統かもしれない。
(:*2)戦後2,3年後であるが、やがてこの「串助」は文化人、芸能人のたまり場となった。和田信賢、松内則三、竹脇昌作、藤倉修一などのアナウンサー、小さん、正蔵、円歌、柳橋、正楽、しん生などの噺家達、堀内敬三、サトーハチロウ、徳川無声、渡辺伸一郎といった文化人が集いいつも店は賑わっていた。
「橘右近」とう橘流寄席文字の家元の書いた常連客の名札が店内の壁面狭しと嵌めてあり
私はそれを眺めているだけでも楽しかった。
以上
(戦後のプロローグはやはり食べ物からとなりました。飽食の現代から見れば信じられない世相ですが終戦直後は年末にかけて餓死者が続出しました。日比谷公園で餓死者対策国民大会なるものが開かれました。暗黒時代から次第に夜が明けてゆくのですが道のりは平坦ではありませんでした。
私はこれからもこの寄稿を続け完結する義務があるように思えてきました。
つまり娘が言うようにこぼれ話ではなくなってきたようです。丁度時間となりました。お後がよろしいようでとは行かないようです。
そこでお願いがあリます。明年からこれまでの毎月2回の掲載を1回にしたいと思います。毎月1日頃出しますのでどうかご愛読を続けて下さい。正月はお目出たい気分を損なってはまずいので、少し遅らせて掲載します。)
2011/11/14
人生色々こぼれ話(10) 終戦
人生色々こぼれ話(10)
終戦
20年3月10日にB29、110機による東京の下町を焼き尽くす大空襲があり、10万人が殉じた。4月には米軍が沖縄本島に上陸した。
5月25日には東京山手地域への猛爆が続いた。私たちは当時高輪の本家に住んでいたが、五反田方面からの火の手が迫り、遂にその時が来たと観念した。従兄のSは家が焼失しても「世界文学全集」を残したいというので、これを持ち出す作業が大変だった。何しろ重いので10冊も抱え込み階段を下りて外に持ち運ぶのだが、100冊以上もあってとても間に合わない。とうとう最後は3Fの窓から下に放り出すこととなった。
1時間ほどの焼夷弾爆撃を受けて、あたりは火の海となりもはや延焼は免れないと思った。然しやがて風向きが変わり、懸命の消火活動も奏功し高台の一角だけが奇跡的に焼け残った。これも強運この上ないことである。
青山に住む叔父(母の弟)の一家は、家を守り最後に墓地に逃げた叔父と長男は幸運にも助かったが、早めに逃げた叔母始め一家6人が表参道の路上で犠牲になった。 翌日弟達が探しに行き重なり合う黒焦げの遺体をそれと確認した。焼け爛れた小さな金庫が印しだった。
現在の港区、品川区、渋谷区、新宿区の辺りが焦土と化した。遺体の燃える凄惨な現場の映像は打ち払っても尚脳裏をよぎることがある。親や兄弟を失つたであろう少女が泣きじゃくりながら焼け跡に佇んでいた光景を忘れることはない。
世界のどこかで、今尚戦争やテロが繰り返されているが、平和ボケと呼ばれても日本は素晴らしい国土だと思える。
5月の空襲で動員先の五反田にある広大な電気試験所も焼失した。一時学校に戻り次の動員先の命令を待つ身となった。そして今度は福生にある陸軍の飛行基地に決まった。
7月始めの或る日11時に青梅線福生駅に集合せよ、とだけの指示である。何をするのかも分からずに私たちは戦場に駆りたてられる様な気持ちで家や家族と離れた。帰れないかもしれないとすら思った。飛行場なので「グラマンF4F」など艦載機の襲撃が激しいに違いないと思った。
