2013/08/01

人生色々こぼれ話(30) 〜十代目の快挙


人生色々こぼれ話(30)
十代目の快挙

2013年4月29日の朝刊を見ていて目が点になった。
春の叙勲で従兄(私の父の兄の長男)の羽佐間重彰が叙勲受賞したとの記事である。しかも旭日大綬章という最高の栄誉である。何度見ても間違えはない。


羽佐間重彰(84) 元産経新聞社会長
 早大院卒、フジテレビ社長、ニッポン放送社長などを歴任


他の受章者の顔ぶれは、羽田孜、池坊保子、久間章生、中野寛成、藤井裕久、前田勲男、与謝野馨などなど皆政治家、大臣クラスばかりである。


勲章は国家のため、社会のために尽くした功績に対して与えられものであり私企業の代表者の受章は稀である。報道文化の向上を通し大いに社会に貢献したことを叙しての受章である。調べてみると最近の民間受章は片田哲也(小松製作所)佐々木幹夫(三菱商事)樋口廣太郎(アサヒビール)位である。



ちなみに羽佐間重彰は四十七士『羽佐間重次郎光興』の直系十代目に当たる。祖父の羽佐間栄次郎(私の祖父でもある)は函館裁判所検事正で勲三等を受勲されているがこの法曹DNAは子孫達に全く引き継がれていない。報道、放送、テレビプロダクション系列が多い。法曹ではなく放送である。


親授式には受章者全員がフロックコートで正装して臨むのだそうだが、この着付けだけでホテルで2時間もかかり慣れない出で立ちでくたくたのところ年の功で天皇陛下への答礼の役割まで割り付けられ有難くも緊張の体験であったという。



さかのぼると彼と私は小学校(港区白金小学校)、早稲田大学の同窓である。彼は文学部芸術学科で映画演劇を専攻その後大学院文学研究科を修めて大映に入社、ニッポン放送へ進んだ。
後にドル箱番組となり今でも続く「オールナイトニッポン」は彼のプロデュースによる。
その時倉本聡はアシスタントであったという。




大学時代は学部が違い直接の交流はないが、学生運動を通じて彼からはいささか思想的な啓蒙を受けた。破防法をめぐる第二早大事件(19525月,警官500人の学園突入)を共に体験している。事件当日私は学内にいたが、政経学部の地下の密室に逃げ込み検挙の難をまぬかれた。



懐かしいのは高輪時代である。
1941年(、昭和16年)8月父の大牟田から東京への転勤で初めて彼と巡り会った。
当時本家の家は高輪南町にあり、炭鉱の社宅と比すべくもない洋館つきの豪邸であった。
父は近衛騎兵連隊に召集されたが、痔疾病のため即日不合格で帰還となる。退路を断ち、大いなる出征の餞別を受けて出てきた大牟田には死んでも帰れない。軍国の母は不甲斐なさを嘆き、祖母は強運を喜んだ。 歓送会、残念会が続き私は重彰さんにそそのかされてビールの味を覚えたようである。
父はそのまま三井鉱山本店の労務担当となった。一旦高輪を離れ(4年後にまた戻ることになるのだが)世田谷区奥沢の借り上げ社宅に転居した。


私たち三兄弟は彼の出身校である白金小学校に編入するが、あまりもの教科内容の差について行けない。彼はすでに名門麻布中学に進学していた。英語のリーダーを得意そうに読む彼は異質の存在であり、別世界の人のように見えた。
父の召集崩れの転勤さえなければ・・・・・・と悔やんだ。6ヵ月後に受験を控えた私は一人で大牟田へ帰り熊本中学か三池中学の受験に臨みたいと真剣に考えた。



62学期で編入し言葉や文化になじめぬうちに受験である。太平洋戦争はその年の12月に戦端を開いた。 翌年狙いの中学には入れなかったが、新設の東京市立多摩中学校(現都立青山高校)にもぐりこむことが出来た。
小学校、中学の連中とは今でも親交を続けている。


