2013/06/29

人生色々こぼれ話(29) 〜絵の迷い道(5)


人生色々こぼれ話(29)
絵の迷い道(5)
チャーチル会ヨコハマの第21回の絵画展が終わった。5082点の出展であるが1100名の来場者を迎えて盛況であった。
横浜市立の市民ギャラリーが耐震問題で閉鎖になり、あちこちで展覧会難民があふれ出し、最近は適当な会場を探すのが一苦労である。今回は東神奈川のかなっくホールという会場での初演であった。


湯山俊久(多摩美大卒、日展評議員)、山崎真一(東京芸大卒、群馬女子大教授)の二人の先生に画評をいただいたが作品がそれぞれ個性的で、絵画的な水準も向上し素晴らしい。との好意的な評価であった。
「チャーチル会ヨコハマ」で検索すると、すべての出展作品が紹介されているので是非ご覧ください。


この絵画展が終わるとチャーチル会は年末の恒例の「チャリテイー展」まで一息つけるが個人的には、9月は京橋で「日本スケッチ画会」の展覧会を控えているので小品ながら制作が続く。
この展覧会は60名の会員がほとんど水彩画の指導者でプロ、セミプロの力作が出揃うので期間中は地方からの方を含めて4000名の来場者で賑わう。その中には趣味で水彩画を嗜んでいる人が多く会場は独特の雰囲気となる。 にわか教室の様相を呈するのである。作品を見た上で、新しくそれぞれの先生が主宰するクラブへの入会希望をする人も少なくない。作品も販売しているので何か画展を越えたイベント会場のようで名実ともに日本一の水彩画展といえよう。
私はこの展覧会での作品から自分なりに吸収する技術的要素が多いので鑑賞するのが楽しみでもある。もちろん私の主宰する「みずき会」の皆さんも熱心に見て貰っている。


チャーチル会展で湯山先生から“絵は目で見て、心で感じ、手で描くもの”との端的な
コメントがあった。この言葉をかみ締めていると自分なりに一つの解釈が生まれる。


“目で見る”とはものをとにかく良く観察すること。そして下絵を描く。構図を決め、デッサンに取り掛かることである。この段階で絵はその半分が決まると言い切る人もいる。
デッサン力というのはものの形が描けることであるが、どのようにそこに見えるものを切り取り何を描くか、どこを省くか、テーマは何か。など自分の構想が必要である。この取り掛かる段階で、今日は楽しんで描けそうとの予感がしたら、上手く行くことが多い。もっとも警戒すべきは“上手く描いてやろう”とする下心である。
気負いのあまり肩に力が入り最後は焦って自ずと失敗作に終わることが多い。


次に“心で感じ”というフレーズであるが、これはその人の独自のものであり、こちらかはら覗けない部分である。
心で感じるプロセスは見えているものをそのままではなく自分の中に取り込んで、自分の思いやフィーリング、と調和させながら形を整えたり彩色を進めて行く、つまり絵を創って行くセンスではないかと思う。絵はセンスなりと言い切れるものではないとしても、絵の持ち味は心の感じ方の表わしようであると思う。その光が美しいと思うのは、光が美しいのではなく美しいと感じる感性を持ち合わせているからである。

然しこの持ち合わせは天性的なものだけでなく永年のうちに、身についてきたものである。
絵はその人の個性や人柄が投影されたものなので千差万別であって面白いのであり、皆がマチスの色彩に染まり、モネの光と影を描写し、ゴッホのデフォルメに追随したらどうなるだろうか。
私たちは画匠の模写に明け暮れる画家の卵ではないのだから、実戦で自分なりに楽しみ、その積み重ねで何かを会得してゆくこと以外にない。


最近抽象の対極として新しい細密の流れが戻ってきているように感じるが、これは技巧の問題であり心の感じ方とは異次元の問題である。画学生のように石膏をリアルに忠実に描く必要はないのである。絵は自由なもので石膏をコピー的に写しとれなくても絵は描けるし、感性は磨かれ、楽しむことが出来る。つまり絵は無免許で運転できるのである。



今日はいつもより拘りがなく、すっきりと爽やかに描けているという評価軸(見た目の物差し)で絵を眺めてみると見えてくるものがあるはずである。
いいなと思える絵の条件はモチーフを限定して単純化した構図であることを忘れないことである。あれこれ描くと絵は複雑になるだけで難しいし、鑑賞する人の心も捉えられない。
気持ちにはやって画面を満たしたときに絵の完成度が高いとはいえないのである。
単純ということが単純には行かないところに絵の面白さがあるのかもしれない。