仕事は畑つくりが主たるものであった。サツマイモを栽培し航空機燃料のアルコールを採取するという。(いわば芋焼酎で飛行機が飛ばせるのだろうか?)それに宿舎の清掃、防空壕の整備、軍機の清掃、敵機爆撃跡の穴埋め、といったものである。とにかく朝から晩までの労働である。くたくたになり粗末なベッドに寝ると今度は南京虫の襲来である。ひっきりなしの波状攻撃に辟易する。
予想したように、昼間は艦載機が飛来する。敵兵の顔が見えるほどの低空での爆撃、機銃掃射でとにかく近くの防空壕にすばやく潜りこみ身の安全を図るしかない。迎撃する戦力が無いので、敵の思うままである。整備中の戦闘機が爆破、炎上される。機関銃で迎え撃つものの敵機に命中した試しはない。粉みじんに飛ばされて戦死する兵もいた。
口には出せないけどいよいよ日本は敗けるのではと思った。それでも「荒鷲の歌」「勝利の日まで」などの歌で鼓舞し、耐える日々が続く。中学に入学した頃の希望に燃えた赤き心は色あせていた。
♪嫌じゃありませんか軍隊は、かねの茶碗にかねの箸、仏様でもあるまいに、一膳めしとは情けなや♪と厭戦歌の通り、大豆入りの飯に、味気のないおかずでは元気は出ない。早く帰りたいとの想いが募る。
正雄は動員対象ではないが、学校に通っているだろうか。道夫は長野県に集団疎開をしているけど元気でいるだろうか。母の日々の暮らしぶりはどうか。など寝ながら思いを巡らせることもしばしばであった。
昭和20年8月に広島、長崎に相次いで原爆投下、そして8月15日、歴史に幕を閉じるその日がきた。
師団長以下整列し正午に終戦の詔勅を恭しく聞いた。玉音の中身はともかく、日本は無条件に敗れた。無念の涙が頬を伝わってとめどなく流れた。 やがて身の回りや宿舎を整理し、私たちは、大豆を土産に悄然と帰路についた。誇れるもの、輝けるものは何も無かった。生きていた喜びを思う心すら失っていた。
ただ真夏の陽光だけが眩しく長い影を落としていた。それは灼熱の暑い日であった。
1億総決戦だけは免れたが、汗のにじむぼろぼろの服をまとい、心空しく家路を目指したそのときから想像を絶する混乱と苦難の戦後が始まった。
残る愛機に乗り、飛び去ったまま帰還しなかった軍人がいたという。大君(おおきみ)の辺(へ)にこそ死なめ、顧みはせじ!の一節を残して。
この戦争の犠牲者は戦闘員1,741千人、非戦闘員393千人の記録が残っている。 焦土と化した都市は66にのぼる。市民の頭上に降り注いだ爆撃が無差別殺戮だったかどうかを戦後問われたことはなかった。 軍事目標だけを狙ってのじゅうたん爆撃などありうるはずがない。
人間の尊厳を踏みにじり、虫けらのように尊い命を奪ってゆく戦争は、国家や民族が犯す最悪の罪であり、どこにも正義などありようがない。
以上
(丁度第十話で戦争が終わったことになります。長くお付き合い願い有難うございました。然しこれから私自身姿を変えながら生きてゆく戦後が始まります。どんな展開になるのでしょう。どんなことから書き始めたらよいのかまだ暗中模索です。じっくりと噛締めながら書いてゆきたいと思います。)
終戦
20年3月10日にB29、110機による東京の下町を焼き尽くす大空襲があり、10万人が殉じた。4月には米軍が沖縄本島に上陸した。
5月25日には東京山手地域への猛爆が続いた。私たちは当時高輪の本家に住んでいたが、五反田方面からの火の手が迫り、遂にその時が来たと観念した。従兄のSは家が焼失しても「世界文学全集」を残したいというので、これを持ち出す作業が大変だった。何しろ重いので10冊も抱え込み階段を下りて外に持ち運ぶのだが、100冊以上もあってとても間に合わない。とうとう最後は3Fの窓から下に放り出すこととなった。