重彰さんは麻布中学をでると、旧制富山高校に進んだ。終戦の年であった。当時私たちは再び高輪に戻り空襲で家や家族を失った親族や、台湾、満州から帰還の親戚達と共同生活をしていた。この不思議な体験は現在の従兄弟達のまとまりに繋がっている。
敗戦という過酷な結着により日本は変転と激動の時代に入った。

富山高校から休暇で帰ってくる弊衣破帽の重彰さんは玄関でパンツ一枚にされ祖母からDDT(しらみ駆除薬)の白い粉の洗礼を受けての入室となる。
彼が富山に戻るときは、私たちが交々上野駅で席の確保に並んだ。2330分北陸線回り米原行きの列車は超満員で重そうにプラットホームを離れていった。
この列車は数年後私たちが夜行日帰りスキーに大いに利用したものである。
子供の頃からスキーを楽しんだという割に彼は下手で格好も悪かった。良く転んではスキーの板を折っていた。
然し捻挫した同行のデブ型女性をおんぶしてゲレンデから延々と宿まで帰るほどのやさしさと力も備えていた。



私のリコメンドもあり早稲田に編入し映画演劇の道を専攻し、ついにはフジサンケイグループ全企業の社長を勤めた稀有の人物である。


今回の受章を甘んじて受け入れようとしなかった姿勢は彼らしいし、組織的なお祝いの会も一切固辞したという。

身内だけの集い「重彰さんの叙勲受章を祝う会」は私も世話人として一役買ったが3代に亘り44名が喜びの席を共にした。2013年7月22日、目黒雅叙園でのイベントであった。
司会はプロの羽佐間道夫、乾杯の音頭は私がとり、〆はアナウンサーの羽佐間正雄が登壇した。
賑やかで屈託なく笑いに満ちた羽佐間家の空前絶後のお祭りであった。「羽佐間家の歴史とその人々」という小冊子が編纂されたが後世に伝える良き手引きとなるであろう。

母校白金小学校校歌(5人が同窓)を皆で斉唱して会はお開きとなった。
校歌は“人の中なる人たらん”という私の好きな詞で終わるが、正に重彰さんを象徴しているのではと思える。
夏の夜空を華やかに彩る花火にも似て大輪のごとく開き、どよめきの中でやがて元の静寂に戻った。                            以上

(今回でこの随筆も30号を迎えました。 従兄・羽佐間重彰の受章にめぐり合えて一つ のけじめになったような気がします。
 孫にそそのかされて起筆した「人生色々こぼれ話」ですがまあ良く書いたかなと思っています。最後はこぼれ話ではなくまともな史実となりました。 私自身の社会人としての波乱の人生に触れてはいませんが、これは後に譲ることとしここで筆を置きたいと思います。長い間のご愛読有難うございました。  私はこれからも好きな絵画人生を楽しみたいと思います)
 
 








2013/06/29

人生色々こぼれ話(29) 〜絵の迷い道(5)


人生色々こぼれ話(29)
絵の迷い道(5)
チャーチル会ヨコハマの第21回の絵画展が終わった。5082点の出展であるが1100名の来場者を迎えて盛況であった。
横浜市立の市民ギャラリーが耐震問題で閉鎖になり、あちこちで展覧会難民があふれ出し、最近は適当な会場を探すのが一苦労である。今回は東神奈川のかなっくホールという会場での初演であった。


湯山俊久(多摩美大卒、日展評議員)、山崎真一(東京芸大卒、群馬女子大教授)の二人の先生に画評をいただいたが作品がそれぞれ個性的で、絵画的な水準も向上し素晴らしい。との好意的な評価であった。
「チャーチル会ヨコハマ」で検索すると、すべての出展作品が紹介されているので是非ご覧ください。


この絵画展が終わるとチャーチル会は年末の恒例の「チャリテイー展」まで一息つけるが個人的には、9月は京橋で「日本スケッチ画会」の展覧会を控えているので小品ながら制作が続く。
この展覧会は60名の会員がほとんど水彩画の指導者でプロ、セミプロの力作が出揃うので期間中は地方からの方を含めて4000名の来場者で賑わう。その中には趣味で水彩画を嗜んでいる人が多く会場は独特の雰囲気となる。 にわか教室の様相を呈するのである。作品を見た上で、新しくそれぞれの先生が主宰するクラブへの入会希望をする人も少なくない。作品も販売しているので何か画展を越えたイベント会場のようで名実ともに日本一の水彩画展といえよう。
私はこの展覧会での作品から自分なりに吸収する技術的要素が多いので鑑賞するのが楽しみでもある。もちろん私の主宰する「みずき会」の皆さんも熱心に見て貰っている。