三番目の“手で描く”というと当たり前のことを・・・と思うかもしれない。然しそうではなくこれは技法や絵画技術のことだと解釈すべきである。明暗、濃淡、、混色、にじみ、ぼかし、たらしこみ等あらゆる水彩画の中で勉強し習熟するしかないジャンルに他ならない。
先の“心で感じ”・・・は覗き込めない世界であるが、この手で描くことこそ指導者の真価が問われる要素だと思う。自分の持っている過去の経験則、身についた描き方をその人に応じて惜しみなく教えて行くことに尽きる。受け取る側はいいとこ取りでも良いから吸収することに欲張りであったほうが良い。


指導者のデモンストレーションでステップに合わせて、描き進んで行くやり方は理屈を超えて実践的なので有効であるような気がする。英語のレッスンで“リピート アフターミー“というのと同じである。
私自身の勉強にもなり、最近取り入れている教室スタイルである。一つでも、ああそうか!と思って取り入れてくれれば良い。ただこの方法の欠点は大勢の人を対象に出来ないところである。 シマンドル(アメリカの女水彩画家)や右近としこ(人気画家)は数十人のクラスでもこのデモ方式を取り入れているというがどんな方法で進めてゆくのか。拝見したいものである。

私は子供の頃、田舎の野山でトンボ、ヤンマ採りに熱中し、小川のフナ釣りに興じていた。はぜの木にかぶれ顔を腫らしらしながら標本箱に飾る昆虫採集に余念がなかった。
この田舎町ではどの家庭も家で勉強する風習はなかった。子供は風の子で暗くなるまで外で遊びまくり、さしてご馳走でない食事をたらふく食べて、日記も書かないで、絵本、漫画、少年誌、冒険物語などを読みふけりその場で寝入ってしまった。
こんな環境から突然小6で東京に転居したときはまさに驚天動地の世界に投げ出された思いであった。


子供の頃未だ感性が白紙の頃どんな環境でどんな生き方をしていたか。これは絵の感性につながっている様な気がしてならない。自分の思いの原風景がそこにある。
今でも古い田舎町を描くのがこよなく好きなのはその風景や雲やせせらぎが美しいと思う子供の頃の感性に昇華してしまうからであろう。


感性とはそんなものかもしれない。事象に対する考え方や理解力とは自ずと異なるのである。偏差値とも無関係である。私は秀才で絵の上手かった友人と出会ったことがない。
これは絵は左脳ではなく右脳に司どられているという説の裏返しかもしれない。
頭の固まった人や話下手でも絵を描きだすと自由度が高まり人柄が明るくなる人が多い。
然し夢中になりはまり込んでしまう人もこのタイプに多い。ただものでない或る人は毎日朝から夜まで絵を描いて、自由時間は食事だけ、高名な先生について100号の大作に挑み4年で大きな公募展に入選した人がいる。これは楽しみではなくもはや制作の苦しみであろう。
庭にアトリエを作り、母屋から食事を運ばせ、ひたすら制作に没頭したせいか自律神経がおかしくなり、体調不調から病気になった人もいる。
ある作家は大きな会派から離れ生き様を取り戻したという。そして日展に入選した。


つまり絵が生業のプロでもないのに疲れて病気になるまで絵を描くべからず。過ぎたるは及ばざる如しのたとえ通りである。



美術館めぐりのゆるゆる旅が夢である。
NYのメトロポリタン、ボストンのボストン美術館、パリのオルセ、オランジェリー、マルモッタン、ロンドンのテイト、ナショナル、アルバート、マドリードのプラドなど忘れがたく幾度訪れても感動に包まれ、魅力に満ちに心の旅となる。

まあこれは見果てぬ夢ということにして、まず今年は大原美術館(倉敷)への再訪をと考えている。
セザンヌ、モネ、ルノアール等印象派の作品も多く展示されているが、お目当てはセガンティーニの「アルプスの真昼」である。(彼はアルプスの山々を描くために山小屋を移り住んだが41歳で病死した。サンモリッツに美術館がある。)

ついに11回目のイギリススケッチ旅の準備に取り掛かった。1年後のことであるがフライト、ホテルの候補を絞りつつある。今回は北湖水地方と小さな港町を訪ねる810日の旅である。
一行12名ほどのパーティで手作りの旅を楽しむ。コッツウォルズが中世の田舎町だとすると湖水地方はスケールの大きい自然の景観である。
おそらく打ち止めのラスト ジャニィーとなるだろうから今からその想いは広がる。
以上

5回にわたって「絵の迷い道」を書いてきました。趣味として水彩画を描いている方には私の体験とコメントを伝えてきましたが、ここはというところをメモにしておいて頂くと役に立つかもしれません。このエッセイを読んでこれから水彩画をはじめてみようかなと思う方がおられたら迷うことなく「絵の迷い道」に入ってみてください。 面白くなりやがて戻り道がないことをお気づきになるかもしれません。その責めは負いかねますのでどうぞよろしく)