1時間ほどの焼夷弾爆撃を受けて、あたりは火の海となりもはや延焼は免れないと思った。然しやがて風向きが変わり、懸命の消火活動も奏功し高台の一角だけが奇跡的に焼け残った。これも強運この上ないことである。
青山に住む叔父(母の弟)の一家は、家を守り最後に墓地に逃げた叔父と長男は幸運にも助かったが、早めに逃げた叔母始め一家6人が表参道の路上で犠牲になった。 翌日弟達が探しに行き重なり合う黒焦げの遺体をそれと確認した。焼け爛れた小さな金庫が印しだった。
現在の港区、品川区、渋谷区、新宿区の辺りが焦土と化した。遺体の燃える凄惨な現場の映像は打ち払っても尚脳裏をよぎることがある。親や兄弟を失つたであろう少女が泣きじゃくりながら焼け跡に佇んでいた光景を忘れることはない。
世界のどこかで、今尚戦争やテロが繰り返されているが、平和ボケと呼ばれても日本は素晴らしい国土だと思える。
5月の空襲で動員先の五反田にある広大な電気試験所も焼失した。一時学校に戻り次の動員先の命令を待つ身となった。そして今度は福生にある陸軍の飛行基地に決まった。
7月始めの或る日11時に青梅線福生駅に集合せよ、とだけの指示である。何をするのかも分からずに私たちは戦場に駆りたてられる様な気持ちで家や家族と離れた。帰れないかもしれないとすら思った。飛行場なので「グラマンF4F」など艦載機の襲撃が激しいに違いないと思った。
仕事は畑つくりが主たるものであった。サツマイモを栽培し航空機燃料のアルコールを採取するという。(いわば芋焼酎で飛行機が飛ばせるのだろうか?)それに宿舎の清掃、防空壕の整備、軍機の清掃、敵機爆撃跡の穴埋め、といったものである。とにかく朝から晩までの労働である。くたくたになり粗末なベッドに寝ると今度は南京虫の襲来である。ひっきりなしの波状攻撃に辟易する。
予想したように、昼間は艦載機が飛来する。敵兵の顔が見えるほどの低空での爆撃、機銃掃射でとにかく近くの防空壕にすばやく潜りこみ身の安全を図るしかない。迎撃する戦力が無いので、敵の思うままである。整備中の戦闘機が爆破、炎上される。機関銃で迎え撃つものの敵機に命中した試しはない。粉みじんに飛ばされて戦死する兵もいた。
口には出せないけどいよいよ日本は敗けるのではと思った。それでも「荒鷲の歌」「勝利の日まで」などの歌で鼓舞し、耐える日々が続く。中学に入学した頃の希望に燃えた赤き心は色あせていた。
♪嫌じゃありませんか軍隊は、かねの茶碗にかねの箸、仏様でもあるまいに、一膳めしとは情けなや♪と厭戦歌の通り、大豆入りの飯に、味気のないおかずでは元気は出ない。早く帰りたいとの想いが募る。
正雄は動員対象ではないが、学校に通っているだろうか。道夫は長野県に集団疎開をしているけど元気でいるだろうか。母の日々の暮らしぶりはどうか。など寝ながら思いを巡らせることもしばしばであった。
昭和20年8月に広島、長崎に相次いで原爆投下、そして8月15日、歴史に幕を閉じるその日がきた。
師団長以下整列し正午に終戦の詔勅を恭しく聞いた。玉音の中身はともかく、日本は無条件に敗れた。無念の涙が頬を伝わってとめどなく流れた。 やがて身の回りや宿舎を整理し、私たちは、大豆を土産に悄然と帰路についた。誇れるもの、輝けるものは何も無かった。生きていた喜びを思う心すら失っていた。
ただ真夏の陽光だけが眩しく長い影を落としていた。それは灼熱の暑い日であった。
1億総決戦だけは免れたが、汗のにじむぼろぼろの服をまとい、心空しく家路を目指したそのときから想像を絶する混乱と苦難の戦後が始まった。
残る愛機に乗り、飛び去ったまま帰還しなかった軍人がいたという。大君(おおきみ)の辺(へ)にこそ死なめ、顧みはせじ!の一節を残して。