チャーチル会展で湯山先生から“絵は目で見て、心で感じ、手で描くもの”との端的な
コメントがあった。この言葉をかみ締めていると自分なりに一つの解釈が生まれる。


“目で見る”とはものをとにかく良く観察すること。そして下絵を描く。構図を決め、デッサンに取り掛かることである。この段階で絵はその半分が決まると言い切る人もいる。
デッサン力というのはものの形が描けることであるが、どのようにそこに見えるものを切り取り何を描くか、どこを省くか、テーマは何か。など自分の構想が必要である。この取り掛かる段階で、今日は楽しんで描けそうとの予感がしたら、上手く行くことが多い。もっとも警戒すべきは“上手く描いてやろう”とする下心である。
気負いのあまり肩に力が入り最後は焦って自ずと失敗作に終わることが多い。


次に“心で感じ”というフレーズであるが、これはその人の独自のものであり、こちらかはら覗けない部分である。
心で感じるプロセスは見えているものをそのままではなく自分の中に取り込んで、自分の思いやフィーリング、と調和させながら形を整えたり彩色を進めて行く、つまり絵を創って行くセンスではないかと思う。絵はセンスなりと言い切れるものではないとしても、絵の持ち味は心の感じ方の表わしようであると思う。その光が美しいと思うのは、光が美しいのではなく美しいと感じる感性を持ち合わせているからである。

然しこの持ち合わせは天性的なものだけでなく永年のうちに、身についてきたものである。
絵はその人の個性や人柄が投影されたものなので千差万別であって面白いのであり、皆がマチスの色彩に染まり、モネの光と影を描写し、ゴッホのデフォルメに追随したらどうなるだろうか。
私たちは画匠の模写に明け暮れる画家の卵ではないのだから、実戦で自分なりに楽しみ、その積み重ねで何かを会得してゆくこと以外にない。


最近抽象の対極として新しい細密の流れが戻ってきているように感じるが、これは技巧の問題であり心の感じ方とは異次元の問題である。画学生のように石膏をリアルに忠実に描く必要はないのである。絵は自由なもので石膏をコピー的に写しとれなくても絵は描けるし、感性は磨かれ、楽しむことが出来る。つまり絵は無免許で運転できるのである。



今日はいつもより拘りがなく、すっきりと爽やかに描けているという評価軸(見た目の物差し)で絵を眺めてみると見えてくるものがあるはずである。
いいなと思える絵の条件はモチーフを限定して単純化した構図であることを忘れないことである。あれこれ描くと絵は複雑になるだけで難しいし、鑑賞する人の心も捉えられない。
気持ちにはやって画面を満たしたときに絵の完成度が高いとはいえないのである。
単純ということが単純には行かないところに絵の面白さがあるのかもしれない。


三番目の“手で描く”というと当たり前のことを・・・と思うかもしれない。然しそうではなくこれは技法や絵画技術のことだと解釈すべきである。明暗、濃淡、、混色、にじみ、ぼかし、たらしこみ等あらゆる水彩画の中で勉強し習熟するしかないジャンルに他ならない。
先の“心で感じ”・・・は覗き込めない世界であるが、この手で描くことこそ指導者の真価が問われる要素だと思う。自分の持っている過去の経験則、身についた描き方をその人に応じて惜しみなく教えて行くことに尽きる。受け取る側はいいとこ取りでも良いから吸収することに欲張りであったほうが良い。


指導者のデモンストレーションでステップに合わせて、描き進んで行くやり方は理屈を超えて実践的なので有効であるような気がする。英語のレッスンで“リピート アフターミー“というのと同じである。
私自身の勉強にもなり、最近取り入れている教室スタイルである。一つでも、ああそうか!と思って取り入れてくれれば良い。ただこの方法の欠点は大勢の人を対象に出来ないところである。 シマンドル(アメリカの女水彩画家)や右近としこ(人気画家)は数十人のクラスでもこのデモ方式を取り入れているというがどんな方法で進めてゆくのか。拝見したいものである。