この戦争の犠牲者は戦闘員1,741千人、非戦闘員393千人の記録が残っている。 焦土と化した都市は66にのぼる。市民の頭上に降り注いだ爆撃が無差別殺戮だったかどうかを戦後問われたことはなかった。 軍事目標だけを狙ってのじゅうたん爆撃などありうるはずがない。
人間の尊厳を踏みにじり、虫けらのように尊い命を奪ってゆく戦争は、国家や民族が犯す最悪の罪であり、どこにも正義などありようがない。
以上
(丁度第十話で戦争が終わったことになります。長くお付き合い願い有難うございました。然しこれから私自身姿を変えながら生きてゆく戦後が始まります。どんな展開になるのでしょう。どんなことから書き始めたらよいのかまだ暗中模索です。じっくりと噛締めながら書いてゆきたいと思います。)
2011/10/31
人生こぼれ話 (9)東京大空襲
人生色々こぼれ話(9)
東京大空襲
中学の制服はカーキ色(当時防空色と呼んでいた)で学帽は戦闘帽、そして登校、下校時には巻き脚絆の出で立ちである。女学生もセーラー服にもんぺの戦時姿に変わっていった。当時我が家は駒込にあり、JR(省線電車)山手線で恵比寿まで通学していた。何しろ途中に池袋、新宿、渋谷があるので帰路の途中下車はしばしばであった。
家の近くに日枝神社があり何かと集い合う格好の広場であった。母の相談相手となってくれていた慶応ボーイのKさん(私たちは傳さんと気安く名前を呼んでいた)はハンサムで、ウクレレにのせて自作のメロデイを聴かせてくれた。今でも口ずさむと懐かしさが蘇る。浅草・神谷バーの一族の人だった。先ごろ家内と近くを訪ねてみたが、日枝神社の社殿と大銀杏は昔の姿を留めていて何か安らぎを覚えた。
数年前弟がKさんを探し当て我々兄弟で是非再会をと懇請したが、電話での声は聞けても、顔を合わすのは遠慮されてどうしても想いは届かなかった。
中学に入学した17年4月には早くも米機の本土空襲が始まり、6月には日本はミッドウエイ海戦で惨敗を喫している。そして翌年2月にはガダルカナルにて敗退、5月にアッツ島玉砕と敗色が続く。“北海の寒気厳しきアッツ島2千の将士華と散らるる”当時私の作った和歌である。
東京にも時に警戒警報のサイレンがこだまするようになる。(空襲時には空襲警報が断続的に鳴る)灯火管制といって家中の灯りを消すか、黒いカバーで覆うのが義務である。灯りが隙間から漏れていて警戒中の防空班員からひどく怒られたこともあった。
昭和18年3月に父が天国に旅立った。連続する全国各地への炭坑出張の疲れからか結核を患い、1年ほどの闘病のあと45歳の若さで他界した。
寒い払暁であった。悲報を聞き、兄弟3人で本郷の東大病院に言葉も無く駆けつけた。父は霊安室で静かに目を閉じていた。私たちは心を引き締めて、これからの多難な時代に立ち向かうことを誓い合った。私が中学1年の3学期、弟がそれぞれ小5、小3であった。兄弟の結束がそのときに始まり、今も仲良く付き合えているような気がしている。
母は気丈な明治女であったが働き手を失い、食べ盛りの3人の男の子を抱えて戦中、戦後の労苦は計り知れない。阿修羅のごとく立ち向かうその頃の母の姿が瞼に浮かぶ。
先にも話したが、まともに学業を受けるより、修練、訓練の方が正課になっていった。昭和18年10月、箱根須雲川での4日間の禊(みそぎ)の辛さは今でも身にしみて覚えている。
白装束、鉢巻姿で勢ぞろいし、神池に入る時は一斉に褌一本である。水に入って両手を前に組み上下に動かしながら体を揺すり“天照大神、天照大神・・・・”と唱えるのだが最後の方は体がしびれて身を切る冷たさすら感じなくなる。