私は子供の頃、田舎の野山でトンボ、ヤンマ採りに熱中し、小川のフナ釣りに興じていた。はぜの木にかぶれ顔を腫らしらしながら標本箱に飾る昆虫採集に余念がなかった。
この田舎町ではどの家庭も家で勉強する風習はなかった。子供は風の子で暗くなるまで外で遊びまくり、さしてご馳走でない食事をたらふく食べて、日記も書かないで、絵本、漫画、少年誌、冒険物語などを読みふけりその場で寝入ってしまった。
こんな環境から突然小6で東京に転居したときはまさに驚天動地の世界に投げ出された思いであった。


子供の頃未だ感性が白紙の頃どんな環境でどんな生き方をしていたか。これは絵の感性につながっている様な気がしてならない。自分の思いの原風景がそこにある。
今でも古い田舎町を描くのがこよなく好きなのはその風景や雲やせせらぎが美しいと思う子供の頃の感性に昇華してしまうからであろう。


感性とはそんなものかもしれない。事象に対する考え方や理解力とは自ずと異なるのである。偏差値とも無関係である。私は秀才で絵の上手かった友人と出会ったことがない。
これは絵は左脳ではなく右脳に司どられているという説の裏返しかもしれない。
頭の固まった人や話下手でも絵を描きだすと自由度が高まり人柄が明るくなる人が多い。
然し夢中になりはまり込んでしまう人もこのタイプに多い。ただものでない或る人は毎日朝から夜まで絵を描いて、自由時間は食事だけ、高名な先生について100号の大作に挑み4年で大きな公募展に入選した人がいる。これは楽しみではなくもはや制作の苦しみであろう。
庭にアトリエを作り、母屋から食事を運ばせ、ひたすら制作に没頭したせいか自律神経がおかしくなり、体調不調から病気になった人もいる。
ある作家は大きな会派から離れ生き様を取り戻したという。そして日展に入選した。


つまり絵が生業のプロでもないのに疲れて病気になるまで絵を描くべからず。過ぎたるは及ばざる如しのたとえ通りである。



美術館めぐりのゆるゆる旅が夢である。
NYのメトロポリタン、ボストンのボストン美術館、パリのオルセ、オランジェリー、マルモッタン、ロンドンのテイト、ナショナル、アルバート、マドリードのプラドなど忘れがたく幾度訪れても感動に包まれ、魅力に満ちに心の旅となる。

まあこれは見果てぬ夢ということにして、まず今年は大原美術館(倉敷)への再訪をと考えている。
セザンヌ、モネ、ルノアール等印象派の作品も多く展示されているが、お目当てはセガンティーニの「アルプスの真昼」である。(彼はアルプスの山々を描くために山小屋を移り住んだが41歳で病死した。サンモリッツに美術館がある。)

ついに11回目のイギリススケッチ旅の準備に取り掛かった。1年後のことであるがフライト、ホテルの候補を絞りつつある。今回は北湖水地方と小さな港町を訪ねる810日の旅である。
一行12名ほどのパーティで手作りの旅を楽しむ。コッツウォルズが中世の田舎町だとすると湖水地方はスケールの大きい自然の景観である。
おそらく打ち止めのラスト ジャニィーとなるだろうから今からその想いは広がる。
以上

5回にわたって「絵の迷い道」を書いてきました。趣味として水彩画を描いている方には私の体験とコメントを伝えてきましたが、ここはというところをメモにしておいて頂くと役に立つかもしれません。このエッセイを読んでこれから水彩画をはじめてみようかなと思う方がおられたら迷うことなく「絵の迷い道」に入ってみてください。 面白くなりやがて戻り道がないことをお気づきになるかもしれません。その責めは負いかねますのでどうぞよろしく)




2013/06/06

人生色々こぼれ話(28)  ~絵の迷い道④


人生色々こぼれ話(28)
 絵の迷い道④

旅スケッチの楽しみは、自然の中に身を置いて、雰囲気や空気を感じながら自分のセンスで風景をデザインする自由さ加減にあると思う。
日常のマンネリリズムからの解放感は心をリフレッシュし新しい可能性を引き出してくれる。


私はありのままを忠実に再現しようとする作画には共感を覚えない。向かい合っているひとつの完成された写実のシーンをどれだけ自分流にアレンジしデフォルメできるかの試みが楽しいのだと思う。写真とは違う絵の写実の面白さがそこにあるのだと思っている。



寸法のバランスがくずれると様にならない人物画デッサンと異なる自由な創造性こそが風景画の趣である。
然し、名画といわれる巨匠達の作品の70%は人物画である。風景画ではないのだ。そして絵の難易度から云えば圧倒的に人物画は難しい。私もその部類に違いないが、風景画の達人の人物画が同一作者ではないのではと思える事例は数限りない。
絵の基本は人物画であることは認めざるを得ない。何枚かのクロッキーでほぼ感覚をつかみ、デッサンに向かうと何故か改まってしまい、緊張感が走りスムースで柔らかな線を描けないのだ。何度も修正しながら傾きや、プロポーションを創ってゆく過程はアトリエでの制作そのものである。写生と制作の違いである。私は勉強のつもりで作品にならない人物画を月に一度だけ描いている。



ペン彩画は現場を線で再現しようとするあまり省略や誇張を好まない。ペン彩グループの人たちに出会うと、「そのように在るものを外したり、ないものを入れたりして良いのですか?」と疑問を投げかけられることがある。「そこにある景色は参考であり、ヒントです。自分のイメージで描くのが風景水彩画の楽しさだと思っています」と答えると「へー?私たちはありのままを描けと教わっています」と返ってくる。


マリリン・シマンドル(アメリカの女流水彩画家)は「何時間も探し歩いて完全な風景を求めてもそんなスポートに巡り合えるはずがない。疲れるし、無駄な時間が過ぎるだけ。一見とても絵になりそうもない皆が見過ごしてしまうようなところが最適なのだ」と示唆している。「何を外しどんな風景に創り変えるか。何枚かの小さなエスキース(下絵)を鉛筆描きして自分の構想、デザインを創ることから始めよう」と説く。



この、絵になりそうもないところを絵に創ると良いという発想を得て私自身自分の絵に対するスタンスが変わったし、画風にも少し変化が出てきたように思える。
絵葉書のような絵が面白くないというのは美しいけど整いすぎているし、あれもこれも取り込まれていて、なにがテーマなのだか分からないからであろう。


名画を観ていると画家は何を感じ取って何を描こうとしているのか。ある場合は動く心の様までが絵を通して映し出されている、と感じ取れることがある。
抽象画はexpressive(自己表現)だと思っているのであまり理解の必要はないが、例えば印象派の名匠達の名画は文字通りimpressive(印象的)で観る人に共感を与え、そこに誘ってくれるような衝動を覚えるのである。


あまり細かく説明すると絵はつまらなくなると云われる。観る人が感じとれる自由度を残しておけばその作品を共有しメッセージが伝わりやすいからであろう。


私たちアマチュアは時間の許す限り描く手を休めないで夢中に塗り込んでしまう傾向がある。少し離れ自分の絵を観たり、出来れば周辺の人の絵を観て歩くだけで、息抜きになるし気がつかなかったヒントを掴めると思う。描き足らない位のほうが反って良い出来栄えであることが多い。



私は展覧会の前になると、完成した(実は未完成なのだが)絵を展覧会用の額に収めて一週間ほど壁にかけて眺めることにしている。こうすると立場が客観的になりこれまで見えてなかったものが、見えてくる。これを小修正して再度額装するとまた別の問題が表れてくる。これを何度か繰り返してサインを入れ出展スタンバイとなる。このプロセスを予め
考えて余裕のある制作スケジュールを立てることが必要である。