禊が終わると五分粥にごま塩、梅干一個の朝食であるが“箸とらば 天地御代の御恵 君と親とのご恩味わえ“と唱え、食事が終わると”飯食終わりて新力満ちたり 勇気前に倍し事為すに耐えん“となる。質、量とも”新力満ちたり“と言えたものではない。そのあと有難い修身の話を聞いてにぎり飯を持って箱根八里を歩き回るといった修行である。
孫のshunがアメリカで16歳くらいの頃ボーイスカウトの訓練で難行苦行の行軍をした(彼は2005年にイーグルスカウトという最高の栄誉を得ている)が私の14歳の修行と重なりあうような気がする。
軍事教練(当時は陸軍省からの配属将校がいた)は日常茶番事であるが、俵担ぎ、投擲、銃剣術など苦手である。何か武術をということで柔道に救いを求めるものの、これとて後手に回ることが多く、特に寝技は不得意であった。一度強烈な体臭のS君に首を絞められ毒ガスを嗅がされたように悶絶寸前になったこともある。以来とらうまで彼と組んで倒されると、絞められる前に“参った”を余儀なくされた。
比較的強いのは、長い20km~30km位の行軍であった。背嚢を背負って夜間、雨中、雪中など落伍することなくゴールできた。後年歩き回るゴルフ、渓流釣り、スケッチ紀行が平気なのは少年時代からの素質かもしれない。
然し毎週月曜日の早朝駆け足はきつかった。制服、制帽、軍靴にゲートル巻きで中目黒、渋谷、恵比寿などのルートを2列縦隊での駆け足である。隊列が乱れたり、ゲートルが緩んだりすると配属教官から横ビンタを食らうことになる。
月に1回仙川の農場で農業実習があったが、自然に親しむ機会でもあり種まきから収穫までの楽しみもあって好きな行事であった。帰りに大根やサツマイモなどの収穫物のお土産つきである。
戦局は厳しさを増し、昭和19年(1941年)には集団疎開(下の弟は信州に疎開)、1億總武装、17歳以上は兵役編入となった。神風特攻隊はこの年の10月に初出撃をしている。
米機の東京空襲は日増しに激化しいよいよ本土決戦の構えになった。
私たちは20年3月の東京大空襲時、雑司が谷(駒込のあと転居)で雨あられと降りそそぐ焼夷弾の爆撃で罹災し、やむなく昭和16年に上京の時お世話になった高輪の本家に再び転がり込むこととなった。
雑司が谷での猛爆の夜、赤い炎をあげて私の目の前を焼夷弾が走り、地面に突き刺さった。後数十センチの所で私は直撃をまぬかれた。奇跡という他はない。
その後5月頃だったと思う。東京駅の八重洲口で汽車の切符を求めるために長い列に並んでいた。30分を経過した頃、空襲警報のサイレンが鳴り終わらぬうちに、数十米後方に爆弾が炸裂した。時に私は切符売り場の窓口の前から2番目に並んでいた。
猛烈な破片が飛び散り、唸りをあげて爆風が人々を吹き飛ばした。とっさに頭に手をやり地べたに這い蹲った。体を動かしてみる。どうやら助かったらしい。後ろを見返ると粉塵が立ち昇り、人影は殆ど消えていた。傷ついて呻く声がする。切符売り場も爆風で吹き飛ばされていた。まさに地獄絵の有様であった。この強運に祖母は喜び、ご先祖様のお蔭と仏壇に長い時間手を合わせていた。この二度の強運は亡き父の庇護であったように思う。
20年2月(3年の3学期)には学業は事実上放擲し学徒勤労動員に組み入れとなった。勤務先は逓信省の電気試験所(五反田)である。仕事は明けても暮れてもほぼ暗室の中での現像、焼付けで防空壕暮らしみたいなものであった。軍事上の機密的な情報も含まれていたようで、内容の理解は不要で、機械的に作業するだけであった。O学園の女子生徒2名も配置されていたがその一人Hさんと後年早稲田のキャンパスでばったり会いお互いに健在を讃え合った。
以上