この6月は3つの旅スケッチを重ねた。CCヨコハマの一泊写生会は上越六日町で八海山を描きに出掛け、二日置いてみずき会で二泊写生会の同じく上越湯沢高原に谷川連峰を、そしてまた二日置いてのラストシリーズはいつもの蔵王へと新緑を追っての忙しい行程であった。
大自然を求めての三つの旅はいずれも天候に恵まれ快適なスケッチツアーとなった。
ややハードなスケジュールの中で勝子もすべて同行できたのは一つの記録とも云える。
上越湯沢の「シェラリゾート湯沢」というホテルは、パノラミックな雄大な眺望が見事で、ホテルも過ごしやすくお勧めのスポットである。


東京→越後湯沢1時間30分の便利さであるが、学生時代に定員オーバーの夜行列車の通路や網棚に寝て5時間ほどかかってスキーに通った往年の難行苦行とは比すべくもない。
0年ぶりに訪れた青春のメッカ上越は快適で贅沢な時を提供してくれた。



自称英国病の私はラストジャーニイとも云えるイギリス行きのプランつくりに入った。妻をはじめ周囲はいささか呆れ顔のようであるが当人はそろそろピリオドと思いつつ本気である。この英国病が治まった時は、私自身が病気になったとの証左かもしれない。つまり英国病に取り付かれている限り、私は尚健康で絵を描く意欲を留めていることになる。


この自己正当こそが実は私の情熱と意欲の根源であると思っている。「あなたはその年で何故そんなにエネルギッシュに動き回れるのか?」最近頻度を増しているQである。
その答えはいつも「自然の中で自由に好きな絵を描いているからでしょう」となる。そしてこの10年間「みずき会」で水彩画教室を続けているのもかけがえのない自己啓発につながっていると思っている。


ところで、稀代の画家たちは長寿の方が多いのも事実である。作家は短命、画家は長命と云われるが調べてみるとその通りである。
小倉遊亀は105歳までも描いていた。片岡球子は103歳。横山大観は90歳、梅原龍三郎98歳、中川一政98歳、熊谷守一97歳と枚挙に暇がない。
世界の巨匠も負けてはいない。ピカソ92歳、シャガール90歳、ミロ90歳、ダリ86歳、モネ86歳、マチス85歳などなどである。


作家は芥川龍之介35歳、太宰治39歳、三島由紀夫45歳、有島武郎45歳のごとく虚無主義で自らの命を絶つ者が少なくない。
画家は概してストレスがなく、免疫体質が備わっていて自己治癒力が高いのではないだろうか。そして昼間に制作し夜は寝ているはずである。
作家は夜中でも書き綴り、悩み多く酒をあおる。書いているうちに私小説は破綻する。


私は学生時代に太宰文学に陶酔し小説家になろうと出来心を抱いたことがあった。小説はいくつか書いたがあまり面白くなくお金にならないので、ラブレター代行業に転じた話は以前の投稿の通りである。三文作家にならなくて良かったと思っている。仮になっていたら今は生存していないはずである。
そして絵は大好きであったが、絵描きになろうと思ったことがなかったのも幸いした。



世界の旅をしていてその都市や町在る美術館に立ち寄り著名な作品をゆったりと鑑賞できる贅沢は何ものにも変えがたい。心に響く名画を立ち止まって鑑賞できるのは海外の美術館だけである。
日本ではモネの「睡蓮」の一作、フェルメールの「真珠の耳飾りの少女」ゴッホの「ひまわり」などが特別展で展示されると、長蛇のごとく並びわずか10秒ほどの出会いの時に胸を焦がすことになる。
原則として海を渡ってくる名画展には行かないが、外国ではわずかな時間を割いてでも美術館に立ち寄ることにしている。



話題は転じてニューヨーク、ロンドンでは本場のミュージカルが手軽に楽しめるが、ある年にブロードウエイで三晩続けて(three nights in a row)ミュージカル通いをしたことがある。長女曰く、これにはさすがのニューヨーカー達も脱帽となるらしい。
もう遠いメモリーになりつつあるが、劇場の帰り道にこれも三晩続けて立ち寄ったショットバーでの“マンハッタン”の味わいと香りは忘れがたい。
“マンハッタン”の発音を教えてくれたバーテンダーのナイス スマイルは今いずこ。


「絵の迷い道」はこれからも私の人生とともに辿る、行きて尽きせぬ道ですが、後戻りをすることは考えていません。
以上

(旅が重なり投稿が遅れました。611日からCCの絵画展が始まります。JR東神奈川  駅直結のかなっくホール16日まで開催しています。
 幹事長としては最後の勤めとなるでしょう。
 会のホームページも大幅に更新しましたのでご覧ください。 チャーチル会ヨコハマ で検索 して下さい。)








2013/05/01

人生色々こぼれ話(27) 〜絵の迷い道③



人生色々こぼれ話(27
絵の迷い道③

3月~4月は私自身の関わる展覧会が四箇所で行われ多忙を極めた。いずれもグループ展であるが
私の主宰するみずき展のほかは、例年参加している馴染みのものである。
しかし今年は知人からの要請で「日本の古民家美術展」というのを「大倉山記念館」で開催するので
ぜひみずき会の皆さんにも出展してほしいという。


そこで閃いたのが、私たちの得意なイギリスの古民家や中世の町並みをモチーフにしたものを展示す
るというアイディアである。知人で現在山梨の古民家に住んでいる写真家の長谷川さん(長谷川和
男・長谷川一夫ではない。初対面の自己紹介時に、その風貌の違いに人は驚くという。・・・・本人談)に逆提案したら「要は古民家の良さ、美しさを知ってもらうというコンセプトなので、イギリスコーナーみたいなものを作るのはどうだろう」との反応である。


よしやってみよう!と2010年、2012年のイギリス旅スケッチのメンバーに趣旨を伝え呼びかけたとこ
たちまち30点の作品が集まった。みずき展に準備した候補作が続々と出揃った。みずき展に出展
できなかった作品たちが陽の目を見た形でまさにタイムリーな企画となった。


大倉山記念館は東横線大倉山下車7分の丘の上に立つギリシャ神殿風の白亜の殿堂である。
公園の木立越しに眺めるその佇まいは絵のモチーフとしても絶好である。
1932年に大倉邦彦(大倉洋紙店会長、後に東洋大学学長)により創設されたが現在は横浜市が管
理(チャーチル会会員高井禄郎が財団の理事長)していて映画のロケなどにも使われている。ギャラ
リーは回廊風のつくりで、中庭に面しクラシックではあるが明るく美しい。












コッツウォルズの古民家を中心に横浜山手の洋館も加え39点(全体の25%)の出展で見ごたえの
ある展覧会となった。来訪者からも穏やかで、明るい色彩空間に癒されたと好評であった。
どちらかというとモノトーン風の日本の古民家の写真や絵とのコントラストで訴求力の高い演出効果があったようである。
 


この展覧会で大きな学習があった。通常絵のディスプレイは横一列の直線羅列型で展示する。ところが今回は違った。或る女性(インテリア コーディネーターでデパートの売り場のレイアウトを仕事にされている専門家)の感性溢れるユニークな展示(三角、逆三角、たすきがけ、イーゼル展示などバラィティに富んだもの)で絵が生き生きとして鑑賞していて動きを感じるのである。
私たちは大体サイズ6号の透明水彩画のみであわせて画風が似ていて統一感はあるもののどうして
も変化に乏しい。
 



私は教室(大倉山公園を描く)を含めて展覧会の期間4回も坂上の会場に足を運びいささかグロッキ
ーであったが、最終日に長谷川さんたちと美酒を交わしながら展覧会とみずき会のマッチングは素晴
らしかったとの総評を得て疲れは吹き飛んだ気分であった。







3月、4月は展覧会シーズンで25の展覧会場に出掛けた。東京、横浜などでは掛け持ちでいわばは
しご鑑賞となる。いつも来ていただく方への答礼も欠かせないし、義理のお勤めみたいなケースもある。
初めの会場で会い、最後にまた一緒になった或る先生は、今日は7箇所で芳名帳サイン会みたいな
状態です。と言っていた。
「日本スケッチ画会」に入会してからペン彩画の作品を見る機会も増えてきて、それなりに勉強になっ
ている。とてもこんな風には描写できないと感心することも多い。