(戦時中の事は、子供達や、孫達に都度話してきたけど、こうして実録として文章に
組み立ててみると、ついこの間の出来事のようにその光景が見えてきます。次回は終戦の姿を書くつもりです。厳しく辛い話が続きますが、その後は信じがたい激動の戦後をいかに生き抜いたかをお伝えしましょう。事実は小説より奇といわざるを得ません。)
東京大空襲
中学の制服はカーキ色(当時防空色と呼んでいた)で学帽は戦闘帽、そして登校、下校時には巻き脚絆の出で立ちである。女学生もセーラー服にもんぺの戦時姿に変わっていった。当時我が家は駒込にあり、JR(省線電車)山手線で恵比寿まで通学していた。何しろ途中に池袋、新宿、渋谷があるので帰路の途中下車はしばしばであった。
家の近くに日枝神社があり何かと集い合う格好の広場であった。母の相談相手となってくれていた慶応ボーイのKさん(私たちは傳さんと気安く名前を呼んでいた)はハンサムで、ウクレレにのせて自作のメロデイを聴かせてくれた。今でも口ずさむと懐かしさが蘇る。浅草・神谷バーの一族の人だった。先ごろ家内と近くを訪ねてみたが、日枝神社の社殿と大銀杏は昔の姿を留めていて何か安らぎを覚えた。
数年前弟がKさんを探し当て我々兄弟で是非再会をと懇請したが、電話での声は聞けても、顔を合わすのは遠慮されてどうしても想いは届かなかった。
中学に入学した17年4月には早くも米機の本土空襲が始まり、6月には日本はミッドウエイ海戦で惨敗を喫している。そして翌年2月にはガダルカナルにて敗退、5月にアッツ島玉砕と敗色が続く。“北海の寒気厳しきアッツ島2千の将士華と散らるる”当時私の作った和歌である。
東京にも時に警戒警報のサイレンがこだまするようになる。(空襲時には空襲警報が断続的に鳴る)灯火管制といって家中の灯りを消すか、黒いカバーで覆うのが義務である。灯りが隙間から漏れていて警戒中の防空班員からひどく怒られたこともあった。
昭和18年3月に父が天国に旅立った。連続する全国各地への炭坑出張の疲れからか結核を患い、1年ほどの闘病のあと45歳の若さで他界した。
寒い払暁であった。悲報を聞き、兄弟3人で本郷の東大病院に言葉も無く駆けつけた。父は霊安室で静かに目を閉じていた。私たちは心を引き締めて、これからの多難な時代に立ち向かうことを誓い合った。私が中学1年の3学期、弟がそれぞれ小5、小3であった。兄弟の結束がそのときに始まり、今も仲良く付き合えているような気がしている。
母は気丈な明治女であったが働き手を失い、食べ盛りの3人の男の子を抱えて戦中、戦後の労苦は計り知れない。阿修羅のごとく立ち向かうその頃の母の姿が瞼に浮かぶ。
先にも話したが、まともに学業を受けるより、修練、訓練の方が正課になっていった。昭和18年10月、箱根須雲川での4日間の禊(みそぎ)の辛さは今でも身にしみて覚えている。
白装束、鉢巻姿で勢ぞろいし、神池に入る時は一斉に褌一本である。水に入って両手を前に組み上下に動かしながら体を揺すり“天照大神、天照大神・・・・”と唱えるのだが最後の方は体がしびれて身を切る冷たさすら感じなくなる。
禊が終わると五分粥にごま塩、梅干一個の朝食であるが“箸とらば 天地御代の御恵 君と親とのご恩味わえ“と唱え、食事が終わると”飯食終わりて新力満ちたり 勇気前に倍し事為すに耐えん“となる。質、量とも”新力満ちたり“と言えたものではない。そのあと有難い修身の話を聞いてにぎり飯を持って箱根八里を歩き回るといった修行である。
孫のshunがアメリカで16歳くらいの頃ボーイスカウトの訓練で難行苦行の行軍をした(彼は2005年にイーグルスカウトという最高の栄誉を得ている)が私の14歳の修行と重なりあうような気がする。