昨今ペン彩画から水彩画に転向する方が多いように思う。同じ透明水彩を絵の具としながらペン彩と
水彩は天才と○○は紙一重、とはいかない。月とすっぽん、ダンスホールとマンホール程の違いがあ
る。

私はペン彩画で師範代の域に達した方には、水彩への転向をお勧めしないことにしている。せっかく
蓄積された細密な技術が失われるリスクがあるからである。
まずデッサン力を蓄えてから、水彩へのステップへというプロセスも当たっていない。
ペン彩画は文字通りペン(線)で形作り、さらっと彩色して絵にする。これに対し水彩は鉛筆で当たりをとり、いきなり面でトーンを意識しながら彩色してゆく。
通常ペン彩画は4号サイズが中心であるが、水彩画は描こうとすれば20号、30号といった大型へ
制作も可能である。技法も多彩である。
結局絵を描くことに飽きてきたり少し大きな絵を求めて水彩画を描きたいという思いからであるが、こ
こにも趣味でありながら、絵の迷い道に差し掛かっている方を見受ける。


私が本格的に水彩画を描こうと思ったのは、前にも触れたように安野光雅の画集であり林望のエッセ
イである。そして町の水彩画家・前川隆敏の個展であった。
これまでのめりこんだ趣味の遍歴を振り返ると、合唱、川釣り、ゴルフであるがいずれも大成することなく終わってしまった。合唱団の指揮棒を振ることはなかったし、川釣りのMAPやハウツーものを書いたこともない。ゴルフに至ってハンディ20で行き止り、その後腰痛でリタイアーとなる。



“老いても新しいことを創める”さる哲人の言葉であるが、 私も70歳を過ぎ会社生活をリタイアーしてからの本格挑戦であった。NHK通信講座、朝日カルチャースクール、個人の水彩画教室と同時進行
で描き始め、本を読み漁った。水彩はイギリスでなければと思い立ち旅スケッチを続けた。 絵を描く
人や社会との交流を求めてチャーチル会に入会した。


はじめの頃は膝まで積み上げるほど描こうと思い年間80100点は描きまくっていたように思う。これ
が正しいかどうかはわからないが、風景を見てありのままを描くのではなく、自分でイメージを膨らませ絵を創ってゆくという体験学習にはなったように思う。或る程度早く描くという習性も備わってきた。絵は見たままを描けば良い。という先生がいるがそれはおかしいし第一描けるわけがない。
私は好きな作家の模写をした。展覧会を見るのが好きになった。この二つは絵のコツが身につく早道
だと思い今でもビギナーの方に勧めている。


画材は一に筆、二に紙だと信じている。絵の具は好き嫌いの問題でさしたる差異はないように思う。
私は好んで個展を開かない。絵描きという職業ではないので制約はないしPRも、ましてや代償も不
要だからである。

しかし一般のアマチュア作家の個展にはできるだけ参上しその情熱に敬意を表すことにしている。
公募展は目的が違うので出展しない。私がコンテストに参加するのはチャーチル会の全国大会くら
である。


現在チャーチル会の幹事長を4年も務めているが“絵を描いて社会に貢献”というコンセプトにいささ
かやり甲斐を感じている。


みずき会では会員の皆さんにどうしたら良い絵(うまい絵ではなく)が描けるかをいつも考えながら、今年は一人一人の方に課題を設けて私とそれを共有することを試みている。
みずき会も展覧会がその年の大きな目標であり励みになってきたように思う。皆の気持ちやベクトル
がそこに向けて高まり、結びついて行くのは素晴らしいことだと思う。



いつになく真面目なエッセイを書き肩が凝ってきたので最後にお笑いコーナーを設けます。
前号で或る展覧会に公開してあった川柳を紹介したけど、今回は私も作ってみました。如何でしょう。
絵を描く方は思い当たる節があるはずです。

“きれいね!と 言われるうちに 描きすぎて

“友ありて 上手くなり過ぎ すきま風”

“画評会 今日も褒められ 首かしげ”     
                       以上

(連休入りで絵もお休みです。6月の二つの展覧会の絵はほぼ完成しました。絵の迷い道と題して3
回にわたって描く方も描かない方も迷い道に誘ってしまいました。お付き合い頂き有難うございまし
た。)