軍事教練(当時は陸軍省からの配属将校がいた)は日常茶番事であるが、俵担ぎ、投擲、銃剣術など苦手である。何か武術をということで柔道に救いを求めるものの、これとて後手に回ることが多く、特に寝技は不得意であった。一度強烈な体臭のS君に首を絞められ毒ガスを嗅がされたように悶絶寸前になったこともある。以来とらうまで彼と組んで倒されると、絞められる前に“参った”を余儀なくされた。
比較的強いのは、長い20km~30km位の行軍であった。背嚢を背負って夜間、雨中、雪中など落伍することなくゴールできた。後年歩き回るゴルフ、渓流釣り、スケッチ紀行が平気なのは少年時代からの素質かもしれない。
然し毎週月曜日の早朝駆け足はきつかった。制服、制帽、軍靴にゲートル巻きで中目黒、渋谷、恵比寿などのルートを2列縦隊での駆け足である。隊列が乱れたり、ゲートルが緩んだりすると配属教官から横ビンタを食らうことになる。
月に1回仙川の農場で農業実習があったが、自然に親しむ機会でもあり種まきから収穫までの楽しみもあって好きな行事であった。帰りに大根やサツマイモなどの収穫物のお土産つきである。
戦局は厳しさを増し、昭和19年(1941年)には集団疎開(下の弟は信州に疎開)、1億總武装、17歳以上は兵役編入となった。神風特攻隊はこの年の10月に初出撃をしている。
米機の東京空襲は日増しに激化しいよいよ本土決戦の構えになった。
私たちは20年3月の東京大空襲時、雑司が谷(駒込のあと転居)で雨あられと降りそそぐ焼夷弾の爆撃で罹災し、やむなく昭和16年に上京の時お世話になった高輪の本家に再び転がり込むこととなった。
雑司が谷での猛爆の夜、赤い炎をあげて私の目の前を焼夷弾が走り、地面に突き刺さった。後数十センチの所で私は直撃をまぬかれた。奇跡という他はない。
その後5月頃だったと思う。東京駅の八重洲口で汽車の切符を求めるために長い列に並んでいた。30分を経過した頃、空襲警報のサイレンが鳴り終わらぬうちに、数十米後方に爆弾が炸裂した。時に私は切符売り場の窓口の前から2番目に並んでいた。
猛烈な破片が飛び散り、唸りをあげて爆風が人々を吹き飛ばした。とっさに頭に手をやり地べたに這い蹲った。体を動かしてみる。どうやら助かったらしい。後ろを見返ると粉塵が立ち昇り、人影は殆ど消えていた。傷ついて呻く声がする。切符売り場も爆風で吹き飛ばされていた。まさに地獄絵の有様であった。この強運に祖母は喜び、ご先祖様のお蔭と仏壇に長い時間手を合わせていた。この二度の強運は亡き父の庇護であったように思う。
20年2月(3年の3学期)には学業は事実上放擲し学徒勤労動員に組み入れとなった。勤務先は逓信省の電気試験所(五反田)である。仕事は明けても暮れてもほぼ暗室の中での現像、焼付けで防空壕暮らしみたいなものであった。軍事上の機密的な情報も含まれていたようで、内容の理解は不要で、機械的に作業するだけであった。O学園の女子生徒2名も配置されていたがその一人Hさんと後年早稲田のキャンパスでばったり会いお互いに健在を讃え合った。
以上
(戦時中の事は、子供達や、孫達に都度話してきたけど、こうして実録として文章に
組み立ててみると、ついこの間の出来事のようにその光景が見えてきます。次回は終戦の姿を書くつもりです。厳しく辛い話が続きますが、その後は信じがたい激動の戦後をいかに生き抜いたかをお伝えしましょう。事実は小説より奇といわざるを得ません。)
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